いつだってギリギリ!徳川家康の三大危機

その他考察
徳川家康の三大危機

度々ピンチに遭遇する徳川家康

徳川家康は江戸幕府の創始者として有名な人物ですが、実は幾度となく死にそうな状況に陥っています。幾度とないピンチを乗り越え最終的には関ケ原の戦いに勝利し、250年もの間続く江戸幕府を作り上げていますが、実は家康に順風満帆と言える時期はほとんどありません。上手くいったかと思えば突然命の危険に晒されるアップダウンの激しさは、歴史上の人物ながら漫画や映画の主人公にも負けていないでしょう。

頻繁に危機を迎える家康の特に危なかった事件を指して、「徳川家康の三大危機」という嫌なまとめワードが存在しています。味方が大勢離反した「三河一向一揆」、武田信玄にボロボロにされた「三方ヶ原の戦い」、そして本能寺の変後の逃避行「伊賀越え」、以上3つの事件をひとつずつご紹介したいと思います。

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徳川家康が切り抜けた三大危機

味方が敵に?三河一向一揆

一向宗の大寺院が多い西三河

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、松平家康(後に徳川に改姓)は今川家との同盟関係を打ち切り、織田信長と新たに同盟を結んでいます。同盟相手も変えて心機一転、本拠である三河国をまとめ上げ、さあこれからといったタイミングで事件が発生します。

三河国の西側・西三河と呼ばれる地域では一向宗、つまり浄土真宗を信仰する人が多く、また家康の先代・松平広忠以前に「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の権利を得ている寺院が多くありました。この権利は大名が持つ警察権が及ばないことを意味しており、犯罪者や敵対勢力の人間が逃げ込んだ場合にも手出しはできません。家康は領土内にそんな特権を持つ寺院がたくさんあることを嫌がり、特権を取り上げるよう働きかけていました。そんな家康の動きに反抗心を募らせた一向宗寺院は、大寺院ならではの多数の信者による暴力で抵抗します。

同じ三河国でも東三河と呼ばれる地域は曹洞宗の信者が多かったためか、こちらでは一揆の類は起きておりません。ですが一向宗門徒が非常に多かった西三河では多数の信者が一揆に加わり、一向宗の特権を守るために各地の城砦を襲撃しました。一般民衆だけなら鎮圧も容易かったのかもしれませんが、問題は家康の家臣からも一向一揆勢に参加する者が多く、ここで松平家の家臣団が真っ二つに割った内戦が勃発します。

身内との苛烈な争い

昨日までの家臣に一斉に刃を向けられる気持ちというのは、一体どのような気持ちなのでしょうか。自分の領内を歩けば木陰や民家に隠れた領民に斬りつけられるという、全ての人を疑いたくなる壮絶な修羅場だったでしょう。家康にとっては幸か不幸かわかりませんが、中には一族間で家康側と一向宗側に分かれた家もあり、本当の意味での身内同士の争いが展開されています。

半年程一向一揆勢と松平家側は戦い続け、なんとか家康が優位に立ったところで和睦が成立しています。一揆が落ち着き解体したところを見計らい、家康はおもむろに武力を行使して一向宗を弾圧、その後三河国内に一向宗の教団員は立ち入らせないという厳しい処分をとっています。

一向宗の教団幹部は追放し、また領民はまあ仕方ないとして、家康にとって問題は一向一揆側についた家臣たちの処遇でした。自分自身に刃を向けた家臣たちを、今後も味方として頼りにしていいのか悩んだことでしょう。結局家康はこの一向一揆で敵にまわった家臣たちを全て許し、もう一度家臣として迎えています。味方についた家臣の中には裏切り者を許すなという声も当然あったことと思いますが、ほぼ全ての家臣たちを許した結果、その後他国から「犬のように忠実」とまで言われる程の三河武士の結束が生まれています。

「三河一向一揆」が起こった原因やその後の影響についてはこちらからどうぞ。

武田信玄にボロ負け・三方ヶ原の戦い

おびき出されてしまった徳川家康

最後の室町将軍・足利義昭からの上洛要請を受けた武田信玄は、京都を目指して進撃を始めました。武田信玄の本拠・甲斐国(山梨県)から京都へ向かうためには、山越えで美濃国(岐阜県中南部)へ抜ける道もあったにはあったのですが、こちらの道は結構険しく大軍での移動には不向きだったりします。という訳で武田信玄は道が広い東海道を選択しましたが、このことは徳川家康にとって災難でしかありません。

武田信玄の襲来を知った徳川家康はあんなバケモノと戦いたくないということで、浜松城での籠城を選択し、ここで織田信長からの援軍を待つ作戦に出ました。ところが武田信玄は家康の時間稼ぎ作戦を見抜き、敢えて「浜松城を攻撃せずに無視する」という作戦に切り替え、スタスタと京都方面に歩み去ろうとしています。すると家康は自身が無視されたことにカンカンに怒ってしまい、当初は引き籠もり作戦だったにも関わらず、武田軍に背後からの奇襲攻撃を敢行しました。ところがこの一連の流れ自体が武田信玄の罠で、武田信玄は遠江国(静岡県西部)の三方ヶ原という地域で待ち伏せしており、徳川軍は数時間のうちにボロボロの大惨敗を喫しています。

