良い人すぎる織田家最古参の猛将・柴田勝家のエピソード

太陽と柴田勝家 戦国時代の人物録
良い人な雰囲気の柴田勝家さん

軍事に一生を費やした生粋の軍人

織田家の先鋒を務め続けた柴田勝家

織田信長の家臣として数々の名将がズラリと顔を並べていますが、柴田勝家はその中でも際立って大きな武功を挙げた武将と言えるでしょう。とは言え勝家は織田信長に仕え始めた当初は信頼されていなかったようで、初期の桶狭間の戦いや美濃攻略戦には参戦せずに留守番させられていたりします。

ですが織田信長の信頼を得た後には織田軍の主力として活躍、京都上洛戦姉川の戦いなど主要な戦いにはほとんど参戦しており、特に京都上洛における戦いでは全て先鋒を努めて大戦果を挙げています。戦場における先鋒は最初に敵とぶつかる大切なポジションということで、当時の常識として信頼度の高い部隊が任命されていましたが、先鋒を任され続けた柴田勝家はこの時点ですでに信頼を勝ち取っていたのかもしれません。

多くの人々に認められた武将としての能力

その活躍ぶりは織田家の中だけでなく世間的にも評判だったようで、柴田勝家は様々な異名でも呼び表されています。無骨で武勇に優れていたことから「鬼柴田」、また戦場でのあまりに凄すぎる突進力から「かかれ柴田」、そして「瓶(かめ)割り柴田」なんてパッと聞いただけだとよくわからない異名も付けられています。この異名は勝家の部隊が城で孤立した際、最後に残った水瓶(みずがめ、水を貯めておく容器です)を自ら割って兵の奮起を促したエピソードに由来していますが、この無謀とも言える行動はなぜか成功し、勝家だけでなく多くの将兵が無事に包囲を突破し帰還しています。

勝家の能力を高く評価したのは信長や同僚だけでなく、当時来日していたポルトガル人のキリスト教宣教師ルイス・フロイスも「柴田勝家は日本で最も勇猛で、一生を軍事に費やした武将」という評価を出しています。またルイス・フロイスは優れた武将としての姿だけでなく、勝家の宗教観というか性格についても書き残しています。

ルイス・フロイスや彼が書き残した書籍「日本史」についてはこちらからどうぞ。

柴田勝家のサッパリとした公平な価値観

異国の宗教・キリスト教も平等に

ルイス・フロイスは柴田勝家が統治している間の越前国(福井県西部)にて、キリスト教を布教していた期間があります。この時点ですでに勝家と面識があったらしく、ルイス・フロイスは布教活動を始める際に勝家に面会し、活動許可をとりながら布教の展望についても相談しました。すると勝家は「お前ら宣教師の頑張り次第でしょ」的なことを伝え、布教について一切妨害しないことについても約束したそうです。

新発田勝家は当時の武士としては非常にポピュラーな禅宗信者ではあったのですが、禅宗以外の仏教宗派に対して特に偏見を持っていなかったようです。そのためかキリスト教という異国の宗教についても偏見などなかったらしく、「布教はいいし妨害もしないけど手助けもしませんよ」という非常に公平なスタンスをとっていました。

民心が荒れた地域もしっかり統治

越前国という土地は朝倉家が滅ぼされた後、織田家に従属した魚住景固や富田長繁といった旧朝倉家の家臣によって統治されていました。ですが魚住景固は富田長繁に、そして富田長繁は浄土真宗勢力の前に倒れており、短期間の間に統治者が入れ替わり続けた安定感のない地域だった訳です。

越前の狂犬とも呼ばれる富田長繁についてはこちらからどうぞ。

そんな地域において勝家は浄土真宗との戦いを制し、ようやく越前国の領有に至りました。つまり浄土真宗にとってただの侵略者だったはずなのですが、不思議と柴田勝家が領有した後は大きな一揆が起こっていません。また柴田勝家の側にも特に浄土真宗を弾圧した記録などないため、荒れ果てた越前国の人々の心をガッチリ掴んでいた可能性が高い気がします。この後の勝家は越後国(新潟県)の上杉謙信との戦いに臨むことになりますが、越前国は勝家の軍事行動を下支えする安定した領土となっています。

柴田勝家はずっとお市の方に惚れていた説

数々の功績を挙げ武名を鳴らした柴田勝家ですが、不可解なことに晩年まで「正妻」を迎えることはありませんでした。当時の戦国武将にとって後継者を残すことは当然中の当然であり、むしろ家名を残すための義務だったと言っても過言ではありません。そのために各武将はできる限り血筋の良い女性を「正妻」とし、血統という観点からもより良い後継者を残そうと腐心していた訳です。

