鎌倉時代5・元寇 | モンゴル帝国の襲来

鎌倉時代の時代史

今回の記事では鎌倉時代に起きた、日本史上数少ない外国からの侵略である元寇に、鎌倉幕府と御家人が立ち向かった戦いのご説明をしたいと思います。

元寇とはモンゴル帝国による日本侵略

まず元寇とは、当時というより世界史上で最も広い領地を持っていたモンゴル帝国内の一つ、現在の中国に位置していた「元」という王朝による日本への侵略戦争を言います。

元は大きく分けて日本に2回襲来しており、1274年の一回目が文永の役、1281年の二回目が弘安の役ですね。元寇という単語でひと括りにしてしまうと2回目がすぐに来たかのように感じますが、実際は7年もの間が空いていたりします。

ちなみに当時は元寇という単語は使われておらず、当時の歴史書には蒙古襲来などと表記されていました。では元寇という単語はいつから使われたのかというと、江戸時代に水戸光圀が編纂した「大日本史」という本が初出となっています。つまり水戸黄門が最初に元寇という単語を使い始めていたという、印籠以外にもすごいとこあったんだ的な驚きの事実です。

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元が日本を欲しがった理由

「黄金の国ジパング」として紹介されていた日本

ひとつには元の皇帝フビライ・ハンが聞きつけた話の中で、日本には黄金で出来た建物があり黄金で溢れかえっている、というとんでもないデマを耳にしたことに端を発しています。現代ではそんな噂を聞いたらまずはグーグルアースで調べそうなものですが、当時はそんな便利なものはないため、「攻め込んで確認すればいい」というジャイアンも真っ青の理由で日本への攻撃を検討し始めます。

マルコポーロの東方見聞録

マルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」にも、フビライ・ハンが「日本にはものすごい量の黄金がある」ことを知り日本に強い興味を持った、という記述があります。誰がそんなことを言い始めたのかはわかりませんが、この噂を流した人こそが元寇が起きた元凶なのかもしれませんね。

南宋との争いを有利にしたかったフビライ・ハン

元寇が起きてしまったもうひとつの理由は、当時の元は中国の南側にあった南宋との戦いが続いてことにあります。元にとって宿敵・南宋を滅亡させることは悲願だったのですが、日本はその南宋の東に位置しており、側面から攻撃するのにちょうどいい国だった訳です。つまり元としては日本を従属国にして南宋を東から牽制し、「あわよくば攻撃させたろう」という意図がありました。

つまり当初の元としては南宋を効率的に攻撃したいからこそ日本が欲しい訳で、話し合いで解決できるのであれば戦う意図はありません。もちろん元の解決とは「従属関係」ではありますが、南宋との戦いの最中にさらにもう一国と戦うのは得策ではないため、元は外交圧力で日本を屈服させにきたという訳です。

外交で日本を属国化させようとする元

元から日本に送られた書状は決してマイルドなものではなく、元の従属国になるようハッキリと要求したダイレクトな内容でした。当時の日本では朝廷が外交を担当していたのですが、朝廷は唐突な元からの従属要求に大混乱、慌てて鎌倉幕府に使者を送り対応を相談しました。

突然外国から従えと言われて素直にハイと言えるはずもなく、だからと言って突っぱねて戦いになっても困りますよねということで、責任を幕府にブン投げてきた感は結構ある気がします。ですが元の実力を知ってか知らずか幕府は断固拒否の構えを取り、「従属国になんかなりません」という返事を元の使者に伝えています。

高まる緊張に警戒する幕府

日本に対して高圧的な外交を繰り広げて失敗した「元」ですが、この段階ではまだまだ「南宋」との戦いが続いており、はるばる海を渡って日本に攻め込めるような段階ではありません。つまりこの時点での「元」はハッタリをカマしている状態なのですが、できれば外交で片を付けたいということで、一度日本に断られた後も日本に従属することを迫り続けました。

ですが「南宋」との戦いが優勢に傾き始めると、「元」には日本を攻めるだけの軍事的な余裕が生まれ始めました。となれば「元」はもう外交でイチャイチャやる必要はない訳で、「従わないのなら攻めましょう」というシンプルな結論に至るのも必然でしょう。とは言え日本は遥か海の向こうにいるため、兵を輸送するための軍艦を作る必要があります。という訳で「元」はここからようやく軍艦の製造を開始、時間を掛けながらゆっくりと日本侵攻の準備を始めました。

