満つる月は長きに渡って輝き続ける | 藤原道長の豆知識・エピソード集

藤原道長と満月 その他考察
藤原道長と満月

我が身を例えるならば欠けることのない満月か

平安時代中期の平安京に君臨した藤原道長という人物を語るならば、まずこの一首の歌について言及するべきでしょう。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

この歌は道長の邸宅で開かれた祝宴にて亭主自ら歌ったものではありますが、同席していた公卿によってこの「名歌」を歌うことが提案され、幾度となく一同で合唱されたそうです。「この世は全てオレの物、それはまるで一筋も欠けていない満月のように」といった意味になるこの歌は、ただの道長の思い上がりではなく、周囲の公卿貴族達にも明確に認められていたものと思われます。3人の娘を天皇の后とし、権力・財力共に並ぶ者などいない状況では、その祝宴に参加していない人間ですらそう感じたことでしょう。

道長は朝廷での政治でも非常に強い影響力を持ち続けましたが、文化面でも多大な貢献を果たしています。即興で歌い上げてしまう程の和歌の腕前だけでなく、現代にまで国宝として残る「御堂関白記」を書き記し、そして紫式部や和泉式部など女流作家の支援者として創作活動を全面的にサポートしています。また源頼光など武士団の棟梁も従え、さらには自分自身も弓が得意という、「武」の方面もキッチリカバーしていたりします。最高の権力者かつ文学にも堪能、そして各地に荘園を持ってお金持ち、なおかつ弓の腕まで達者という、パーフェクト人間の様々なエピソードをご紹介いたします。

摂政・関白に就任し続けた藤原北家「御堂流」の祖

藤原道長は浄土信仰という死後に極楽浄土へ行くための仏教思想に傾倒していたようで、自ら法成寺という巨大寺院を建設しました。この法成寺は当時の仏堂としてあまりに立派でデカすぎたため、「仏堂といったらこれ!」ということで「御堂(みどう)」という愛称で呼ばれました。道長はこの「御堂」の所有者であることから、「御堂殿」や「御堂関白」といったニックネームでも呼ばれ、そして道長の子孫達はひと括りに「藤原北家御堂流」と呼ばれています。道長以降に摂政関白に就任した人物は全て「藤原北家御堂流」、つまり道長の子孫だけしか就任しておらず、明治維新を迎えるまで例外は一件たりともありません。

飛鳥時代に聖徳太子が日本初の摂政に就任して以降、摂政という天皇の大権を代行する重要職に就いたのは、皇族以外では藤原北家に属する人物だけです。また関白という成人した天皇の補佐に当たる職掌に至っては、初代の藤原基経を始めとして藤原北家の人間だけだったりします。唯一の例外として戦国時代末期に関白に就任した豊臣秀吉が挙げられますが、秀吉は「御堂流」に属する「近衛家」に養子入りしているため、やはり体裁的には関白に就任したのは「御堂流」のみです。平安末期に平氏政権が興って以降は割と目立たなくなり、また「一条・二条・九条・近衛・鷹司」の「五摂家」に分裂してはいるものの、天皇家を側でサポートし続けたのは常に道長の子孫だったことになります。

関白についてのご説明はこちらからどうぞ。

ちなみに道長は33歳から56歳にかけて日記をつけていましたが、この日記は「御堂関白記」と呼ばれ、昭和時代に国宝に認定されただけでなく、2011年にはユネスコの「世界の記憶」への推薦が決定されています。ですが「御堂関白記」はごくごく普通につけただけの日記であるため、内容も腹が立ったことやら嬉しかったことなどごくありきたりで、しかも誤字が結構あるという雑な文書だったりします。そんな個人の日記が国宝となり世界的な文化遺産になるとは、さすがは道長さんと言ったところでしょか。

紫式部の創作活動を支援

和歌や漢詩について造詣の深い藤原道長は、平安文学が興り始めた時代において強力な支援者でもありました。道長の娘・藤原彰子が一条天皇の中宮(妻の一種です)になった際、道長は彰子の家庭教師として付けられた「紫式部」という女性の才能に着目、彼女の創作活動をガッチリとサポートし続けています。

紫式部のイラスト
世界各国で読まれる源氏物語もこんな感じで書いていたのかもです

平安時代は紙そのものが貴重品だったため、紫式部が書き始めた当初は十分な量が揃っておらず、紙の提供者がいればその分だけ書くといったことが繰り返されました。道長は経済的な支援だけでなく紙の提供もしていましたが、紙を渡してその都度書き上がった分を読んでいたようで、毎週の発売日を待ちわびる漫画ファンくらいに楽しみにしていたようです。そのため紫式部によって書き上げられ、現代では20ヶ国語で翻訳されて世界中で読まれている「源氏物語」を、世界で最初に読んだのは藤原道長ということになります。「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルが道長説もあるため、紫式部の下にイソイソと通い詰めながら自分の武勇伝を語っていたのかもしれませんね。

