公家と公卿という単語の意味と違い
公家とは
公家(くげ)とは天皇の御所に出仕できる身分を指していますが、ざっくり言えば上級貴族の家を総称する単語です。この単語からはいかにも平安貴族っぽさを感じますが、意外にも鎌倉時代以降に使われ始めています。
そもそも平安時代と言えば京都の貴族が主役だったので、それ以外の身分の人間にスポットライトがほとんど当たらなかった訳です。そこに源氏や平氏、そして藤原氏といった武士たちが「武家」を自称したため、これに対して「公家」という言葉が用いられています。
ちなみに、この単語ではあくまで「家」を指しており、「人」を指す場合には「公卿」という言葉が用い
公卿とは
なんとなく同じに思ってしまう「公卿」という単語ですが、こちらは朝廷内で三位以上の地位を持つ人物を指す単語となっています。要するに、人を指す場合が「公卿」となり、公卿になることができる「家」を指す言葉が「公家」となります。
律令制による官職は一位から八位まで位階が定められており、「正・従」の区別、四位以下にはさらに「上・下」で序列づけされています。天皇のいる御殿に昇殿できるのは公卿だけとされているため、天皇と直接話ができる身分を持つ人物を指し、直接昇殿できるという意味を込めて「殿上人」とも呼ばれます。
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日本史における公家と公卿
公家のみが公卿に
平安時代の末期に差し掛かった頃、藤原道長を始めとする藤原北家が朝廷内で猛威を振るっていました。この藤原北家は摂政や関白といった天皇の権限を代行できる臨時職、また太政大臣といった上位の常設職をほぼ独占していました。
こういった独占状態をさらに強化するため、藤原北家は公卿になるための「家格」を設定し、大きな功績を挙げた人物を昇進し辛い環境を作った訳です。公家とはこの公卿になるための「家格」を持つ家を指しています。
鎌倉期というバランスの取れた時代
鎌倉時代には主に軍事を担当する幕府と、政務外交を担当する朝廷という図式になっていました。支配地域も幕府が主に東日本、そして朝廷が主に西日本を統治しており、意外とバランスが取れた状態が出来上がっています。
ですが承久の乱が起きたことで幕府統治が西日本にまで及び、地頭として武士が任命されると、朝廷や公家たちが持つ土地が少しずつ取られるというケースが見られ始めます。大体の場合は取られたら取られっぱなしになるため、貴族達の中には自身の土地を管理するために自ら赴き、土着して武士化してしまった例もあります。また貴族たちの中には朝廷に仕えつつも、幕府の家来として活動する者もいました。武士中心の世の中になったことで、公家たちも生き残りを賭けて色々な身の振り方で戦い抜いています。
江戸時代には幕府によって管理される
徳川家康が大坂の陣で豊臣家を滅亡させた後、日本中の武家が守るべきルールとして「武家諸法度」が制定されました。これとほぼ同時期に「禁中並公家諸法度」も制定されており、江戸幕府の支配は武家と公家、及び朝廷にも行き届くことになります。
この法令では天皇が行うべき業務の指示から始まり、皇族の立ち位置や貴族の衣服についてなど、かなり事細かく決められています。本来であれば徳川将軍家も天皇家には従うべき立場ではありますが、「決め事を一方的に押し付ける」というとんでもない法令がごく当たり前に罷り通っています。江戸幕府という武士による地方組織が、武家だけでなく朝廷も掌握していることがわかる出来事ですね。