戦国時代屈指の名将・上杉謙信
戦国最強の武将と言われて、皆さんは誰を思い浮かべますか?
戦上手と言えば武田信玄や織田信長、個人の戦闘力で言うなら本多忠勝などなど、人それぞれの評価があると思います。その中でも、武田信玄と双璧をなす戦上手で義に厚い上杉謙信の名前を挙げる方は多いのではないでしょうか?
謙信の生涯戦績は71戦61勝2敗8分で、勝率は86%と目を見張るものがあります。しかも8分けの大半は武田信玄との睨み合いだった川中島の戦いであるため、実質的な勝率は90%越えという驚異的な数字を残しています。謙信は自身を指して「毘沙門天の生まれかわり」と称し、正義の名のもとに戦地に赴きました。それも、領土拡大という私利私欲のための戦は行わず、誰かを助けるために戦場に出て行く。その頼もしい姿はスーパーヒーロー感のある、まさに「男の中の男」と言った感じでしょう。
八切氏提唱の女性説
異端の歴史作家・八切止夫氏
そんな上杉謙信に、まことしやかに囁かれる噂をご存知でしょうか?
それは、謙信は女性だったという説です。
上述したように「男の中の男」とも言える謙信。肖像画を見ても、「女性ってことは・・・」と思われる方もいるでしょう。どのようなことを根拠に、このような説が唱えられたのでしょうか?今日はその根拠をもとに、上杉謙信女性説について考えてみましょう。
上杉謙信女性説を最初に唱えたのは異端の歴史作家・八切止夫氏でした。彼は昭和43年、読売新聞誌上で小説「上杉謙信は男か女か」を連載し、上杉謙信女性説を展開していきます。
【中古】 上杉謙信は女だった / 八切 止夫, 末国 善己, 縄田 一男, 寺田 博 / 作品社 [新書]【宅配便出荷】 価格:651円 |
上杉謙信女性説の根拠その1:実在しないはずの上杉景勝の「叔母」
その根拠となったのは、八切氏がスペインのトレドという地にある修道院で発見した書物でした。その書物は15〜16世紀の船乗りや宣教師が日本について記した報告書だったのですが、その中に越後国の北に位置する佐渡金山の報告があり、報告の中で上杉景勝の「叔母」に当たる人物についてさりげない記述が残っています。
上杉景勝は謙信の姉の子供ではありますが、謙信にはその姉以外に兄弟姉妹は一人もいません。本来ならば「叔父」と書かれるはずのところ「叔母」と記されていたため、八切氏は謙信が女性だったのではないかと考えたのです。
上杉謙信女性説の根拠その2:民衆の中で流行った歌
また八切氏は、当時民衆の間で流行った瞽女歌(瞽女とは、盲目の女性芸人のこと)に着目します。『越後瞽女屋敷』という点字で記載された本の民謡に、上杉謙信を指したワンフレーズに「男もおよばぬ大力無双」という表現があります。「男ですら敵わない程の力持ち」という意味のフレーズになりますが、男が敵わないとわざわざ強調されているということは女? ということで上杉謙信女性説の根拠の一つなっています。
上杉謙信女性説の根拠その3:上杉謙信の死因は月経痛?
更に八切氏は、謙信の死因そのものが女性であった証であるとの説を展開します。この説は江戸時代初期の姫路藩主である松平忠明が記したとされる、『当代記』という歴史書が根拠とされています。
この本の著者となる奥平忠明は、奥平信昌と徳川家康の娘・亀姫との間に生まれた子供ですが、徳川家康の養子となって松平姓を与えられるという家康お気に入りの孫だったようです。そのためか「当代記」は徳川家康をヨイショした内容が大部分を占めていますが、政治社会や文化面・災害などについても非常に詳しく記載されており、歴史学者達の間では一級品の資料という評価を受けています。
松平忠明の父・奥平信昌と母・亀姫についてはこちらからどうぞ。
その資料としての価値が高い「当代記」には、「此の春越後景虎卒去(年四十九)大虫と云々」という一文がありますが、この文中にある「大虫」という死因を指す病気が、月経痛を指していると八切氏は指摘しています。謙信が亡くなった49歳という年齢は女性にとっては更年期を迎える時期であり、体調が安定しづらい大変な時期でもあります。もし謙信が月経痛を原因として亡くなったとするならば、上杉謙信が女性だったことは揺るがないものとなります。
上杉謙信女性説の根拠その3追記:別の書物にも同様の記載
ここまでの3つの根拠については、八切氏自らが書物を一つひとつ確認したと述べています。それでは、八切氏の発表したもの以外で、上杉謙信女性説を立証するとされている根拠を見ていきましょう。実は八切氏の3つ目の説を強力に後押しするであろう話があります。
謙信は毎月決まった日に腹痛に悩まされ休んでいた、という内容が『松平記』(徳川氏創業時代の事件を記したもの)に記載されているというのです。それも武田家と並んで上杉家の宿敵である、北条軍が攻めてきた際も腹痛と称して城に引きこもっていたといいます。
毎月決まった日に休まないといけない程の腹痛というと、生理痛という女性特有の症状を真っ先に想像してしまいます。現代でも生理休暇があるように人によっては大変つらい症状が出てしまうので、もしかしたら謙信も生理痛に悩まされていたのかもしれません。
女子力高めの上杉謙信公
恋愛モノを好む上杉謙信
戦国最強の男が恋心を深く理解していたり、恋愛物語が大好きだったと聞いたらどう思いますか?