そんな中で勝家の「正妻を迎えなかった」ことはどちらかと言えば異常行動であり、家名を残す気がなかったのかなと思えてしまいます。そんな勝家にもしっかりと妾はいたようで、一応男児を2人授かっており、女性に全く興味がなかった訳でもなさそうです。ですが勝家は家臣から5人もの養子をとっており、家名の存続も意識していたフシもちょっとだけあるということで、もう全体的に辻褄が合っていない感が満載です。

ここからは筆者の推測ではあるのですが、ひょっとして勝家は織田信長の妹・お市の方に惚れちゃっていたのかなと思っています。勝家は立派な身分ではあれど織田家の一家臣でしかないため、主君の妹に対してどうこうできた訳もありません。ですが「正妻を迎えない」ことで自身の想いをアピールし続け、信長の気まぐれを待っていたのかな、と考えています。

織田家の後継者と後見役を決める清州会議では、勝家はひたすら羽柴秀吉の後手に回り続け、立場と領土的に不利な状態が決定してしまいました。ですが唯一お市の方との婚姻という「成果」だけは手にしており、これがあったからこそ勝家はギリギリの線で納得したのでしょう。この会議には勝家との関係が長かった丹羽長秀も参加していたため、勝家の気持ちを知っていたからこその決定だったとも考えられますよね。実際に勝家が清州会議の決定にどのような感想を抱いていたかはわかりませんが、案外満足していたのかなとも考えております。

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寝返った前田利家をも許した人情家

羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いが始まる前、前田利家はどちらに味方したらと途方に暮れていたそうです。前田利家にとっては長年の親友と長年仕えたボスの対決ということで、むしろ「いいからケンカしないでくれ」という気持ちの方が強かったのではないでしょうか。結局前田利家は羽柴秀吉に味方することを決意、柴田軍の1部隊を預かる形で出陣してはいますが、利家は戦いが始まるや否や自身の持ち場を放棄して撤退しました。この利家の行動によって開幕から柴田軍は劣勢となり、勝家の敗北を決定づけています。

この戦いが終わってからの勝家は、自身の居城・一乗谷城に撤退する前に前田利家を訪れました。この時の前田利家としては「合わせる顔がない」といったところでしょうが、そんな利家に対して勝家は責める素振りは一切見せず、「長年仕えてくれてありがとう、秀吉との縁を大切にするように」というセリフを残して立ち去ったそうです。利家からすれば真っ二つにされても文句を言えない立場だったのですが、むしろ勝家は利家に感謝と心配の言葉を投げかけた訳ですね。この出来事は柴田家が滅んだ後も生き残った家臣が記録に残しており、また前田家側の記録にもキッチリと残っているため、このエピソードの信頼度はかなり高いと思われます。後に前田利家は豊臣政権における重鎮・五大老となっていますが、意外と勝家の言葉に従ったからこその結果なのかもしれませんね。

前田利家を含む五大老についてはこちらからどうぞ。

お市の方と家臣達と共に北ノ庄城で自害

賤ヶ岳の戦いに敗北し行き場のなくなった柴田勝家にとれる行動は、もはや「武士らしく誇り高い切腹」しかありませんでした。この時の勝家は前田利家だけでなく裏切った家臣に対する恨み言を一言たりとも言うことはなく、ただここまで付き従った家臣に対してのみ感謝の気持ちを述べたとされています。また家臣達には殉ずることを強要することはなかったようで、実際に城から脱出する者や羽柴秀吉に降伏した者も結構いたようです。ですが勝家と共に自害したいという家臣もやはり多く、80人もの家臣が勝家とともに亡くなっています。

勝家の考えとしては切腹するのは自分だけでよく、妻であるお市の方と3人の娘達は生き延びさせたいと考えていたようで、一乗谷城からの脱出を提案したそうです。ですがお市の方は勝家の提案をキッパリと拒否、最後の時間を勝家と共に過ごすことを選択しました。とは言えお市の方は浅井長政との間に生まれていた3人の娘は助けたかったようで、羽柴秀吉に降伏する家臣に娘達を預け、2人は城に火を放ち自害しました。

織田信長の先代・織田信秀の代から仕え続けた勝家にとって織田家は人生の全てであり、織田家の躍進に合わせて勝家自身も成長しました。その織田家を代表するお市の方と共に迎えた最期もまた、勝家の運命なのでしょうか。ですが60歳を越えてやっと長年の想い人を手に入れたと考えれば、むしろ勝家の人生はお市の方のためにあった、とも感じられます。

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