朝倉家3代を支え続けた大黒柱・朝倉宗滴

戦国時代の人物録
朝倉氏の本拠・一乗谷城跡地

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朝倉宗滴の誕生と立ち位置

応仁の乱終結と共に誕生

今回の記事の主役である朝倉宗滴(そうてき)は、文明9年(1477年)に越前の守護大名・朝倉孝景の末子(八男)として生を受けました。同年に応仁の乱が終結してはいますが、まだまだそこら中で火種が残り続けており、この時期から戦国時代は本格化し始めています。ちなみに「宗滴」という名は法名、つまり仏教徒としての戒名であり、本来の名前は朝倉教景(のりかげ)です。

朝倉家の後継者?

実は「教景」という名は朝倉家では特別だったらしく、宗滴の曾祖父・朝倉教景、祖父・家景、父・孝景が改名する前に名乗っていた(いみな、下の名前のこと)だったりします。つまり朝倉家の当主は代々「教景」を一旦名乗ってから改名しているので、少なくとも朝倉宗滴は後継候補者として扱われていたものと思われます。

朝倉宗滴の肖像
画像クリックで引用元の「戦国時代で逢いましょう」さんへ

まあ今も昔も同じなのでしょうが、後継者争いはどこの組織でも悩みの種でしかないため、末っ子にわざわざそれっぽい名前を与えること自体が異常です。当時の慣習としても「長子相続」は常識だったようで、だからこそ宗滴の扱いは異例中の異例というヤツで、それ程に期待感のあるお子さんだったのでしょう。

越前を縄張りとしていた朝倉氏とは

移住して管領家・斯波氏の家臣に

ここで一旦、朝倉宗滴が所属する朝倉家について簡単にご説明したいと思います。

朝倉氏は平安時代に武士団を構成していた日下部氏から分かれており、元は但馬国(現在の兵庫県北部)に土着していた豪族です。その但馬朝倉氏からさらに分かれた一族が越前国(現在の福井県)に移り住み、室町時代きってのエリートである越前国の守護大名・斯波氏(しば)に仕え始めました。

つまり朝倉宗滴が生まれた頃の朝倉氏はただの家臣でしかなく、立ち位置的には管領家である斯波氏の足元にも及びません。戦国時代末期にはかなり上から目線の外交を繰り広げている朝倉氏ですが、応仁の乱が始まった頃にはまだそんなモンです。

戦乱に紛れて越前国を乗っ取る

10年にも及ぶ応仁の乱の最中、朝倉宗滴の父・朝倉孝景は無類の強さで勝ち続け、朝倉家の地位を着々と向上させ続けました。そして朝倉孝景は戦乱のドサクサに紛れて越前国を乗っ取り、斯波氏を追放して領国化にしています。

この時の斯波氏は当然ながら反撃してはいるものの、朝倉孝景は周到な根回しで多くの味方を作っていたため、コテンパンに負けてしまいました。しかもこの後に室町幕府から正式に越前守護に任命されていますので、朝倉孝景の根回し力によって朝倉氏は戦国大名への道を切り開いたと言えるでしょう。

実は織田家も元は斯波氏の家臣

ちなみに越前斯波氏に仕えていた他の氏族として、かの有名な織田信長の織田氏も含められています。当時の斯波氏は越前国だけでなく尾張国(愛知県北部)も守護を務めていたのですが、まあ飛び地になっていたので織田氏が守護代(そのまんま守護の代理です)を任されていました。

その後の織田氏も尾張国を乗っ取って大名化していますので、斯波氏は朝倉氏・織田氏にダブルで領土を持ってかれた切ない氏族だったりします。そして戦国時代が末期に差し掛かった頃、織田氏は織田信長というモンスターを輩出、日本全国に大きな衝撃を与えることになります。

朝倉家3代を支えた朝倉宗滴

4歳で父・朝倉孝景を失う

宗滴が生まれた時期は、ちょうど元越前守護の斯波氏や守護代だった甲斐氏との抗争真っ盛りの頃でした。当時の朝倉家当主・朝倉孝景は戦に滅法強く、幾度となく斯波氏と甲斐氏を打ち破り、斯波家当主・斯波義敏をも越前から追い出すという快進撃を見せています。斯波義敏は朝倉孝景に追われて京都に逃げ込んでいますが、息子・斯波義寛は甲斐氏と共に反撃の軍を差し向けました。その対戦の最中、朝倉家の勃興に尽力した孝景が病気で亡くなってしまいます。

長年豪腕で家を引っ張り続けた孝景が亡くなったため、朝倉家は後継者を選出する必要に迫られることになります。この時の朝倉宗滴はわずか4歳であり、長男以上の異常とも言える待遇を受けてはいたものの、当然即戦力にはなりえません。そのため宗滴が家督を継ぐことはなく、兄となる氏景が後を継いでいます。孝景の死がこの10年後であれば話も違ったのでしょうが、4歳児にこの苦境の打開を託す判断は誰にもできなかったでしょう。