三方ヶ原の戦いについてはこちらでご説明しています。

山県昌景の深読みで命拾い

ほうほうの体で浜松城に逃げ帰った家康でしたが、武田軍は当然のごとく家康の首を狙って追撃を始めました。ここで家康を追いかけてきたのは武田四天王の一人、知勇で名高い名将・山県昌景その人でした。

武田軍が追って来ていることを確認すると、家康はなぜか浜松城の門を全開、さらに篝火を大量に焚き始めました。家康に止めを刺そうと追撃してきた山県昌景でしたが、彼からすれば浜松城に逃げ込んだ家康は門を閉ざそうともしていない訳です。ここで山県昌景は罠の可能性を感じ、無理な攻撃はやめとこうということで撤退してしまいました。

今回は勘違いの山県昌景さん

もちろんこの時家康には罠どころか一切の防備もなかったため、山県昌景が普通に攻撃するだけで捕虜か首にされていたことでしょう。家康にとっては山県昌景の深すぎる読みに感謝といったところでしょうか。三大危機にも数えられる「三方ヶ原の戦い」で命拾いした徳川家康でしたが、武田信玄は京都への上洛を果たせずに病死しており、ここから徳川軍の反転攻勢が始まっています。

三方ヶ原の戦いについてはこちらからどうぞ。

山越え谷越え逃避行・伊賀越え

本能寺の変の余波

織田信長が本能寺の変で倒れたことが知れ渡ると、京都近隣の治安が急激に悪化し、少勢力や土豪達の中には野党化する者も現れています。変事が起きた時の徳川家康はちょうど堺見物から京都へ戻っている最中だったのですが、もし明智光秀の謀反が一日遅かったとすれば当然巻き添えを食っていたでしょう。今回の家康はタッチの差で難を逃れたかと思いきや、苦難の道のりはまだ始まってすらおりません。

本能寺の変についてはこちらからどうぞ。

本能寺の変前の京都辺りはすでに織田信長によって治安整備されており、外敵の心配がないため家康は本多忠勝や井伊直政など重臣約50名だけを引き連れていました。ですが織田信長が横死を遂げたことで周囲の治安が急激に悪化、いつ通行人が野盗と化してもおかしくない危険な状況となってしまった訳です。事実、家康の同行者に穴山信君という人物がいましたが、「家康の近くにいたら危険かも」ということで距離をとって行動していたところ、むしろ落ち武者狩りの手に掛かりあっさりと討ち取られてしまいました。そんな四面楚歌とも言える状況の中で絶望する家康と、そしてなんとか家康を本国まで連れ帰ろうとする家臣団の逃避行が始まります。

かなり難易度高目・伊賀越えルート

伊賀越えのルート(手書きですいません)

徳川四天王を始めとする重臣達による議論の結果、帰還ルートは伊賀国(三重県西部)を越えて、伊勢国(三重県東部)から海路にて本国・三河国という経路に決定しました。このルートは当時のメイン街道である東海道、つまり現代の国道1号線からも大きく外れており、下のグーグル地図と照らし合わすと大体国道25号線の辺りでしょうか。

東海道はもともと織田信長によって徹底的に整備されており、当時の武士だけでなく商人から農民まで多くの人が往来していました。そのため人目に付くのはどう考えても確定ということで、落ち武者狩りの襲撃から逃れるためには妥当な選択だったように思われます。ですが現代でも多くの自然が残る三重県の西部地域、しかも堺見物の帰りという軽装備、さらには襲撃に備えようにも兵は0という状況で、何事もなく乗り越えるのはかなり難易度が高かったでしょう。

駄々っ子家康と三河国への生還

徳川家康は織田信長の横死という異変に加え、敵のど真ん中にいるという悲惨な状況に絶望し、伊賀越えの最中もたびたび自害したいと重臣たちに伝えたそうです。そんな中でも家臣たちは谷があれば橋を渡し、少しでも主君の生還率を高められるよう決死で働き続けました。また時には落ち武者狩りが現れることもあったようで、そんな時には家康を守りながら返り討ちにする、というあまりに過酷な道中だったようです。

そんな僅かな油断もできない逃避行の中で、主君がたびたび自害したいとか言い出したら、もうたまったもんじゃありませんよね。それでも家臣たちは幾度となく駄々をコネる家康を説得し、安全確保やら食料調達に奔走し続けました。幸いにも地元住民の中にも逃避行を援助してくれる人もおり、家康一行は数日の後に伊勢国の海側へ到達、被害は怪我人数名だけでなんとか無事に三河国へ帰還を果たしています。

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