織田信長に謀反した男達とその理由

明智光秀の銅像 その他考察
日本史上最も有名な謀反人・明智光秀の銅像

意外と謀反率低めな織田家

織田信長と敵対した勢力や大名は多すぎて数え切れない程ですが、実は家臣が寝返ったケースはかなり少ない方です。現代的な感覚ですと「普通は寝返らないでしょ」とか思ってしまいますが、当時の武士には主君への忠誠心は結構薄く、どちらかと言えば「条件が良い方に付く」人の方が多かったりします。その極端な例として7回主君を変えた藤堂高虎という人物がいますが、本人の談では「7回くらい主君を変えなきゃ本物の武士とは言えない」なんて名言を残しており、まあ7回は多すぎるとしても主君替えは当たり前という感覚だったのでしょう。

そんなご時世においても裏切り者が少なかった織田家ですが、このことは織田信長本人の能力と立居振舞、そして「織田家がひたすら強かった」ことが要因となっています。つまり織田信長に敵対するのはただの損にしかならず、出世を求めるならば織田家で必死に働く方がベターだった訳ですね。とは言えそんな織田家でも反乱が起きたケースが多少はあり、中でも松永久秀・荒木村重、そして本能寺の変を起こした明智光秀の3人は結構有名だったりします。この3人は織田家の譜代家臣ではなく後から参入したという共通項がありますが、今回の記事では織田信長に謀反を起こした3人と、そして謀反した理由についてご説明したいと思います。

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戦国三大梟雄の一角・松永久秀

三好三人衆との対立をキッカケに織田信長の傘下に

松永久秀は元々室町幕府を牛耳った三好長慶の下で勢力を伸ばしたのですが、長慶が亡くなった後に政権を引き継いだ三好三人衆とは対立していました。とは言え独力では三好三人衆に勝てないということで、松永久秀は味方に付いてくれる勢力を探し始めました。そこで白羽の矢が当たったのは当時美濃国を奪取したばかりの織田信長、ここで松永久秀は織田信長の「同盟相手」として共に三好三人衆の打倒を目指すことになります。

という流れが両者の馴れ初めなのですが、要するに手を組んだのは三好三人衆を京都から追い出すためであり、また足利義昭を将軍に擁立するためです。つまり松永久秀の目的は幕府を再興して自分で牛耳ることだった訳で、織田信長との同盟はその手段でしかありません。ですが松永久秀という人物は戦上手な上に相当な切れ者だったようで、織田信長もその能力を高く買っており、こまごまと仕事をさせているうちにふんわりと家臣的な扱いをし始めました。

蜜月関係から一転して険悪に

戦争が上手で交渉事も達者、なおかつ茶の湯という共通の趣味があったのも影響したのでしょうか、織田信長は松永久秀を信頼し親密な関係を築いていました。後に織田信長が京都上洛戦に勝利し三好三人衆を京都から締め出すと、松永久秀は信長に対して人質を差し出し、なおかつ天下に名だたる茶器「九十九茄子(つくもなす)」をも献上しています。これに気を良くした織田信長は松永久秀に大和国(奈良県)の統治を許し、その後も久秀は信長のために大いにその辣腕を振るいました。ところが織田信長が室町幕府の利権を独占し始めた頃から松永久秀はそれに反発、突如として不穏な空気が流れ始めました。

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それでも松永久秀はしばらく織田信長に従っていたのですが、元々信長の家臣になったつもりは全くなく、本人としてはあくまで幕臣のつもりな訳です。ですがそんな松永久秀の意思とは裏腹に、織田信長は久秀を完全に家臣扱いして様々な仕事を押し付けていました。

どの事件がキッカケになったのかは不明ではありますが、全てが嫌になってしまった久秀は突如として織田信長から決別、武田信玄らと連携をとり信長包囲網に参加しました。ですが残念ながら武田信玄は京都上洛前に病死し、その後の松永久秀は大和国の信貴山城で籠城し織田軍と戦って敗北、もう一つの名茶器「古天明平蜘蛛」を叩き割ってから自害しています。

松永久秀を含む戦国三大梟雄についてはこちらからどうぞ。

謀反しても生き延びたしぶとい男・荒木村重

黒田官兵衛を巻き込んで謀反

もともと摂津国(大阪府北中部)あたりを縄張りとしていた荒木村重ですが、三好長慶の跡を引き継いだ三好三人衆と協調し自身の勢力を拡大していました。ところが織田信長の京都上洛戦で三好三人衆が惨敗すると、孤立しそうな荒木村重は信長に急接近、織田家の家臣へと華麗なジョブチェンジを決めています。織田信長は摂津国という要衝をタダで支配下に収められるという軍事的な側面だけでなく、荒木村重の豪快な性格も気に入っていたことが記録として残っています。