実は謙信は恋を題材にした歌を詠んでいるのです。
「つらかりし 人こそあらめ祈るとて 神にも尽くす わがこころかな」
この歌を簡単に現代語に直すと、「辛いと感じる人はいるかもしれませんが、今の私には祈ることが恋そのものなのです」となるでしょうか。
聞いているだけでもちょっと切なさがこみ上げてくる繊細な歌ですが、これを紡ぎ出した歌い手である謙信はどのような心地だったのでしょう。恋焦がれる相手を切に思う気持ちが伝わってくる歌ではないでしょうか?
切なさいっぱいの歌を詠んでしまう謙信は、源氏物語や伊勢物語など、いわゆるコテコテの恋物語も大好物だったと言われています。男性の中にも恋愛ものが大好きという方はいるかもしれませんが、どちらかと言えば女性の方が好きなジャンルではないでしょうか。さらに関係が良好だった頃に、織田信長から乙女チックなアイテムである源氏物語屏風を贈られていますが、戦国屈指の名将・上杉謙信はこの屏風を受け取って大変喜んだそうです。こう聞くと、謙信のことが少し乙女のように感じられてきませんか?
衣服でも女子感を出す上杉謙信
戦国時代の武将のファッションといえば、
こんな感じに繊細さなどカケラもなく、敵を威嚇すると同時に味方からもちょっとビビられるという、ゴツさの塊のような物々しい風体が一般的です。ところが上杉謙信の衣服の趣味は、現代でいえばフリフリ系女子さながらの鮮やかな色彩が特徴的です。
上杉神社に奉納されている、紅地雪持柳繍襟辻ヶ花染胴服(くれないじゆきもちやなぎぬいものえりつじがはなぞめどうふく、まるで呪文です)は、若い女子でもちょっと躊躇してしまうような真っ赤に染め上げられた華やかなものです。また金銀欄緞子等縫合胴服(きんぎんらんどんすとうぬいあわせどうふく)にいたっては、舶来モノの布をパッチワークのように縫い合わせたかなり派手な衣服でした。
今時のお洒落な男性なら露知らず、あの時代に裁縫をさせてまで好みの衣服を作る男性がいたかと言えば疑問です。このことも、謙信は女性だったのではないかと思わせてくれます。
美少年好きな上杉謙信
世の女性の中に、「私はイケメンなんて大嫌い!」という方はあまりいないのではないでしょうか。
謙信の美少年好きは有名です。30歳の時に上洛した際には、近衛前久邸で酒宴を開いているのですが、その際には華奢で美しい少年たちが大勢集められたということが、前久の書状に記されています。前久はその書状の中で、「謙信は美少年が好みであることを承知しました」という、かなり直球勝負な記録を残しています。
無類のイケメン好き、現代の女性にも通じるものを感じませんか?
上杉謙信と意気投合した関白・近衛前久についてはこちらからどうぞ。
生涯未婚を貫いた男
最後に挙げさせていただくのは、とても有名な事実です。それは、謙信が生涯結婚しなかったということです。
戦国時代は重婚が認められ、家を存続させるために多くの女性と婚姻関係を結んでいました。特に男児を生むことは自身の正当な後継者を用意することになり、また後継者の弟たちは家を支える強力な家臣としての働きが期待できます。そんな時代に結婚しなかったこと自体がとても珍しく、上杉謙信の他には細川政元など数えられるぐらいしかいません。
変人・細川政元についてはこちらからどうぞ
上杉謙信の「謙信」という名は、法号という仏門に入ったことを示す、言わばお坊さんとしての名前です。ですが法号を名乗ったからといって静かに毎日お経を唱える戦国武将などほとんどおらず、どちらかといえば当時の日本人の大多数を占める仏教徒への「仏教に関心あります」アピールであり、むしろカッコいいというファッション目的で名乗る輩も数多くいました。そのため仏門入りしたからといって女性を遠ざける武将などほぼ皆無であり、むしろ追加のステータスを得て一層女漁りに熱を上げる方が一般的です。
この生涯独身を貫いた事実が、謙信は女性だったため結婚出来なかったと考えられてもおかしなことではないでしょう。
結局全ては歴史の闇の中ですが
以上のように上杉謙信女性説の起源から、その根拠を示してきました。
ふんわりと納得させられる説から、それは証拠にならないよという説まで、「意外」と言える程女性であることを示す根拠があったと思います。
では、この上杉謙信女性説は学者たちの間ではどう見られているのでしょうか?
もうおわかりだと思いますが、この説は現代では完全に否定されてしまっています。これまで挙げてきた謙信女性説の根拠は、事実だったとして今までの日本史をひっくり返せる程のものではなく、また戦国時代の習俗を考えれば男性でも充分にあり得る、という判定が下されています。
ですが、筆者はこの説を完全に否定しようとは思いません。
確かに穴のある説ばかりではありますが、そこには想像力を掻き立てられるものがあるからです。私たちは実際にその時代を見てきた訳ではありませんが、もちろん歴史学者の皆さんも見てきた訳ではないのです。
上杉謙信は女性で、そのことを隠しながら戦に出ていたとしたら。
実は武田信玄に恋心を抱いていたとしたら。
男性として生きていく覚悟を決めつつも、美しい服や恋物語に息抜きの場を求めていたら。
なんともロマンチストな上杉謙信像が目に浮かんできませんか?
そんなことを思い描きながら楽しむ。それが歴史の醍醐味だと筆者は考えております。
コメント