徳川家康

安土桃山時代

関ヶ原の戦いに至るまで

豊臣秀吉という独裁者が病死したことで、大名達にダメージだけを残して慶長の役が中断されています。そんな中で秀吉から豊臣秀頼の後見を託されていた五大老の筆頭・徳川家康は、遺言のルールを無視しながら権力拡大を続けますが、五奉行の一人・石田三成が家康の横暴に待ったを掛け挙兵します。
戦国時代

いつだってギリギリ!徳川家康の三大危機

徳川家康は生涯の中でいくつものピンチを迎える破天荒な人生を歩んでいますが、その中でも特に危険度が高かった事件は三大危機と呼ばれています。三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、伊賀越えの3つの事件を一つひとつご紹介いたします。
安土桃山時代

徳川家康は羽柴秀吉との戦いに挑む | 小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉が織田信雄を安土城から追放したことで、庇護者を求めた信雄は徳川家康と同盟を結びます。家康は各地の反秀吉派勢力と結び、強大な羽柴軍との戦いに臨みます。
用語集

石高とは土地の生産力を表す評価数値です

豊臣秀吉が行った「太閤検地」以降、土地から得られる収入量を「石(こく)」という単位で表したものを指します。石高制は太閤検地から江戸時代まで使われており、明治維新の「地租改正」で完全に廃れています。実際に使用されたのは300年弱という短期間の制度ではありますが、土地面積ではなく「生産量」に着目しており、当時としてはかなり近代的な手法が採られています。
安土桃山時代

徳川四天王 傷だらけの闘将・井伊直政 | 武田の赤備えを継承した井伊の赤鬼

井伊直政は大河ドラマにもなった「おんな城主 井伊直虎」の養子として人生をスタートします。 井伊直政は15歳にして徳川家康に仕え始めると急激な出世を繰り返し、本多忠勝ら幕僚達と競り合いながら小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いでも活躍、江戸幕府設立へ向けて大きく貢献します。
安土桃山時代

生まれは微妙で器量は最高 薄幸の剛将・結城秀康 | 後継者になれなかった徳川家康の次男

母親の身分が低く、また戦国当時の価値観として蔑まれる双子で生まれた結城秀康は、次男ですが長男死後も跡継ぎという立場から除外されています。父・徳川家康との複雑な関係など、秀康にまつわる様々なエピソードをご紹介いたします。
安土桃山時代

明智光秀の謀反の理由

天下統一まで後少し、というところまで漕ぎ着けていた織田信長を明智光秀が謀反を起こした本能寺の変の理由については、研究が進んだ現代でも謎のままとなっています。怨恨説や野望説、また羽柴秀吉や徳川家康が裏で糸を引いていた黒幕説など、歴史的な事実が混ぜ込まれた様々な説が提唱されています。
安土桃山時代

安土桃山時代4 織田信長は天下統一を目の前にして明智光秀の前に散る | 本能寺の変

甲州征伐で宿敵・武田勝頼を滅ぼし、織田信長は天下統一へ大きく踏み出しています。信長は武田家討伐後には徳川家康を招いて祝宴をあげた後、中国地方攻略にあたっていた羽柴秀吉の救援に向かおうとしますが、京都で宿泊していたところで明智光秀が謀反、「本能寺の変」で志半ばにして倒れます。
安土桃山時代

安土桃山時代3 織田信長の甲州征伐

長篠の戦い以降の武田勝頼は、徳川家康からの攻撃を受け続け家臣団の統率すらままならない状態となっていました。そんな中で木曽義昌の寝返りを皮切りに、滝川一益や河尻秀隆を擁する織田信忠の軍団が一気に信濃国になだれ込みます。家老の小山田信茂にまで裏切られた武田勝頼は、天目山へと逃げ込み、長男・信勝とともに自害して果てることになります。
戦国時代

徳川四天王 本多忠勝 | 徳川家康に尽くした天下無双の忠義者

生涯で57回もの戦争に参加した本多忠勝は、その全ての戦闘でカスリ傷の一つすら負わなかったといいます。だったら後ろで指揮だけして兵だけを戦わせていたのでは?なんて思ってしまいますが、むしろ忠勝は「一騎駆け」や少数の兵での突撃というかなりの無茶もしており、スタイル的にはどちらかと言えば猪武者でしょう。