その後の荒木村重は織田家の主要な戦いにも参戦しており、越前の狂犬こと富田長繁が引き起こした越前一向一揆の討伐、また浄土真宗との10年に渡る戦い「石山合戦」でもしっかりと戦功を挙げています。続いて羽柴秀吉の中国遠征軍でも大いに活躍するかと思いきや、荒木村重は突然態度を翻して有岡城で挙兵しました。有岡城は中国地方と京都を結ぶ重要拠点ということで、羽柴秀吉は慌てて黒田官兵衛を差し向けて説得させますが、官兵衛は逆に捕縛されて牢にブチ込まれてしまいます。結局有岡城での籠城戦が1年続いた後、最後は荒木村重が単身で脱走して終わるというサッパリしない結末を迎えています。

有岡城の一件で黒田官兵衛の嫡男竹中半兵衛に救われたエピソードはこちらからどうぞ。

石山本願寺に兵糧を横流し?

有岡城跡の写真
荒木村重が起こした謀反の舞台・有岡城の跡地

肝心の荒木村重が謀反を起こした理由についてですが、村重には当時織田家と交戦中の石山本願寺に兵糧をこっそり横流ししていた疑惑があったようです。このことが事実だったかどうかは分からないのですが、もともと荒木村重は浄土真宗と交流があり、そのこともあって真偽は不明でも疑われやすい立場ではありました。まして主君の織田信長は冷酷なイメージのある、というか処罰に対して一切躊躇しない人物だったため、「やられるくらいなら先にやったれ」くらいにヤケを起こしたのかもしれませんね。

ちなみに荒木村重は単身で逃げた後もなんとか生き延びており、本能寺の変の後にはちゃっかりと豊臣秀吉の元で茶人として復活を遂げています。ですがその頃の荒木村重は結構やさぐれていたようで、なにかにつけて秀吉の悪口を言う、という陰湿な行動を取り続けていました。ある時その悪口を秀吉のお母さんにうっかり聞かれてしまったらしいのですが、処罰を恐れた荒木村重はまたも脱走、今度は復活することなくそのまま摂津国・堺にて亡くなっています。

本能寺の変で謀反を成功させた明智光秀

無名から織田家の軍団長の一人に

明智光秀のイラスト
イラストにすると普通のおじさんの明智光秀

後に色々な意味で有名になる明智光秀ですが、実のところその前半生については現代でも謎のままです。元々は織田信長が侵攻する前の美濃国(岐阜県中南部)の国主・斎藤氏に仕えていたようですが、信長の侵攻前にどこかへ出奔しており、その後の足取りについてはハッキリと分かっていません。ですがその間に足利義昭とどこかで交流を持ったようで、気付けば足利義昭の使者として織田信長の元に現れ、ここから明智光秀のサクセスストーリーが始まります。

足利義昭から上洛要請を受けた織田信長は怒涛の勢いで進撃し、あっという間に京都に辿り着き三好三人衆を撃破しました。ここからしばらく明智光秀はまた目立たない存在となりますが、浅井・朝倉軍との「姉川の戦い」が起きた頃には部隊を率いる身分に昇格しており、その後はトントン拍子で出世街道をひた走りました。そして織田家の宿老筆頭だった佐久間信盛が失脚すると、明智光秀はその軍団を引き継ぎ、万単位の軍を率いる軍団長への昇進を果たしています。日本史上で成り上がりの代名詞と言えば同時代の豊臣秀吉が真っ先に挙げられますが、実はこの明智光秀も織田信長に拾われた典型的な成り上がり武将だったりします。

理由が全く不明な「本能寺の変」

この記事の冒頭で「謀反した理由」なんて偉そうに書いていますが、明智光秀の謀反の理由についてはもう完全に不明でお手上げ状態です。明智光秀は日本史上で最も有名な事件の一つ「本能寺の変」を起こした張本人ですが、この事件の理由については一切の記録が残されていません。ただ織田信長というほぼ天下人が急にいなくなったという事実だけが残っており、事の真相については何か余程の資料が発見されない限り永遠に解明されることはないでしょう。とは言え「全く分からない」というのはむしろ創作意欲を刺激してしまうのか、様々な学者さんや小説家によって色々な説が唱えられてはいるものの、これらは全て創作の域を出ていません。

明智光秀はこういった理由で本能寺の変を起こした!という様々な説をご紹介しているページは下のリンクからどうぞ。

本能寺の変で明智光秀は織田信長を打ち取ることには成功しましたが、その僅か2週間後に「中国大返し」で急遽京都に舞い戻ってきた羽柴秀吉と交戦、「山崎の戦い」で敗れてあっさりと滅亡してしまいました。ですが明智光秀を討ち取ったという明確な記録はやはり残っておらず、実は生存していた説もかなり信憑性が高かったりします。結局その後も表舞台には出ていないため、多分落ち武者狩りにでも遭ったのでしょうが、明智光秀という人物は有名な割りに謎だらけの不思議ちゃんだったりします。

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