老中・水野忠邦の「天保の改革」

天保の改革の主導者・水野忠邦 江戸時代の時代史
天保の改革の主導者・水野忠邦

「天保の改革」に至った理由

水野忠邦は農本主義への回帰を模索する

今回の主役・水野忠邦が登場する天保年間は、徳川家康が江戸幕府を開いてから約240年後の時代です。平和な240年は海外との接触こそ限定的ではありましたが、この期間に日本の経済や文化は目覚ましい進化を遂げています。

ところが商品経済の発達は米収入を基本とする江戸幕府にとっては打撃となり、幕府財政は悪化の一途を辿りました。時の老中・水野忠邦が取り組んだ「天保の改革」はこの流れに逆らうが如く、農本主義、つまり国の土台を農業に求めるところから始まります。

農業が国の土台という意見には同意です

幕府将軍の権威の低下

これ以前の江戸幕府は「大御所政治」と呼ばれる体制で運営されていましたが、大御所とは引退後の将軍を意味する言葉です。つまり引退したハズの人がやりたい放題やっていた訳で、そんなんでは秩序もヘッタクレもあったもんじゃありません。

こういった体制は室町時代にも見られ、足利義満なんかも引退後に権力を保ち続けました。ですがこれをやってしまうと、本来であれば一番偉い人間の立場がなくなってしまう訳で、大体は秩序崩壊の入り口だったりします。

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幕府財政の悪化と歌舞伎ブーム

秩序の乱れは人々のモラル低下をも促したようで、大御所を始めとしてみんなで贅沢三昧に走り始めました。徳川吉宗の享保の改革以降、幕府財政は悪化の一途を辿っていましたが、浪費がその悪化をさらに加速させたことは言うまでもないでしょう。

そんなタルんだ空気が民間にまで伝わったのか、一般民衆達の間で歌舞伎ブームが起こり、時には騒動の発端ともなる程の過熱っぷりとなっていました。そんなご時世を憂いた水野忠邦(ただくに)が一念発起、日本の在り方を変えようと奮闘したのが今回の「天保の改革」という訳です。

「天保の改革」の主な内容

農村人口の充実を図った「人返し令」

今も昔も農業離れは深刻

農業への回帰を図る水野忠邦にとって、農村の充実はマストだったと言えるでしょう。ところが江戸時代の末期は日本経済がゴリゴリと発展した時期だったこともあり、農村からの人口流出は加速する一方でした。

農村から人が出ていけば、頭数が必要となる畑仕事が難しくなるのも至極当然ですよね。そのため農業じゃやっていけないということでさらに人口が減ったのですが、それに伴って幕府の税収もどんどん減るという悪循環だった訳です。そんな悪い流れを断ち切ろうとしたのがこの「人返し令」ということですね。

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ゴリ押ししすぎて恨みを買う

同様の政策は「寛政の改革」でも行われていますが、こちらは「お金をあげるから村に戻ってね」というマイルドなものでした。ところがこの「人返し令」は武力で強制的に江戸から追い出したため、水野忠邦は民衆から多大な恨みを買ってしまったようです。

事情があって江戸にいた人にとっては大迷惑、その労働力をアテにしていた人にとっても迷惑にしかなりません。また故郷に戻って農業に励もうにも、農地を急に用意できる訳もないので、これはちょっと現実に即していない政策だったのかもしれませんね。

物価の安定を目指した「株仲間解散令」

物価高騰の原因と見なされた株仲間

「株仲間」という単語を現代で見かけることはほぼないですが、要するに同業者組合くらいの意味となります。この「株仲間」には同業での協力による安定した物流、また個店同士の過度な競争を防ぐという目的があったのですが、場合によっては物価上昇の温床ともなっていました。

まあ仲間内で物価を決められるのであれば誰だって値上げしたいですが、上げすぎてしまえば今度は売れなくなるだけなので、実際は程よいバランスが保たれていたようです。つまり物価の高騰は品不足や貨幣価値の低下にあったのですが、物価高騰に悩んでいた水野忠邦は強制的に株仲間の解散を命令しました。

物流が停滞してやっぱり物価高騰

「株仲間解散令」が発令されると、江戸の街の経済状況はパニックに陥りました。これまでは株仲間が組織として物流を担っていたのですが、まあ解散してしまったら品不足が起きるのは当たり前ですよね。

これによって起きた品不足はインフレを招き、結局のところ物価が高騰するという本末転倒な結果に終わりました。これまで株仲間があったからこそスムーズな物流があった訳で、これによって安定していた物価は不安定化、さらに供給元で品物が余るという悲惨な状況に陥っています。これは現代でも結構言われることですが、上手くいっている仕事に手を加える、ということがいかにリスキーかを物語っている気がします。

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民衆の娯楽を制限する「倹約令」

風紀の乱れは歌舞伎から?

