元寇に立ち向かった若き英雄・北条時宗

北条時宗のイラスト 鎌倉時代の人物録
鎌倉幕府8代執権・北条時宗

救国の英雄として扱われた北条時宗

長く平和が続いた江戸時代の末期、通商を求めていたアメリカの黒船が突然日本の海に現れました。さすがに黒船からいきなり大砲を撃ち込まれることはありませんでしたが、長く鎖国を続けていた日本にとって、「外国の脅威」というものを急に認識させられた瞬間だったのでしょう。するとそれまで日本史の1ページでしかなかった「元寇」が急に取り上げられ、強大なモンゴル帝国から日本を守った人物が「救国の英雄」として扱われ始めました。その幕末の日本で多くの人に叫ばれた人物の名は、鎌倉幕府の8代執権・北条時宗です。

北条時宗には元軍から日本を守りきった華々しい業績があるにも関わらず、元寇以外のことは全く有名ではないですよね。それもそのはず、実は元寇が始まる直前に幕府執権に就任し、そして元寇が終わってすぐに亡くなっているからです。時宗はその良好な血筋もあって10代後半には執権に就任しているのですが、差し当たって元服の時期からその生涯を追ってみたいと思います。

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将来が約束されていた北条時宗

7歳にして宗尊親王の1字をもらって元服

北条時宗は鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の次男として生まれていますが、兄の北条時輔(ときすけ)は側室の子供ということで、生まれた時から時宗が家を継ぐべき「嫡男」として扱われていたようです。そして時宗が7歳の頃、これは数え年でのことですので実際は5歳の頃に元服の儀を執り行い、当時の征夷大将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)から一文字をもらって「北条時宗」と名乗りました。

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14歳にして7代執権・北条政村の補佐に

元服とは一人前の大人になったことを意味する儀式ですが、要するに北条時宗は7歳にして大人の仲間入りを果たしてしまった訳です。さらに時宗はその3年後に将軍警護の長官に就任、現代で言うところ小学3年生くらいが長官職に就くという謎の事態が発生しました。

これは多分ではありますが、生まれながらのエリートである時宗のキャリアを、一族総出で無理やり作ろうとしていたものと思われます。普通だったら小学生がお偉いさんの警護につくこと自体あり得ないのですが、北条氏を引っ張る存在として一族から過剰に期待された結果、本人の意志や成長を度外視した責務を負うことになったのでしょう。とは言え時宗少年もその過剰な期待に潰れることなく責務を果たし続け、7代執権に北条政村が就任した際には、補佐役となる「連署(れんしょ)」に14歳という年齢で就任しています。

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北条時宗は元寇に立ち向かう

18歳の若すぎるリーダー・北条時宗

北条時宗が「連署」になってから4年程経った頃、当時朝鮮半島まで支配下に置いていたモンゴル帝国から国書が日本に届きました。その国書は日本の降伏を呼びかける内容ではあったのですが、割りと攻撃的というか脅しのニュアンスを含んでいたため、朝廷と幕府は騒然となり対応を迫られることとなりました。この時の幕府執権・北条政村は64歳という年齢だったのですが、ここでエリート街道まっしぐらの時宗に執権職を譲り、逆に自身はサポートのために「連署」に降りています。この時の時宗は18歳、つまり現代で言えば16歳という若すぎる年齢で、世界史上最強とも言われるモンゴル帝国に立ち向かうハメになりました。

元の皇帝・フビライ・ハンのイラスト
元寇でお馴染みの「フビライ・ハン」

北条時宗の降伏勧告への対応

執権に就任した北条時宗は「元」からの国書に敢えて返答を返さず、ただ西日本の御家人たちに対して襲来に備えるよう指示だけを出しています。また当時の「元」としても中国全土の侵略が完了していなかったため、脅しはしたもののすぐに日本を攻撃できる態勢ではありませんでした。という訳で「元」の皇帝フビライ・ハンはそれからも度々降伏の使者を日本に送っていますが、これに対して時宗は基本的に無視を決め込んで返書を出していません。ですが6回の降伏勧告のうち時宗は4回目だけ返書を出していますので、こちらをざっくり目にご紹介したいと思います。

