日本中世までの騎馬隊事情

騎馬兵 その他考察

今回の記事では、日本の古代から戦国時代にかけての騎馬隊についてご説明したいと思います。

騎馬は武士のシンボルです

人と馬の共存は古代から

古事記にも馬に関する記述があるなど、日本でも古代から馬は生活や軍事的に利用されていました。ハニワにも馬に鞍などが取り付けられているものが多く、また馬装品そのものが出土するなど、古墳が建造される頃にはすでに馬の活用がかなり広く普及していたものと思われます。

ハニワ馬

日本でも氷河期時代には野生の馬がいたのですが、氷河期の終わりとともにほぼ絶滅しています。草原が多くあった氷河期から温暖な気候に推移すると、日本列島には草原が激減し、代わりに大型の樹木が生い茂りました。エサ場となる草原がなくなったことで馬にとって生存が難しい自然環境となり、馬は一旦日本の大半の地域から姿を消すことになります。

その後古墳時代に入ると朝鮮半島から軍事的な目的で馬が輸入され、馬の繁殖のために人の管理が入るようになりました。4世紀末頃に輸入された馬は順調に数を増やし、5世紀にはすでに関東地方など日本各地に馬がいたことが確認されています。

蝦夷から騎乗と騎射技術がもたらされる

古代より東北地方には、奈良や京都の朝廷に属していない蝦夷(えみし)という別の民族が住んでいました。北の地方には馬が残っていたのか、または朝鮮から輸入された馬が東北にまで普及していたのかはわかりませんが、蝦夷は馬の扱いを得意としていた騎馬民族だったとされています。

蝦夷人が朝廷に仕えた事例も多くあり、そういった蝦夷人は俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、朝廷に属していた人々に騎乗や騎射の技術を伝えました。同時に馬の飼育方法についても伝わって来ており、大掛かりな生産が可能となりその数を一気に増やすこととなりました。7世紀の大化の改新で各地に朝廷が管理する牧場が作られ、また馬は駅馬など情報通信の手段として使われるようになっています。

蝦夷は平安時代の初期に坂上田村麻呂によって討伐を受け、大きく勢力を弱めた後には様々土地へ俘囚として移り住み、各地に騎乗文化や飼育方法などを伝えています。

平安初期の蝦夷征討についてはこちらからどうぞ。

武士としてのステータス

平安時代に起きた徳政相論によって一般人から兵員を徴発する時代が終わると、地方行政府の依頼により軍事貴族や武士化した農民などが治安維持にあたることになります。専業化した戦闘員達は強制的に徴発された兵とは違い、騎乗馬を用意し装備もキッチリと整えていました。この頃から武士という言葉が使われ始めるようになり、「武士=騎乗している戦闘員」という概念が定着していきます。

この概念は後の時代に引き継がれ、平安初期以降の時代では戦闘は武士(=騎馬兵)がするものされ、公式な戦闘は全て武士によって行われることになります。単純に腕っぷしが強いだけでは武士とは認められず、騎乗してそれなりの装備を身につけていないと戦闘に参加することもできないという、武士という公的な身分が出来上がってきた時代でもあります。

武田騎馬隊は実在したのか

戦国時代における騎馬隊といえば、武田信玄率いる武田騎馬隊が有名です。ですがこの武田騎馬隊は現代では存在自体が疑問視されており、実在したかがアヤフヤになっています。

武田信玄の本拠である甲斐国(現在の山梨県)や信濃国(長野県)には、古代より政府直営の牧場である「御牧(みまき)」が設置されていました。そのため馬産について他国よりも大きなアドバンテージがあり、また騎乗技術が発達していたことも確かでしょう。

木曽馬
木曽馬

日本の中部地方で生産されていた馬は木曽馬という品種で、上の写真のように西洋馬と比べて足が短く太く、体高が低い特徴があります。また蹄が硬くちょっと外向きになっているため、山道の移動も苦にせず歩行することができます。

現在の地図を見ても分かる通り、山梨県や長野県には平地が少なく、騎馬兵の機動力を活かすには地形的に問題がある気がします。ですが武田信玄はこの木曽馬を使って騎馬隊を編成し、勾配のある山道でも機動戦を展開したのではないでしょうか。

武田信玄の後継者である武田勝頼と織田信長が激突した「長篠の戦い」の記録では、武田騎馬隊に対して織田信長が警戒していたという記述が見られます。ですので武田騎馬隊はいたにはいたのでしょうが、規模などが一切不明というモヤモヤする結論となっています。

ですが騎乗して馬上で槍を振り回している方がカッコいいですし、戦争に招集される兵だってどうせ戦場に出るなら馬に乗りたいと思うのが人情じゃないですか? という訳で、筆者は武田騎馬隊が実在したと信じています。

長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。

騎馬兵の戦術

鎌倉時代頃までは騎射がメイン

朝鮮半島からの馬の輸入が始まった5世紀頃には、すでに騎射を行っていたという記録が残っています。元々あった騎射に蝦夷から高度な技術が伝わってきたため、平安時代頃には騎乗しての武器は弓矢がメインとなっていました。

流鏑馬

今現在でも伝統として残る「流鏑馬」のように馬を走らせながら矢を射るだけでなく、機動力を活かして接近し矢を射って離脱、といった戦術が採られていたようです。槍や薙刀といった武器に比べて軽い弓矢を使うことで、馬の脚の早さを最大限に活かす戦術ですね。世界史でも弓騎兵が活躍した戦争は数多く、歴史上最も領土を広げたモンゴル帝国も弓騎兵を主軸に勝ち続けています。

