火縄銃の日本伝来と普及 | 2挺から世界一の鉄砲大国に

火縄銃武者 その他考察

今回の記事では、日本の戦国時代に全国的に使われた鉄砲についてのご説明をいたします。

鉄砲の伝来と普及

ポルトガル人の種子島漂着

1543年、とある2人のポルトガル人と明国の僧が漂流の末、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の種子島に流れ着きました。当時の種子島の領主・種子島時尭(たねがしまときたか)は漂着した人達を迎えながら、その異人たちが持つ2本の鉄の棒に目をつけました。種子島時尭は明国の僧との筆談を通し、その鉄の棒は何なのかを聞くと、ポルトガル人達はゆっくりと鉄の棒を持って構え、引き金を引くと轟音とともに目の前の的が砕け散りました。あまりの威力と音にビックリした種子島時尭でしたが、この鉄の棒の軍事的価値に気付き、大金をはたいて2本とも買い上げた、といった話が「鉄炮記」という資料の中に記されています。

種子島の位置

種子島時尭はその後鉄砲の生産に取り組み始め、数年を掛けてある程度の数量を複製することに成功しました。そして当時の薩摩国国主・島津貴久にこの新兵器が届けられ、1549年には加治木城攻めで初の実戦投入を迎えています。当時は飛び道具と言えば弓矢の時代であり、まだ鉄砲や火縄銃という言葉すら浸透していませんでした。そんな中でとてつもない轟音が鳴ったと思えば破壊力抜群の弾丸が飛んでくる訳で、当初はそれこそ鉄砲一挺だけでも戦場に大きなインパクトを与えたものと思われます。

ちなみに日本初の国産火縄銃には生産された島の名前がそのまま付けられ、「種子島」という名称でも呼ばれます。

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火縄銃の全国的な普及

島津家の活躍とともに鉄砲の威力が噂で広まっていくと、軍事的な価値や商品的な価値に目をつけた人々が種子島にはるばるやって来るようになります。和泉国・堺の刀鍛冶や紀伊国(現在の和歌山県)の僧などが種子島を訪れ、火縄銃を買い求めながら製造方法を学び、自国に知識を持ち帰ります。

持ち帰られた知識と現物の火縄銃を頼りに各地で生産が始まり、商品化された火縄銃は高額で取引されるようになりました。売却した利益で鉄砲の生産地は益々栄えることになり、紀伊国の根来、近江国(滋賀県)の国友や日野、そして和泉国(大阪府南西部)の堺では大規模な鉄砲生産地が形成され始めています。

近江や和泉といった地域は割りと早い段階で織田信長が領有していたため、信長の快進撃の影には鉄砲の生産地を早めに押さえたことが関係していたのかもしれません。数自体を揃えやすいことだけでなく、鉄砲という新兵器の運用方法や弱点について、他の勢力より先に知ることができたことは大きなアドバンテージとなったでしょう。

鉄砲の導入による戦術の変化

鉄砲という武器が普及し数量を揃えることができるようになると、戦場では鉄砲を集団運用する戦術が採られるようになります。

全国に出回った当初は非常に希少だったため一部の将官クラスだけが鉄砲を持ち、ここぞという場面で撃つ、という単発の運用方法が採られていました。それが段々と鉄砲の数が揃っていくにつれ各武将に少人数の鉄砲部隊が編成され、少人数ではありますが部隊での鉄砲運用が始まっています。そして数々の試行の末、ある程度大きな規模の運用が効果的なことが判明、次第に鉄砲部隊の規模が大きくなっていきました。

1575年に織田・徳川連合軍と武田勝頼の間で起きた長篠の戦いでは、織田信長は3,000挺もの鉄砲を用意して臨んだとされています。機動力のある騎馬部隊の比率が高い武田軍が相手とあって気合を入れて用意したのでしょうが、当時の日本国内では間違いなく最大の鉄砲保有勢力だったでしょう。結果的に織田軍は武田軍に勝利していますが、3,000挺もの鉄砲が戦場に与えた影響は非常に大きかったものと思われます。

織田信長・徳川家康連合軍 VS 武田勝頼が激突した長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。

経済力が軍事力に直結する時代に

槍や刀といった習熟が必要な武器とは違い、発射の手順さえ覚えれば誰でも高い攻撃力を発揮できる鉄砲は、品物さえあればお手軽に強力な兵を作ることができます。そのため鉄砲を買うための経済力がそのまま軍事力に直結することになり、大きな勢力は広大な領土から吸い上げられるお金を背景に、より大きな経済力と軍事力を持つ勢力へと成長していくことになります。この資本主義っぽい流れにタイミング良く乗れた人物こそが、戦国の風雲児こと織田信長だったとも言えるでしょう。

