もしかしたら源頼朝のお兄ちゃん・八田知家

鎌倉時代の人物録
八田知家の肖像

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイト

源頼朝の兄疑惑を持つ八田知家(はったともいえ)

八田知家の生年は1142年ということで、「鎌倉殿の13人」の中では北条時政に次ぐ年齢の人物です。知家は保元の乱でも源頼朝の父・源義朝と共に参戦、15歳という少年とも言える年齢でありながら参加しており、この戦いでもキッチリ功績を挙げています。平治の乱に参戦していたかは不明ですが、後に頼朝が打倒平氏の兵を挙げるといち早く参加、源平合戦でも源範頼・源義経と共に各地で転戦しています。

かなり胡散臭い話ではあるのですが、知家は初代鎌倉殿・源義朝の落胤だったのではないかという噂話が残っています。もしその話が本当であれば生年が1147年の頼朝よりも年上になるため、実は頼朝のお兄ちゃんだったことになってしまいます。名前の読みが共に「ともいえ」という共通点もあり、またそんなに手柄もないのに妙な出世をしているところもあるため、絶対に違うとは言いきれない説でもあります。知家に関する資料は極めて少ないため、この先研究が進んだ後もハッキリとは分からないでしょうが、実際にどうだったかちょっと気になっちゃいますね。

官位をもらって源頼朝に怒られる

治承・寿永の乱における戦いの一つ、一ノ谷の戦いで大勝利を収めた源氏軍は、意気揚々と京都に凱旋しました。当時の朝廷の権力者・後白河法皇はこの戦いにおける功績を称え、源義経に「検非違使(けびいし)」という官職を与えています。ついでに八田知家を含む数人の御家人も官位をもらっており、朝廷に認められた御家人達は満面の笑みで次の戦場へと向かったことでしょう。

ですが平氏討伐完了後にこの事を聞いた源頼朝は、御家人達が自身の許可なく勝手に官位をもらったことについて大激怒、知家を始めとして数人の御家人達は「そんなん怠け馬が道草食ってたようなものだろ!」という痛烈なお叱りを受けています。そして頼朝の怒りは弟の義経にまで及び、平氏討伐の大殊勲者に対して鎌倉に立ち入らせないという痛烈な処分を下しています。知家や他の御家人は叱られるだけで済んだのですが、義経はこの後奥州藤原氏の元に逃げ込み、奥州合戦にて藤原氏もろとも滅亡しています。この奥州合戦では知家も失点を挽回すべく、東海道大将軍という肩書を背負って参戦しています。

八田知家・鎌倉殿の13人に選ばれる

源頼朝が亡くなった後に源頼家が2代目将軍に就任すると、若い将軍をサポートするという名目で十三人の合議制がスタートしています。ここまでの八田知家にそこまで大物感は感じられず、むしろ頼朝に怒られたちょっとダメな人くらいの印象ですが、有力な御家人として「鎌倉殿の13人」の仲間入りを果たしています。この13人は言わば将軍を除いた鎌倉幕府のトップ13であるため、それ程功績のない知家のメンバー入りがちょっと不思議で、もしかしたら頼朝のお兄ちゃんに気を使ったのかな、なんて想像ができちゃったりします。

源頼家についての記事はこちらからどうぞ。

この合議制は梶原景時の鎌倉追放と死、そして安達盛長や三浦義澄の病死によってあっという間に解体してしまいますが、八田家は有力な家として存続し続け、承久の乱の3年前となる1218年に75歳で大往生を遂げています。

戦国時代の小田家は八田知家の血筋です

八田氏は藤原北家から分かれて常陸国の八田という地域に土着した一族ではありますが、知家の叔父は中原姓を名乗っているため、中原親能大江広元といった中原氏出身の御家人とも何らかの関係があったものと思われます。また八田知家の直系子孫は代々「小田」を名乗り、常陸国の名族として戦国時代まで立派に存続しています。

やたらと立派に見える小田氏治さんの肖像

ちなみに戦国時代末期の小田家当主は小田氏治という人物ですが、この大名は本拠である小田城を何度も奪われたという、不名誉な方向に有名だったりします。それでもなんとか小田城奪還と陥落を繰り返してはいたのですが、戦国の動乱の中で力及ばずついに滅亡、八田知家の系統も残念ながらここで途絶えています。

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