北条政子の夢買いの末路は

鎌倉時代の人物録
北条政子と源頼朝像

北条政子が妹から買い上げた「夢」

平安時代末期頃の風習というか俗習として、「夢買い」という考え方が存在していました。現代でも睡眠中の夢は占いの判断材料になったりしますが、それは当時としても同様だったようで、さらに不吉な夢・良い夢を他人に譲り渡せるという考え方があったようです。この夢の譲渡という発想はさすがに当時としても真剣なものではなかったのでしょうが、ちょっと不思議で面白い考え方ですよね。夢という現実味のないメルヘンチックな話題で、当時の女子達はキャッキャしながら夢をやり取りしていたのでしょう。

北条政子という鎌倉幕府創立者の妻となった女性には、妹から「夢買い」で吉夢を受け取ったという逸話が残されています。妹から「太陽と月を手で掴む夢を見た」という話を聞いた政子は、「その夢は災いを呼ぶ夢だから私に売っちゃいなさい」ということでその夢を買い取りました。ですが政子はその夢が最高の吉夢であることを知っており、妹を騙す形で夢買いしたとされています。吉夢を買ったからなのか、あるいは容姿や性格によるものなのかはわかりませんが、その後の政子は源頼朝の妻となり、鎌倉幕府という武家政権でファーストレディの地位を手に入れています。

ですが頼朝の死後は幕府内の政権闘争が激化し、それに巻き込まれる形で政子の息子は2人とも不慮の死を遂げています。また娘たちも若くして次々と病で倒れているため、実は政子の子供達は全員政子よりも先に亡くなっています。最後の息子となった源実朝が命を落とした後に尼将軍として鎌倉殿を代行したため、皮肉なことに子供を失ったことで幕府内最高の地位を手に入れました。政子が譲り受けた夢は吉夢だったのか、それとも災いをもたらす不吉な夢であったのか。それは北条政子本人にしか判断のしようがありませんが、普通では想像もできない人生だったことだけは間違いありません。

源頼朝の妻として

父の不在中にこっそり密会

平治の乱で源義朝が平清盛に敗退し殺害されていますが、当時13歳の源頼朝はなんとか処刑を免れ流罪が決定しました。流刑地は京都から遠く離れた伊豆国の蛭ヶ小島、平氏一門に味方する北条時政の監視の元で、頼朝はひっそりと流人生活を送り始めています。頼朝はこの地で将来的な挙兵を見据えつつも静かな日々を送っていましたが、罪人扱いとは言え京都からやってきた貴人、しかも堂々たる振る舞いの若者とあっては女性達の間で噂にならない訳もありませんよね。

そんな訳で頼朝は結構モテたらしく、最初は伊東祐親という豪族の娘・八重姫を妻に迎え子供まで生まれています。ですがこの婚姻は伊東祐親が京都の守備に出払っている最中の非公認だったため、京都から戻った伊東祐親は八重姫が頼朝の子を生んだことに激怒、二人を無理やり引き離し子供を殺害しました。伊東祐親からすれば気を払うべきは圧倒的な力を持つ平氏一門であるため、自分の娘が流人の頼朝の子を産んだことで目を付けられたくないといったところでしょうか。

そんなことがあっても頼朝の元には次なる女性が訪れており、この女性こそが北条時政の娘・北条政子です。政子は気付けば妻になっているというグダグダな馴れ初めではありましたが、やはりこの婚姻も北条時政が京都警護に行っている最中の出来事でした。当然帰ってきた北条時政はカンカンに怒り、二人を引き離そうと政子の他家への婚姻話を模索しますが、最終的には政子の想いに折れる形で婚姻を渋々認めています。それにしても罪人扱いのため仕方ないとは言え、毎度父親がいない間に恋愛をしている頼朝もなかなかのワルですね。

頼朝と政子を引き合わせたという異説を持つ安達盛長についてはこちらからどうぞ。

北条政子の鎌倉入りと4人の子供達

源頼朝と娘の婚姻を認めた北条時政は次第に頼朝を信頼し、頼朝の平氏打倒計画にまで肩入れし始めました。そして準備が整った2人は挙兵し近隣の平氏側勢力を攻撃しますが、石橋山の戦いで大敗北を喫し安房国への逃亡を図っています。その間の北条政子は伊豆山中に潜み、遠くへ行ってしまった頼朝の安否を心配しながら待ち続けていました。

安房国での頼朝は多くの豪族を味方に引き入れることに成功、平氏軍を富士川の戦いで関東から締め出し、鎌倉を本拠として政権づくりに着手しました。政子もこのタイミングで鎌倉に迎えられ、ようやく頼朝との結婚生活を送っています。そして政子は幾人もの頼朝の子を産み、2人の間には長女の大姫・長男の頼家・次男の実朝・次女の三幡が生まれています。