織田信長は日本有数の交易都市、なおかつ有数の鉄砲生産地でもある和泉国・堺を支配下に置いていたため、資金調達と鉄砲の供給量について他の勢力よりも一歩も二歩もリードし続けていました。お金の成る木と当時の最強武器の産地を押さえているのですから、そりゃ強くて当然という訳ですね。

織田信長と震えるウグイスのイラスト
そんなに強けりゃウグイスだって斬っちゃいます

交易都市・堺については、また別記事で掘り下げてご紹介したいと思います。

当時の世界最大の火縄銃保有国・日本

織田信長など三英傑が活躍した戦国時代の末期頃、日本全体での鉄砲の生産量は年々上昇する右肩上がりの状態でした。それでも需要と供給のバランスで見たら供給が圧倒的に追いついていなかったのですが、作る側からすれば飛ぶように売れる人気商品だった訳で、そうなれば鉄砲鍛冶を目指す人も増えていくのが道理ですよね。という訳で戦国時代を通して鉄砲の生産量が増え続けた結果、豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃には日本国内に50万挺もの鉄砲があったそうです。たった2挺だった鉄砲が50年後に25万倍もの数になっていた訳で、そんなことになるとは最初に売ったポルトガル人も夢にも思わなかったでしょうね。

この50万挺という鉄砲の数ですが、この保有量は当時の世界中の国々の中でもダントツの1位だったようです。現代でも便利な道具に対する日本人の執着心はかなり強い気がしますが、それは戦国時代においても同様だったのかもしれませんね。ちなみに当時の中東ではオスマン帝国が猛威を振るい、そのあまりの火力によって「火薬帝国」なんて凄い二つ名がついていますが、実は同時期の日本の方が倍近くも鉄砲を保有していたことになります。

火縄銃時代の終わり

戦国時代の間は延々と生産され続けていた火縄銃ですが、関ケ原の戦い以降には江戸幕府の統制により生産量は減少していきます。江戸幕府体制の中では火縄銃は規制の対象となり、また平和な時代が続いたため銃器が活躍する機会もパッタリとなくなります。

そして戊辰戦争では主役が西洋式の銃に移り、火縄銃を抱えて戦った幕府軍は後退の一途を辿り、そして敗北します。実際に火縄銃が活躍したと言えるのは、せいぜい50年くらいの期間だけです。戦国時代という最大の見せ場に伝来した火縄銃は、戦国時代が終わった時にはもう役目を終えていたのかもしれませんね。

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鉄砲関連の豆知識

「鉄砲」という名前の由来

火縄銃の伝来までは日本には当然鉄砲などという単語もなかったため、上の見出しでもご紹介しているように鉄砲は「種子島」という名称で呼ばれていました。ですが「種子島」が普及していくにつれ様々な呼び方で呼ばれるようになり、その中の一つが「鉄砲」という言葉だったという訳ですね。

「鉄砲」という単語については諸説ありはするのですが、どうも元寇の折に元軍が使用した「てつはう」が語源となっている説がかなり有力です。そう言えば「てつはう」も火薬を使った武器だったということで、同じ火薬を用いた火縄銃にその名前が当てられたのかもしれません。

蒙古襲来絵巻
蒙古襲来絵巻

元寇についての記事はこちらからどうぞ。

鎌倉幕府ができた頃にはすでに鉄砲が発明されていた?

元寇で元軍が「てつはう」を使っていたということは、当然その前に火薬を使った武器が発明されていたことになりますよね。実は世界で最初に鉄砲が発明されたのは中国の「南宋」であり、正確な年代こそ不明ですが、大体12世紀にはすでに存在していたようです。この時期は平安時代の末期頃から鎌倉時代の最初期に当たりますが、日本で源頼朝がワーワーやりながら幕府を樹立した頃、お隣の国ではすでにちょっとした火薬兵器が発明されていたことになります。

ユーラシア大陸をグルっと回って日本に伝来

「南宋」で開発された火薬技術は「元」も流用していましたが、その技術はシルクロードを通って中東にも伝わっています。また中東からさらに伸びたシルクロードを通してヨーロッパにも伝わり、日本の武士に相当する「騎士」の没落を誘発しました。そしてヨーロッパ諸国が世界のあちこちに出没する大航海時代が始まり、その大航海時代が終焉を迎える直前に日本に鉄砲が伝来しています。

鉄砲の伝来ルート

つまり12世紀に発明された火気の技術は、中国から中東、中東からヨーロッパ、そしてヨーロッパから日本というとんでもない伝来ルートを辿っています。最初に「南宋」で発明されてから約400年の時を経て、ユーラシア大陸の西端に当たるポルトガルから、大陸の東端からさらに東にある日本に伝わったという訳です。あまりに大きなスケールの話でちょっと頭がクラクラしてしまいますが、最後の最後に伝来した日本が世界最大の鉄砲保有国だったことも非常に興味深い事実ですね。

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