江戸幕府の将軍一覧・6代から10代まで

徳川吉宗と葵紋 江戸時代のまとめ・その他記事
徳川吉宗と葵紋

徳川家康直系の将軍たちの続き

学者・新井白石を登用した6代・徳川家宣

6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)は前将軍の過ちを素直に認め、色々と批判だらけだった「生類憐れみの令」を撤廃しました。そして、やはり政治に詳しい人物を登用しようということになり、ここで抜擢されたのが「新井白石(あらいはくせき)」という学者さんです。

新井白石のイラスト
正徳の治でお馴染みの新井白石さん

この新井白石は政治だけでなく、経済や儒学など幅広い分野に精通していたようで、次々と新たな政策を打ち出しました。その安定した政治体制は後世においても高い評価を得ており、次の7代・徳川家継の治世まで合わせて「正徳の治」と呼ばれています。

3歳で将軍に就任した7代・徳川家継

徳川家宣は51歳でその生涯を終えていますが、この時には年頃の男児は皆亡くなっており、3歳の幼い男児だけが残されています。それでもその子は徳川家康から続く嫡系の血筋ということで、想像だけでも無理そうですがなんとか元服の儀式を済ませ、徳川家継と名乗り無事に7代将軍に就任しました。

まあそれでも新井白石が側近として残っていたため、意外と幕政は崩れることなくなんとか持ちこたえていました。しかし、そうこうしているうちに徳川家継が風邪をこじらせてしまい、8歳にして亡くなったことで江戸幕府は新時代を迎えることになります。

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徳川吉宗系統の将軍たち

米将軍と呼ばれた8代・徳川吉宗

御三家の紀州藩出身

徳川家継が亡くなったことで、2代・徳川秀忠から続く嫡系の血が途絶えてしまいました。この時ようやく「御三家」にスポットライトが当たったのですが、この3つの家は嫡系が途絶えた際に将軍を出せる家柄として徳川家康が定めており、要するに予め将軍補充用の家を用意していたということです。

徳川家康と家紋・三つ葵
徳川家康と家紋・三つ葵

この「御三家」として尾張藩・紀州藩・水戸藩があったのですが、この時すでに藩主として紀州藩の藩政改革に成功していた徳川吉宗に白羽の矢が当たり、江戸城に迎えられることとなりました。この時から江戸幕府が滅亡するまで、つまり江戸時代の後半戦は徳川吉宗の系統が将軍職を独占しています。

小手調べに新井白石を追放

享保の改革でとても有名な徳川吉宗ですが、将軍に就任してまずやったことは新井白石を引退に追い込んだことです。このことには色々と言い訳があったようですが、その根本には徳川吉宗が5代将軍・徳川綱吉をものすごく尊敬していたことがあります。

つまり、徳川吉宗にとっては徳川綱吉の政策こそがベストという捉え方だったのですが、それに批判的で塗り替えてしまった新井白石を良く思っていなかった訳です。ということで、「正徳の治」はこの将軍入れ替えのタイミングで終了し、新たに徳川吉宗の享保の改革がスタートします。

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財政難を改善するための享保の改革

徳川吉宗がなぜ享保の改革に取り組んだかと言えば、それはただひたすらに幕府の財政難がひどかったからです。これに関しては新井白石にも全然罪はなく、むしろ当時ガンガン上がっていた物価に対し、年貢の取り立てによる税収が足りていなかっただけだったりします。

この財政難に対し、徳川吉宗は新田の開発や税制改革、そして米価相場の引き上げによって金蔵をパンパンに膨らましました。この他にも徳川吉宗による改革がいくつかありますので、ご興味がありましたらリンクからご確認ください。

しゃべれないけど無難に務めた9代・徳川家重

金蔵を満タンにして満足した徳川吉宗はここで引退することになり、その嫡男・徳川家重が普通に9代将軍に就任しました。しかし、この将軍は生来の病弱に加えて脳性麻痺もあり、話は理解できても発声できないという障害があったようです。

とは言え、先代・徳川吉宗と幕府機構、さらには享保の改革に携わった側近もまだまだ健在ということで、割りと普通に将軍職を勤め上げました。ちなみに、徳川家重は自身が見出した「田沼意次(たぬまおきつぐ)」をいたく気に入っていたようで、この人物を採用するように嫡男・徳川家治に強く推薦しています。

田沼意次を大抜擢した10代・徳川家治

この10代将軍に就任した徳川家治(いえはる)一番の功績は、父・徳川家重の遺言に沿って田沼意次を老中に抜擢し、さらに幕政をほぼ委任したことでしょう。これによって田沼意次は重商主義に舵を切り、江戸時代の経済を大いに発展させることになります。

田沼意次のイラスト
ワイロの香りがほのかに漂う田沼意次さん

田沼時代では株仲間の推奨、蝦夷地(北海道以北の総称)の開発と特産品の専売化といった政策が採られましたが、ここで田沼意次は流通していた商品にうす~く税を乗せるという薄利モデルで税収を増加させました。しかし、株仲間や専売制は「誰が特権を得るか」が重要、ということで商人と幕府役人の間でワイロが横行してしまい、その結果として徳川家治の病没と同時に田沼意次も政権から追放されています。

前回記事:江戸幕府の将軍、初代から5代まで

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