孝景の後を継いだ朝倉氏景は父譲りの豪腕で戦況を打開し、また朝倉家による越前国の統治を幕府や他国にまで認めさせています。こうして朝倉氏は越前国を拠点として、戦国大名への道を歩み始めます。

朝倉家を揺るがす敦賀の乱にて

朝倉氏景が病死すると、氏景の長男・朝倉貞景が家督を継いでいます。ですが家督を継いだ当時の貞景はまだ13歳という若さだったためか、朝倉一族を始めとして家臣達から「ナメられる」という、割と戦国あるあるな状況に陥ってしまいます。こんな頼りない主君ではやっていけない、という想いが募り募った文亀元年(1503年)、朝倉家一門衆である朝倉景豊の謀反・「敦賀の乱」が勃発します。

朝倉景豊の姉妹は朝倉一門に多く嫁いでおり、朝倉宗滴も同様に景豊の妹を正妻として迎えていました。妻の兄という縁のある人物が謀反の首謀者ということで、宗滴は豊景一派に加わると考えられていました。しかし宗滴は豊景の誘いを断るために幼少期を過ごした竜興寺で出家し、この謀反を当主である朝倉貞景に密告します。これによって豊景一派の計画は破綻し、豊景が自害することで謀反は未遂のまま決着しています。この功績によって宗滴は金ヶ崎城の城主となり、朝倉領で最も京都に近い敦賀郡の郡司に就任しています。

朝倉宗滴ここにあり!九頭竜川の戦い

朝倉宗滴の名を天下に知らしめたのは、永正3年(1506年)に起きた加賀一向一揆との戦でした。

当時の情勢としては明応の政変から引き続き、元将軍・足利義稙と管領・細川政元の敵対関係は続いていました。朝倉家は明応の政変後に足利義稙を匿ったことがあるという経緯もあり、義稙側に味方し細川政元とは敵対する姿勢を示しています。それに加えて北陸の守護大名達もこぞって義稙を支援する声明を出していたため、細川政元はこれらの大名を牽制するために浄土真宗と手を結び、北陸各地で一向一揆を起こすよう要請しました。

明応の政変についてはこちらからどうぞ。

朝倉家の前に現れた一向一揆勢にはかつて敵対していた甲斐家の残党も加わり、総勢30万人という凄まじい大軍に成長していました。一向一揆軍と九頭竜川を挟んで布陣した朝倉宗滴は、1万6千という数の上では比較にならない兵力で立ち塞がりました。

いざ戦いが始まると局地的に小競り合いが起こっていますが、夜半になって宗滴は突然九頭竜川を渡っての本陣奇襲を決行、この夜襲が見事にハマって一向一揆勢は加賀へと撤退していきました。宗滴はその勢いのまま敵の拠点にまで攻撃を仕掛け、吉崎御坊という浄土真宗の寺院を占拠するとすぐさま破却しています。この九頭竜川の戦いは朝倉家をピンチから救っただけでなく、大軍を寡兵によって撃ち破った宗滴の名を日本全国に知らしめることとなります。

現代の九頭竜川・ものすごく水が澄んでます

浅井家との固すぎる絆

北近江の浅井亮政からの援軍要請を受けた際には、朝倉宗滴はすぐさま小谷城へと出向き戦いに身を投じています。浅井家はもともと北近江の守護大名・京極氏の家臣であり、お家騒動に乗じて領土を乗っ取った、いわゆる典型的な新興の戦国大名です。ですが当然領土を奪われた京極氏は奪還を考え、南近江の守護大名・六角氏の助力で浅井亮政を攻撃していました。

宗滴は小谷城へ到着すると、まずは城の一角に堅固な防衛施設を建築し、簡単には落とせないぞというアピールから始めました。そして攻めあぐねる六角軍に対して第三者として仲介役となり、無条件の和睦を成立させています。この大ピンチを救われた浅井亮政は大いに宗滴に感謝し、以後朝倉家と浅井家は固すぎる絆で結ばれることになります。

この出来事から約40年の後、亮政の孫となる浅井長政は織田信長の妹・お市の方を正室に迎え、織田家の同盟国として親密な関係を築き上げていました。ですが織田家と朝倉家の戦いが始まると浅井長政は即座に信長を見限り、金ヶ崎の戦いで朝倉家と共に織田軍を攻撃しています。浅井長政が妻の兄、そして織田家との親密な関係をもかなぐり捨てて朝倉家に味方した理由は、ひとえに宗滴への恩に報いるためだったとも言われています。最終的には浅井家朝倉家ともに、織田信長によって滅亡させられています。ということは、浅井家を存続させたのも宗滴、滅亡させたのも宗滴、なんて考え方もできてしまいますね。