当時の幕府執権は18歳かつ就任したばかりの北条時宗でしたが、周囲の支えもあったためか九州へ御家人をいち早く配置するなど、意外と適切な対応を見せています。元から「従属しなければ侵略するぞ」と警告を受けた際にも時宗は全て拒否、強硬な姿勢を見せながら九州の防備を固めました。

そして1274年、シビレをきらした元がついに満を持して襲来してきました。

元寇と日本軍の対応

元寇の一回目・文永の役

未知の兵器を駆使して優位に立った元軍

元軍は日本本土の前にさしあたって壱岐の島と対馬を制圧、その勢いで九州北部に艦隊を派遣し攻め寄せてきました。幕府は九州の御家人を中心に迎撃態勢をとりますが、騎馬ごと上陸してきた元軍は縦横無尽に駆け回り、「てつはう」といった火気や日本では使われない毒矢で優位な戦場を作り上げました。

この文永の役と呼ばれる戦いは元軍が九州に上陸し暴れまわったことで、近隣の村々にも被害が出たとされています。日本の騎兵は基本的に長射程だけど引くのが大変な大弓を装備していたのですが、元軍は馬上でも簡単に引ける短弓だったため、動き回りながら撃ってくる元軍に対して日本はやや不利な戦いだったようです。しかも毒付きということでカスッただけでも大ダメージ、さらに「てつはう」の音で馬がビビって動かなくなったりと、慣れない戦い方に御家人達も苦戦を強いられ続けました。

じわじわと押され続けながらもなんとか耐えしのいでいた幕府軍でしたが、ある朝に元軍がいた場所を見てみると、元軍がいなくなっているという不思議なことが起こりました。実は前日の戦闘で元軍の司令官が負傷していたようで、どの程度のキズだったのかまではわかりませんがとりあえず継戦不可能だったようです。日本からすれば九死に一生を得た格好ですが、さらに日本の幸運が続き、元軍の撤退中にタイミング良く強風が吹き、多くの船が沈没し元軍の被害は大きなものとなりました。

文永の役は神風で勝った説とは

よく目にする、元軍が夜に船に戻ったところに神風で大逆転、といったシナリオはやや信憑性が薄いようです。

筆者は戦争に出たことはないので実際のとこは分かりませんが、戦争における「上陸」はかなりの被害を覚悟する行動らしく、近代の戦争でも「水際作戦」なんて単語をしばしば見かけます。ですが「神風で逆転勝利説」では元軍は一度上陸に成功しているにも関わらず、夜になったら船に戻ったことになっていますが、船に戻ったらまた上陸の必要がある点が矛盾しているという訳ですね。

という訳でこの文永の役では元軍の司令官が負傷し、撤退しようとした所でタイミングよく強風で一掃した、という説の方が信頼度が高い気がします。この強風を神風というのであれば確かにそうかもしれませんが、元軍からすれば「泣きっ面に蜂」くらいの追い打ちを食らった感じでしょうね。

元はまだまだ日本を諦めない

司令官の負傷と強風が重なり大きな被害を出した元軍でしたが、このくらいのことではまだまだ日本侵攻を諦めていませんでした。とは言え兵と将官、そして軍船を大量に失ってしまったことも事実ですので、ここで一旦態勢を立て直す必要があった訳です。ということで元軍はしばらくの間は大人しくしていましたが、「ワンチャンスあるかな?」くらいにまたも従属要求をする使者が日本に送られています。ですが防戦を成功させた北条時宗は当然の断固拒否、そして次なる侵攻に備えるために着々と防備を整えました。

一方、文永の役が終わった頃の「元」は「南宋」とも並行して戦っており、戦況としては「後ひと押し!」くらいに攻勢を強めていました。という訳でこの時の「元」は先にこちらの侵攻を優先したようで、一気呵成に攻撃を受けた「南宋」はこの2年後には滅亡してしまいました。こうなれば日本への侵攻に専念できるという訳で、「元」は軍船の建造やら軍団の編成をみっちりとこなし、準備万端となったところで再び日本に向けて出発します。