今まで蒙古(モンゴル)という国を聞いたことはなかったし、国同士の付き合いはなかったはず。だから貴国に対して好悪の気持ちは一切ないが、突然我が国に対して凶器を用いようとしている。仏教では殺生は悪とされているはずなのに、なぜ仁義を振りかざしながら殺戮の道を歩もうとするのか。日本は天照大御神から続く由緒正しい神国なのだから、何をもってしても敵わない唯一無二の国である。よく考えよ。

この返書に対する筆者の感想としては、「良い文だけどよく言えたなコレ」ですね。素直な書き出しから一転して正論でキッチリ批判、なおかつ自国の正当性と強さをアピールし、最後は「よく考えろ」と反省を促して締めるという、非常に美しい流れの名文ではないかと思います。ですが当時すでに中央アジアまで進出していたモンゴル帝国が相手ということで、この手紙は先の展開を知っていてもちょっとヒヤヒヤしてしまいます。なにはともあれ時宗は降伏勧告を断固拒否し、戦いを決意してまずは国内の統制に取り組むことになります。

混乱する日本国内を鎮めるために

キリッとした喧嘩腰の返書で強硬姿勢を打ち出した北条時宗でしたが、意外と冷静に国内問題にも取り組んでいます。時宗は「異国警固番役」という警備部隊を設置、主に西日本の御家人を動員し警備に当たらせました。また混乱に乗じてここぞとばかりに不穏な行動を取り出した、兄の北条時輔を始めとして数名の御家人を処刑しています。お兄ちゃんにまで手を掛けたというのはなかなか酷い感じもしてしまいますが、やはり事の重大さを十分に認識していたからこその非情な決断だったのかもしれません。

ちなみに時宗は国内体制を整える中で、「日蓮」という仏教僧を佐渡ヶ島へ流罪にしています。日蓮宗の教義では「施政者が悪政を布く=災害が起こる」とされており、日蓮は「元寇」についても「時宗の悪政が原因の天災なんじゃないの?」と言い及んでいました。日蓮としても国を想うからこその言い分だったのかもしれませんが、さすがに目の前のことに対処しなければならない時宗としては放っておけず、「足並みを乱されるよりは」ということで処罰したようです。

日蓮のイラスト
日蓮宗の開祖「日蓮」

文永の役と弘安の役

1,274年に文永の役、そして1,281年に弘安の役と、元軍は2度に渡って日本に襲来しました。この戦いの経緯は別記事にてご説明していますので、ご興味がありましたら下のリンクからお願い致します。

しばしば「元寇は神風によって撃退された」なんて記事を見かけますが、御家人と幕府に所属していない武士達、そして近隣住民の努力と犠牲があってようやくのことで追い返しています。タイミング良く台風が吹いたことで早期に決着が付いた一面もありますが、北条時宗が武士の団結と奮闘を促したからこそ「神風が活きた」とも言えます。

元寇が終わって3年後に北条時宗逝去

文永の役と弘安の役をなんとか切り抜けた時宗と日本軍でしたが、次もあると思う方が普通ですよね。とは言え2度の元軍襲来によって武士達のダメージも相当なものだったようで、人員不足や財政難でてんやわんやだったそうです。そんな中でも国土防衛は最優先ということで、時宗は国内のパニックを抑えながら財政難の武士に戦う準備をさせるという、過酷すぎるミッションに取り組んでいました。結局3度目は来なかったから良かったようなものの、実際に来ていたら今現在の日本の姿ではなかったのかもしれませんね。

思えば時宗は18歳の頃から外交や国内問題に取り組み続け、日本という国の将来を背負い続けました。ですが若い頃から神経がすり減る激務を続ける中で、時宗はすでに心身ともにボロボロになっていたのかもしれません。弘安の役が終わってから3年後、北条時宗は病のため34歳という年齢でその生涯を終えました。その生涯はまさに元寇から日本を守るためにあったかのようで、現代の日本人ももうちょっと敬ってもいいくらいの偉大な業績だと思います。

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