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貴族文化で育った源頼朝と地方生まれの北条政子

頼朝は政子が懐妊し目が届きづらくなったのを良いことに、伏見広綱の娘・「亀の前」という女性の元にこっそり通い詰めていました。ところが政子は鋭い勘で頼朝の浮気を見抜き、父・北条時政の妻の父・牧宗親に頼んで「亀の前」の家・伏見広綱邸を打ち壊しています。頼朝はこのことに怒りはしたものの、さすがに政子に当たる訳にもいかないということで、牧宗親の髷(まげ、頭の上で結うアレです)を切り落とすというひどい報復行為に出ました。これに対して今度は北条時政が怒って故郷の伊豆国へ勝手に帰還、そして政子の怒りはまだまだ冷めず、伏見広綱が流罪で追放されてようやくドタバタ劇の幕が下ります。

ここまで政子が嫉妬深い行動に出たことには一応の理由があり、貴族文化に染まりながら育った頼朝にとって、「一夫多妻」はごくごく自然で当たり前の慣習です。逆に地方では「一夫多妻」が完全に標準化していなかったため、政子にとってそこら中に女を作る頼朝が不誠実に見えたのでしょう。また明らかな貴族階級に生まれた頼朝との身分の差は、そこらの土豪の娘でしかない政子にとってコンプレックスだったようで、その焦りから過激な行動に出てしまったという側面もあります。実際に頼朝は他の有力御家人の娘を妻に迎えようとしたこともあったため、政子が頼朝の妻でいるために「怖い女」キャラを作った可能性も十分にあると思います。そんな男女の思惑が入り乱れる中、髷を切られた牧宗親さんと追放された伏見広綱さん、大変お疲れさまです。

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北条政子の尼将軍への道のり

源頼朝の死と長男・源頼家の鎌倉殿継承

平氏を討伐し終えた後の源頼朝は鎌倉幕府を樹立し征夷大将軍に就任、名実ともに武士の棟梁たる鎌倉殿として君臨しました。ですが将軍職就任から約7年経ったある日、落馬とも襲撃とも言われる謎の死を遂げています。北条政子は長く寄り添った夫の死に悲しみ自害すら考えたようですが、まだまだ若い子供達を見守りたい一心で思いとどまっています。

頼朝の死によって鎌倉殿の地位は、若干18歳の長男・源頼家に受け継がれました。この頼家はなかなかのヤンチャ坊主だったらしく、経験もロクにない割に独裁で幕政を仕切り、さらには御家人の妾を奪うといったこともしています。そんな頼家を見かねたのか、梶原景時大江広元など有力な御家人達は頼家から独裁権を取り上げ、「十三人の合議制」で幕府政治を執り行うよう決定しました。ですがこの決め事は幕府将軍の権威を著しく下げてしまい、締め付けの緩くなった御家人達、というか主に政子の父・北条時政と弟・北条義時による他氏排斥が始まります。

政子の長男・源頼家についてはこちらからどうぞ。

父・北条時政に長男を謀殺される

梶原景時の変で景時その人が変死すると、その3日後には合議制メンバーの三浦義澄が病死、さらに数カ月後に安達盛長も病死し、一気に3人もいなくなって合議制は解体を余儀なくされています。そこで台頭したのは源頼家の母系にあたる北条氏ではなく、頼家の乳母の父、そして妻の父でもある比企能員でした。ですがこんな状況に北条時政は黙っておらず、あらぬ罪を着せて比企能員を謀殺、さらに共謀の罪で将軍・頼家をも殺害しています。

この事件のことをどこまで北条政子が知っていたかは定かではありませんが、ある程度、もしくは全貌を把握していた可能性は高いかと思われます。3代将軍に政子の次男・源実朝が就任すると、時政は幕政を補佐するために執権という特別職を創設し、自らその座に就きました。ですが時政はその座に飽き足らなくなったのか、さらなる権力を求めて実朝暗殺計画を企てます。ですがこの計画は政子と北条義時が察知して実朝を保護、そして2人は首謀者である時政を、微塵のためらいも容赦もなく鎌倉から追放しています。

波乱の生涯を生きた北条政子の父・北条時政についてはこちらからどうぞ。

次男・源実朝を失って尼将軍になった北条政子

暗殺未遂事件から約10年後、今度は本当に源実朝が暗殺される事件が起きました。この犯人は2代目鎌倉殿・頼家の子供・公暁という人物であり、実朝のことを父から将軍の座を奪った憎いヤツと見なしての犯行だったようです。北条政子にとっては孫に息子を殺された格好になり、また2人の娘と頼家はすでに亡くなっているため、ここで最後に残った息子まで失ったことになります。