水野忠邦が出した具体的な政令は「倹約令」だった訳ですが、これは要するに贅沢を禁止するという政策です。ところがこの政策は異常なまでに広範囲に及び、武士の生活スタイルは言うに及ばず、民衆の娯楽である歌舞伎も対象となってしまいました。

当時の歌舞伎ブームは凄まじかったようで、役者達は現代のアイドルかそれ以上の扱いを受けていました。そのためか役者達の生活のタダレっぷりはハンパではなく、まあそこら中で浮名を流す程にモテモテだったようです。「天保の改革」ではその辺りにも規制が入ったのですが、これが誰もが想像しない弾圧レベルの取締でした。

繁華街から消えた歌舞伎座

その具体的な内容としては繁華街での興行規制などがありますが、役者の日常生活も規制がかけられており、居住地域の限定や平民との交際禁止といった条項まであったようです。これはもはや犯罪者とほぼ同じ扱いですので、ここまでしてでも大衆の娯楽を抑制しようとしていた訳ですね。

ちなみに歌舞伎役者の7代目市川團十郎は、人気があったというだけで江戸から追放されるという処罰を受けていたりします。このあまりの弾圧っぷりを見かね、恐る恐る水野忠邦に意見した人物がいました。その人物こそがテレビでもお馴染みの、名奉行で知られる「遠山の金さん」こと遠山金四郎だったりします。

遠山金志郎のイラスト
水野忠邦を諌めた男・遠山金四郎

幕府直轄領を集中させようとした「上知令」

領土を集約するために土地を取り替えっこ

当時の江戸幕府が領有していた土地は結構分散しているというか、日本全国津々浦々にちょっとずつありました。大きな土地であれば採算も合うのでしょうが、実際は僅かな土地にも代官を派遣していたため、代官の給料をさっ引いたら税収ほぼゼロの土地もあったものと思われます。そんな状況を打破するため、水野忠邦は「上知令(あげち)」という政策を発布しました。

この「上知令」は江戸や大阪近隣にある大名の領土を回収し、代わりに遠方の領土を渡すという、いわば土地の取り替えっこです。もちろん渡す土地と回収する土地の石高は同じにし、大名にとって不利にならないようにと一応の配慮がありました。これによって幕府は江戸や大阪といった大都市近隣に領土を集約させ、運営に掛かるコストを軽減、さらに行政の強化もできるという目論見だった訳ですね。

こんなほのぼのしてればいいのですが

誰からも批判を受けた「上知令」

現代でも大都市の近郊は非常に価値の高い土地ですが、それは江戸時代だって同様です。つまり取り替えっこを提案された大名にとっては、安い土地を受け取って高い土地を渡すことになる訳で、まあ納得いくハズもありませんよね。

という訳でこの「上知令」は大名達からの批判も多かったのですが、同時に幕府内でも「こんなんあり得ないでしょ」という意見が噴出していました。それでも水野忠邦は強硬にこの政策を推し進めようとしますが、内外の反対意見が多すぎて上手くいかず、これをキッカケとして失脚してしまいます。

「天保の改革」が終わって

幕府にも世間からも拒絶された天保の改革

「上知令」が猛烈批判を食らったことで水野忠邦は失脚し、結局「天保の改革」は失敗の烙印を押されてしまいました。もちろん「上知令」はすぐに撤回されていますが、「株仲間解散令」もほぼ同時に撤回されており、改革法案の大半が巻き戻されるという悲しい結果に終わっています。

水野忠邦は幕府関係者だけでなく民衆からも相当嫌われていたようで、失脚後には家に石が投げ込まれる事件もあったようです。そこまで嫌われることってあるのかなとか思ってしまいますが、逆に言えば水野忠邦はそれ程までに強硬な態度で改革に臨んでいたのでしょう。ちなみにこの数年後には幕末と呼ばれる時期に突入しますが、そこで起きたことを考慮に入れるなら、急ピッチな改革はむしろ必要だったと言えますね。

家に石投げるって相当ですよね

水野忠邦の失脚から幕末へ

これまで天保の改革での取り組みをご紹介してきましたが、この数々の失敗は水野忠邦だけのせいではないと思います。江戸時代を通じて日本経済は大きく発展しており、それに伴って社会の在り方も大きく変化しました。「変化に合わせた柔軟な対応を!」なんて意見も出るかもですが、階級社会のトップ中のトップにいた人間にそれを求めるのも酷な気はします。

この改革が失敗に終わり、幕府の権威と財政は回復しないままとなりましたが、同時期の薩摩藩・長州藩は藩政改革を見事に成功させています。天保の改革から約25年後に江戸幕府は滅亡していますが、この時期についた優劣がそのまま戊辰戦争の結果になったのでしょう。長く続いた平和の時代はもはや晩秋の雰囲気に、そしてそれは激動の時代を前にした最後の静寂です。

江戸時代の三大改革の1つ目、享保の改革についてはこちらから。

徳川吉宗と米相場の戦い、享保の改革・財政編はこちらから。

江戸時代の三大改革のまとめはこちらから。

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