漫画だと藤原道長、もとい光源氏のキラキラ感が際立っています。

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感想(2件)

平安貴族に似合わない弓の腕前とド根性

平安時代の貴族と言えば、なんとなく毎日和歌でも読みながら蹴鞠でもしていそうな偏見がありますが、弓の鍛錬も割とメジャーな時間の使い方だったようです。「弓比べ」という弓術の技を競う遊び方もあったようで、平安時代頃に誰と誰が弓比べをした、なんていう記録も結構残されています。藤原道長も例に漏れず弓の練習には熱心だったらしく、ちょっとできる程度ではなく、むしろかなりの腕前を持っていたようです。

道長が13歳年上の兄の藤原道隆、そしてその嫡男である藤原伊周(これちか)と弓の練習をしていた際に、ふとした弾みで道長と伊周の弓比べが始まりました。弓比べが始まり矢をつがえた道長は、

道長の家から天皇や后が出るのならこの矢当たれ

と不遜な願掛けをしながら射ると、的に見事命中させました。後攻の伊周は道長の気合にビビってしまったのか、矢を的から外してしまうと、道長はまたも願掛けを唱えながら矢を放ちました。

道長が摂政・関白になるのならこの矢当たれ

道長が放った2本目の矢がまたも的を綺麗に射抜いたところで、その様子を見ていた藤原道隆が興冷めしてしまい、ここで弓比べは中断されたそうです。

この時の道長の行動は、後に政敵になる可能性がある藤原伊周をひとまずヘコましておこう、くらいだったのでしょうが、自分で大きなことを言っておいて外してしまったらただ恥をかくだけですよね。自分でハードルを上げておきながらキッチリと仕留めたというのは、弓の腕前だけでなくかなり根性も据わっていたのでしょう。後に藤原伊周は結局道長との政争に敗北し37歳という若さで病没、伊周の家系は没落の一途を辿っています。

金太郎だって従えちゃいます

金太郎とクマのイラスト

藤原道長は多くの貴族達を従えていましたが、貴族だけでなく当時勃興し始めた武士も多く従えていたようです。その武士の中には摂津国(大坂府北東部)を根城としていた源頼光もおり、頼光は道長の立ち居振る舞いや豪快な性格に惹かれて自ら側近になったとされています。頼光は朝廷における儀式の手伝いだけでなく、道長がプライベートに催した競馬にも参加しており、公私共に結構深めの付き合いがあったようです。

源頼光には鬼退治や土蜘蛛退治をした童話や伝説が数多く残されており、その伝説にはそれぞれ「頼光四天王」の活躍も合わせて記されています。茨木童子を退治した渡辺綱を筆頭に、酒呑童子を退治した坂田金時、姑獲鳥退治の卜部季武(うらべすえたけ)、大鎌で巨大な毒蛇を退治した碓井貞光の4人は、後世に制作された「今昔物語集」や「御伽草子」でも複数回に渡って登場し活躍しています。特に坂田金時は童話で語られる「金太郎」のモデルになったとされており、江戸時代には浄瑠璃やら能など様々な芸能活動のテーマに取り上げられました。そんな人気者の「金太郎」も源頼光を通じて道長に従っていたという、なんだかおとぎ話が急に現実感を帯びてしまったかのような歴史的事実です。

大鯉を素手で捕まえる金太郎
大鯉を素手で捕まえる金太郎・なぜか鬼感高め

糖尿病に悩まされた晩年

自分の娘3人を天皇の后とし、国政を思うがままに動かし続けた道長でしたが、やはり老いと病に勝つことはできなかったようです。道長は60歳と少しで亡くなっていますが、50歳過ぎから糖尿病に悩まされていたようで、頻繁に水を飲み、視力も急激に衰えていきました。そのため亡くなる数年前には目の前の人間の顔も判別できなくなり、さらには心臓神経症も併発するという、結構踏んだり蹴ったりの晩年だったようです。

糖尿病という病気に悩まされた歴史的偉人は意外と多かったようで、有名どころでは征夷大将軍に就任し幕府を創立した源頼朝、また織田信長や徳川家康といった戦国時代の英雄達も含まれます。もちろん病状は人それぞれではありますが、記録を見る限りは道長の症状は結構重そうで、しかも当時の医療技術では悪化が避けられなかったようです。自分の死を悟った道長は自身で建てた法成寺の阿弥陀堂で、9体の阿弥陀像と自身の手を糸でつなぎ、極楽浄土へ行けることを願いながら静かに亡くなりました。ですが藤原道長が残した藤原北家御堂流からは、明治維新で職制が改変されるまで100人を越える摂政・関白を輩出しているため、日本史上で最も成功を収めた家系なのかもしれません。

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