室町時代には接近武器が登場

長いことナンバーワン騎乗武器の座に君臨し続けていた弓矢でしたが、室町時代に入った頃には騎乗武器に地域性が出てきます。南北朝に分かれて争っていた時期では、関東では相変わらず弓矢が騎乗武器のメインだったのですが、西日本では弓矢に対抗するために槍や薙刀といった接近武器を持つ騎馬兵が現れ始めます。

槍や薙刀といった接近武器を持った騎馬兵は当然射程では敵うはずがないのですが、盾を構えて突撃することで被害を最小限に抑えて接近し、敵に追いついたら馬を攻撃して落馬させたら勝ち、といった戦い方で弓騎兵に対して優位を取ることができていました。西日本勢の接近攻撃に苦しめられた東日本勢も段々と接近武器を採用するようになり、戦国時代の頃には弓騎兵が完全に姿を消しています。

戦争参加時の装備は自前で用意することが当たり前であったため、目立ちたいという気持ちからでしょうか、ちょっと変わった武器を持った武士が登場しています。刀身が150cm以上もある大太刀や金棒といった打撃武器など、一風変わった武器も使用されています。

鬼に金棒
*あくまで金棒のイメージです

長槍や鉄砲の登場で下火

足軽という徒歩の兵が戦場に登場した当初は、騎馬兵は圧倒的な機動力と高さを活かした攻撃で足軽兵に対して優位をとっていました。1メートル以上も高いところから振り下ろされる薙刀は、徒歩でロクな装備も持っていない足軽兵にとっては絶望的な程の破壊力があったでしょう。

ですが戦国時代後期には足軽の装備に長槍が採用されるようになると、騎馬兵の状況が変わってきます。足軽の長槍は騎乗している兵よりも馬を優先して攻撃するようになり、また馬上で扱うことのできる槍の長さには限界があったため、騎馬兵による突撃が簡単に防がれるようになりました。足軽が持つ長槍は一般的に4メートルから6メートル程度の物が用いられていましたが、織田信長に至っては8メートルを越える長槍を採用しています。戦闘に不慣れな兵でも構えて前進するだけで立派な戦力に仕上げられる長槍は、多くの戦国大名達によって足軽の武器として採用されており、騎馬兵の活躍の幅が激減してしまいます。

また鉄砲が登場すると鉄砲兵は突撃してくる騎馬兵の馬を率先して狙うようになり、騎馬隊の天敵となります。鉄砲隊からしても接近スピードの高い騎馬兵は脅威であったため、優先して真っ先に撃ち抜かれることになります。

鉄砲伝来についての記事はこちらからどうぞ。

騎乗歩兵という運用方法

騎馬兵の馬を使った高い機動力は、目まぐるしく変化する戦況に対処するために非常に効果が高いことは確かです。ですが騎乗しながら敵の正面から突撃すれば密集隊形でハリネズミのようになった槍衾の餌食になり、待ち構えている鉄砲で馬を撃ち抜かれることになります。

こういった騎馬兵のジレンマを解決するために、戦国時代には騎乗歩兵というハイブリッドな運用方法が採られています。敵陣の防備の薄いところに移動し、到着すると下馬して攻撃し、状況がまずくなったら離脱といった戦い方がされるようになりました。もちろんチャンスがあれば騎乗したまま突撃できるといったメリットもあり、また騎乗歩兵での運用であれば重い鉄砲も馬でスピーディーに運ぶことが可能です。

こうして騎馬兵は戦い方を変えながらも、結局廃れることなく「関ヶ原の戦い」まで使われ続けています。

夢のコラボ 騎馬鉄砲隊

騎馬で移動しながら鉄砲を撃てば最強じゃないですか、と戦国時代の歴史を学んだ人なら一度は思うことでしょう。騎馬の機動力と鉄砲の破壊力が融合したのなら、それこそ最強の兵種とも言えるでしょう。

戦国時代までの鉄砲は銃身の先端から弾や火薬を込める火縄銃ですので、一発発射するためには熟練した火縄銃兵でも2分程の時間がかかったとされています。その装填作業を馬上で行うことは難しいというか不可能で非実用的であるため、結局日本では戦国時代を通して騎馬鉄砲隊という兵種は存在しませんでした。

ですが江戸時代初期に起きた大坂の陣では、伊達政宗がその夢をうっすらと実現してくれています。伊達政宗の騎馬鉄砲隊は予め発射準備の整った銃を持ちながら突撃を始め、突撃直前に一斉射撃、敵が怯んでいる隙に騎乗したまま敵陣に切り込むというものでした。このロマン溢れる騎馬鉄砲隊の前に立ちはだかったのは徳川家康に日本一のツワモノと言わしめた真田幸村でしたが、真田幸村が強すぎたのかここで騎馬鉄砲隊は敗北を喫しています。その後は江戸幕府による泰平の時代に入ったため、騎馬鉄砲隊もそれ以上の進化をすることはなく、江戸時代初期の1コマとしてだけ歴史に残っています。

ちなみにヨーロッパでも17世紀中程ぐらいには、銃器を持った騎馬兵が登場しています。この銃器を持った騎馬兵はドラグーン(竜騎兵)と呼ばれ、登場した当初は日本の戦国時代の騎馬兵同様に騎乗歩兵として運用されていました。ですが銃器が発達し再装填が簡単になると機動力を十分に活かしながらの砲撃が可能となり、自動車や戦車が登場する時代までは戦場の花形として活躍することになります。

竜騎兵を描いた絵画
ヨーロッパの騎馬鉄砲隊・ドラグーン

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