すでに出家して尼になっている政子は、行き場のない悲しみを堪える術を持っていたのでしょうか。すでに源頼朝の血筋は全て途絶えているため、鎌倉幕府を維持するためには少なくとも鎌倉殿の地位を代行する人物が必要な状況でした。ここで「初代将軍の妻」という肩書を持つ政子が鎌倉殿の地位を息子から継承、形式的ではあれど幕府の頂点に立ちました。ちなみに政子はすでに尼となっていることから、なんとなく強そうな「尼将軍」という異名で呼ばれています。

尼将軍は後鳥羽上皇に立ち向かう

将軍不在のピンチを乗り越えるために尼将軍に

尼将軍となった北条政子、そしてその弟であり2代目執権に就任していた北条義時は、次世代の将軍に就くべき人物を求めて朝廷との交渉に臨みました。源氏の系譜を辿れば皇族に辿り着くため、将軍になるべき人物の血筋として最も相応しいのは皇族となります。ということで義時はまず時の権力者・後鳥羽上皇の皇子の鎌倉入りを打診しますが、上皇は無理難題を押し付けて実質的に拒絶しました。困った義時は上皇の皇子を諦め、他の貴族を当たりはしたものの適齢の人物がおらず、致し方ないということで当時2歳の九条頼経をピックアップ、この幼子の鎌倉入りの話をまとめ上げています。

ですがさすがに2歳児に鎌倉殿を任せる訳にもいかないため、程よい年齢になるまではやはり政子が将軍代行を務めることで決定しています。ですが幕府の存在を邪魔と見ていた後鳥羽上皇は、この正式な鎌倉殿不在をチャンスと捉えて行動に出ました。上皇は関東に散らばる武士や御家人を勧誘し、ある程度味方が増えたところで幕府討伐の命令を下しています。

承久の乱で御家人達を奮い立たせる

突然の敵、しかも後鳥羽上皇という皇族の討伐令を向けられた鎌倉幕府は大混乱に陥りました。ですが多くの御家人達が身の振り方を考え始めたその頃、尼将軍たる北条政子は御家人達を一堂に集め、威風堂々と大演説を披露しました。

「源頼朝公から受けた恩は山よりも高く海よりも深い。上皇の近臣が嘘を報告し、本来の道義から外れた命令が下された。近臣達を打ち取り、源実朝の意志を全うせよ。ただし、上皇に味方したい者はすぐに申し出て向かうが良い。」

この演説は御家人達の心にスマッシュヒットし、鎌倉を裏切ろうとしていた御家人ですら想いを翻すほどだったとされています。実際に朝廷代表の後鳥羽上皇に味方した御家人は非常に少なく、戦力的な優位は完全に幕府側に傾いていました。それに加えて大江広元は防衛戦略ではなくむしろ京都へ攻め上る戦略を提案、引け腰の防衛ではなく勝ちに行くという姿勢が軍の士気を後押しし、幕府軍は一気に京都の制圧に成功しています。

承久の乱に立ち向かった北条義時についてはこちらからどうぞ。

最愛の息子の隣で静かに眠る

承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は流罪に処され、京都の市街には朝廷を監視するための幕府機関・六波羅探題が設置されました。このは源頼朝の血筋が途絶えた後、一御家人でしかなかった北条氏が新たな支配者の地位を盤石にした事件でもあります。ですがこの苦難の時を乗り切った2代執権・北条義時も、乱の収束から3年後に病のため急死し、北条政子は最後に残った弟にまで先立たれてしまいました。

義時の後継を巡って今度は北条氏族内での内紛が起きかけましたが、3代執権には義時の長男・北条泰時が相応しいと考えていた政子は、対立候補の支持者を説き伏せ、無事に泰時が執権に就任しました。泰時は母親の家柄が低い長男という微妙な立ち位置だったのですが、政子はその清廉潔白な性格を高く評価していたようで、結局政子のゴリ押しによって泰時に決定しています。政子からの期待に応えるように泰時は幕府の発展に寄与、「御成敗式目」を制定し安定した政権を作り上げています。

北条泰時についてはこちらからどうぞ。

義時の死から一年後、政子は最後まで夫が打ち立てた幕府に尽くし続けた後に亡くなりました。政子が息を引き取る瞬間に思い描いたものは、尼将軍として御家人達を従えた日々だったのか、それとも夫や子供達との思い出だったのでしょうか。幼き日に政子が妹から買い上げた夢が叶ったかは誰一人としてわからず、それは政子本人のみが知るところでしょう。神奈川県鎌倉市にある寿福寺には、北条政子とその最愛の息子・源実朝の墓所がひっそりとした佇まいで残されています。

こちらは北条政子が源頼朝のために建てた安養院
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