元寇の二回目・弘安の役

文永の役を上回る元軍の巨大艦隊

文永の役でまさかの敗戦を喫したフビライ・ハンでしたが、さすがにこのくらいで諦めるような根性なしではありません。むしろさらなる軍備の増強を行い、あり得ない数の船を製造し巨大艦隊を編成しました。実はこの時の艦隊規模は当時の世界レコードクラスだったようで、つまり弘安の役での日本軍は当時の世界史上最強の艦隊を迎え撃ったことになります。しかも乗船している兵は多くの戦場を駆けずり回った歴戦の精鋭ということで、フビライ・ハンが本気で日本侵略を考えていたことがヒシヒシと伝わってきます。

日本軍の水際作戦と二度目の神風

この時の日本にとって幸運だったことは、文永の役から弘安の役まで7年もの時間を対策に使えたことでしょうか。元軍は史上類を見ない巨大艦隊を用意してはいたものの、対する日本も文永の役を経て経験を積んでおり、対策のためにたっぷりと時間を使うことができています。という訳で日本軍は元軍が上陸してきそうな箇所に石積みの防塁を作り、さらに騎馬対策として砂浜に杭を埋めたりと、「元軍を上陸させない」という方針でしっかりと準備を整えていました。このことは文永の役で元軍を上陸させてしまったが故に苦戦したということで、「ならば上陸させなければ良い」という発想の作戦だったものと思われます。

いざ戦闘が始まると、陸と海両方で激しい戦闘が行われています。準備していた防衛設備が功を奏したのか、元軍の上陸をなかなか許さない展開でした。

一度は取られた壱岐の島を奪還するなど幕府軍も大いに活躍し、艦隊同士による海戦まで行われています。そして季節が夏の終りに差し掛かった頃に台風が襲来し、海上にいた元軍はまたもや壊滅的な被害を受けることになりました。

3ヶ月近くも元軍は上陸に手間取り海上にいたため、台風シーズンに入って台風が来るのはある意味必然と言えます。とは言えあまりにタイミングの良い台風に、日本では「神風」の噂が流れたようです。

元寇後の「元」と鎌倉幕府

それでも日本を諦めない元でしたが

その後も元は、日本に対して従属要求の使者を送り続けました。フビライ・ハンは日本を諦める気はなかったようで、3回目の進行計画も準備されていたようです。

ですがそのうちに元の中で内乱が起こり、日本侵攻どころではなくなりました。そして内乱が収まり、ようやく日本侵攻の準備を整えようとした頃に、フビライ・ハンが病気で死去します。

そして元皇帝の跡を継いだテムルは日本侵攻を望まず、これ以後に日本侵攻は計画されなくなったようです。

元寇後の幕府

文永の役、公安の役でも御家人達の活躍と、タイミングの良い強風で元寇をしのいだ幕府でしたが、実はその後もかなり苦しい状況が続きました。

幕府成立時も平氏を倒して領地を奪い、奥州藤原氏を倒した時も領地を奪い、承久の乱でも領地を奪うことに成功した幕府でしたが、元寇は日本にとってあくまで防衛戦であるため、報奨として渡せる土地を今回は奪えていないことが大きな問題となります。

武士道なんてない

武士道という考え方は江戸時代になってできています。鎌倉時代の武士には主君のために身を投げ打つような考えはまったくなく、根本的には利害関係でのみ結びついています。幕府が関係する戦争に参加することで幕府から領地をもらうという、中世は世界の多くの国で採用されていた封建制度で成り立っている関係です。

武士道という概念の変遷についてはこちらからどうぞ。

御家人達は幕府の命令で体を張って元と戦ったのですが、何の報奨も得られないことで幕府に対する不満を溜め込むことになります。また、幕府は元が再度攻めてきた時のために九州に御家人を置き続けました。基本的に戦争にかかる費用は自費で賄うことになるため、御家人達は経済的に困窮し、多くの御家人が借金で苦しむことになります。

元寇に勝利しても苦しい武士達が海賊化した「倭寇」についてはこちらからどうぞ。

こうして御家人が弱り不満を溜め込んだことで幕府の力が弱まり、滅亡への道をじわじわと歩み始めることになります。元寇はやはり幕府にとってはただの厄災だったのかもしれませんね。

まとめ

今回は元寇についてのご説明をしました。

次回は元寇によって力が衰えた幕府が、ついに終わりを迎えることになります。ぜひご覧になってください。

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