主君と臣下の利害によって成り立っていた封建制

江戸時代

封建制とは

鎌倉時代から江戸時代までの、いわゆる武士の時代の土台となった社会制度こそが封建制です。封建制とは君主が臣下に対して土地の領有権を与え、封建領主となった臣下が君主に軍事的、あるいは経済的な奉仕をする制度となります。日本史においても時代によって細かな変化はありますが、江戸時代まで概ね同様の体制が続いています。

各時代における封建制の特徴

鎌倉時代の封建制はドライな「御恩と奉公」

武士と言えば皆が皆「主君に対する忠誠心!」なんて言ってそうなイメージがありますが、そんな武士はむしろ少数派です。もちろん中には忠義に溢れた人もいたのかもしれませんが、大半は家族・一族のための「利益」を最優先していました。

鎌倉幕府と御家人の関係を表した「御恩と奉公」という有名なフレーズがありますが、これは実際のところ「ご恩があるから奉公してるだけ」くらいの意味だったりします。そのため利益なしと判断し幕府への奉公を投げ出した者も多く、特に「元寇」が収束した後は結構な数の武士が「悪党」と化しました。この「主君は臣下に利益をもたらしてナンボ」という考え方は戦国時代まで当たり前のように続き、中には藤堂高虎のように7度も主君を変えたツワモノも登場しています。

7度も主君を替えた藤堂高虎の生涯と主君遍歴はこちらからどうぞ。

江戸幕府が成立して以降の封建制

天下統一を果たした豊臣秀吉、そして関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康にとって、「奉公を投げ出した武士」はただ討伐の対象でしかありません。鎌倉幕府、室町幕府、そして戦国期の各大名は臣下をまとめ上げる手腕が必要とされましたが、圧倒的な強者にはそんなものは要らず、少しでも逆らう者がいれば即討伐すればいい訳です。豊臣政権は10年も保たずに解体していますが、江戸幕府は約250年もの期間を統治し、武士達の価値観まで一気に変えてしまいました。

土下座侍

これまでの封建制ではある程度臣下をコントロールする必要がありましたが、全てを武力で解決できる徳川将軍家にそんなものは必要ありません。臣下である大名、特に外様大名達は将軍や江戸幕府に対し、「盲目的な忠誠心」を見せることでしか生き残れない程に実力差があった訳です。ですが世代をまたぐうちにそれが当たり前となり、「武士たるもの二君に仕えず」なんて格言まで生まれてしまいました。そんな武士達の情けない風潮を良しとせず、抗うように生まれた概念こそが「武士道」だったりします。

「武士道」についての記事はこちらからどうぞ。

ヨーロッパの封建制

中世日本の封建制同様にかなりドライ

中世ヨーロッパの封建制は、君主が領主の土地の保護を約束する代わりに、領主が軍役や納税の義務を果たすという仕組みになっていました。ですが他国から攻撃を受けた領主を助けない君主も多く、そういった場合には即座に従属関係が解消されるサッパリ目な間柄だったようです。

「騎士道」なんていかにも忠義に溢れてそうな言葉がありますが、これはあくまで「君主にとっての理想」でしかありません。中世ヨーロッパの騎士達は鎌倉幕府の御家人と同様、利害関係で動く打算的な人の方がメジャーだったようです。ですが物語の中の忠誠心に溢れた騎士達がやたらとカッコよく見えるためか、後世の創作では勇敢で忠義に篤い騎士ばかり登場しますよね。

テンプレートな騎士が登場する騎士道物語の一つ「ガウェイン卿と緑の騎士」

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なんとなく売れてなさそうですよね。

臣下の臣下は臣下ではない

これは日本史の封建制においてもほぼ同様ですが、中世ヨーロッパでの君主にとって封建領主だけが臣下扱いになります。もし封建領主に仕える臣下がいたとしても、その臣下は君主にとって臣下ではないということで保護の対象外となっていました。つまり君主は直接従属関係がある場合にのみ保護する責任を負っていたのですが、逆に言えば封建領主の臣下は君主に奉仕する義務はないという、かなり複雑な権利関係だったようです。要するに誰もが「余計な仕事をしたくない」だけということで、騎士達も責任の押し付け合いをしていたというお話でした。

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