浅井・朝倉家、そして室町幕府滅亡の場面はこちらからどうぞ。

お市の方についてはこちらからどうぞ。

朝倉宗滴転戦の中で死す

その後京都で両細川の乱が勃発すると、将軍足利義晴と管領の細川高国の要請ですぐさま上洛、三好之長と戦い勝利を収めています。また畠山氏や越後の長尾氏など各地の大名家とも親交があったようで、特に長尾景虎(後の上杉謙信)とは加賀一向一揆で共闘を演じています。宗滴の、というか朝倉家のスタンスとしては、領土拡張はあまり狙わずに他大名家との協調を意識していたように思われます。他の大名からすれば困った時に頼りにできる、実力のあるバランサーといったところでしょうか。当主が朝倉義景に代替わりしても宗滴は相変わらず、軍事の責任者を努めながら外交に政治にと思うさま辣腕を振るっています。

細川氏だらけの戦い・両細川の乱についてはこちらからどうぞ。

そんな宗滴の御年79歳、普通なら隠居していてもおかしくない年齢でも出陣しています。相手は何度も戦った浄土真宗勢力、加賀の一向一揆との戦いに自ら足を運んでいます。今回も越後の長尾軍と連携しながら加賀に入ると、たった一日で南郷・津葉・千足の城を攻略するという名将ぶりを発揮しています。ですがそこから一向一揆の反撃があり、一進一退の攻防を繰り広げている中で病に倒れてしまいます。朝倉家の本拠・一乗谷城に運ばれた宗滴は、手厚い看護の甲斐なくそのまま永い眠りについています。

宗滴の死はすぐさま知れ渡り、近隣諸国の情勢に大きな影響を与えています。特に第二次川中島の戦いで武田信玄と戦っていた長尾景虎は、加賀の一向一揆を抑えていた宗滴がいなくなり、即座に和睦の道を模索し始めています。宗滴によって名門と呼ばれるまでに成長した朝倉家は、ここから家臣や一族間の内乱、そして周辺諸国からの侵攻でズルズルと衰退し続けます。「大黒柱を失う」なんて慣用句が世間にはありますが、朝倉宗滴ほどこの言葉を体現した人物はいないのではないでしょうか。

朝倉宗滴の名語録

朝倉氏という名門を背負っていた宗滴は、後世の朝倉家臣達のために、自らの考えと経験を綴った『朝倉宗滴話記』を残しています。有名な一説に、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候(武者とは犬と言われようと、畜生と言われようと、勝つことが大切だ)」があります。

また、「巧者の大将と申は一度大事の負(おくれ)に合たるを可申哉 吾々は一世の間勝合戦計にて終に負に不合候間年寄候へ共 巧者にては有間敷事(名将というのは、一度大きな負け戦を経験し、それを乗り越えた者を言うべきだ。私はこれまで勝ち戦ばかりで、大きな負け戦もなくこの年まできてしまったから、名将とは言えない)」と、謙遜とも自慢とも取れそうな言葉も残しています。

その他にも、「陣取りをする際は晴れの日ばかりでなく、雨の日も想定して行うこと」や「平城や山城を攻める時は、無理に攻めると兵を見殺しにするハメになるからなるべく避けること」など、実戦経験の中で得た知識を武将の心得として記しています。

朝倉宗滴による人物評

政治・軍事、そして文化面にも長けていた朝倉宗滴は、同世代に生きた戦国大名達の人物評価も残しています。特に大名達の家臣の使い方については関心が高かったようで、情報の行き来が少ない戦国時代でも他国についてよく調べ上げています。当主に近い存在として外交にまで豪腕を振るい続けた宗滴は、他国の情報収集も欠かさず行い、また統治状況から他大名たちの性格や能力を推測し続けたのでしょう。

人使いの下手な大名の例として土岐頼芸・大内義隆・細川晴元を挙げ、また人使いの上手な大名としては今川義元・武田信玄・三好長慶・長尾景虎(後の上杉謙信)・毛利元就・織田信長を挙げています。当時すでに大きな声望と領土を得ていた今川義元や武田信玄、また室町幕府を完全に牛耳っていた三好長慶についての評価は妥当ではありますが、そうそうたる面々の中に織田信長が入っていることに驚きを隠せません。

特に織田信長についての関心は宗滴にとって大きかったようで、死の間際にも「あと三年生きていたかった。命を惜しんでいるのではない。織田上総介(信長)の行く末が見たいのだ」と言い残したとされています。宗滴は各大名から「大うつけ」と評され、当時まだ20歳そこそこでしかない信長の才能を見抜いていたのでしょうか。朝倉宗滴の死没年となる1555年までの信長はさしたる業績を挙げておらず、評価がV字に急上昇する「桶狭間の戦い」は宗滴の死から5年後に起きています。「英雄は英雄を知る」なんて言葉が頭にチラついてしまいますが、高い分析能力を持った宗滴ならではのセリフと言えるでしょう。

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