天下三名槍 | 日本号・蜻蛉切・御手杵について

天下三名槍 戦国時代

天下三名槍とされる日本号・蜻蛉切・御手杵

今回の記事では、戦国時代に作られた日本号・蜻蛉切・御手杵(おてぎね)の3つの名槍についてご紹介いたします。

3本の槍はどれも室町時代から戦国時代に作られていますが、天下三名槍という言葉自体は江戸時代に入って使われ始めています。鎌倉時代あたりまでは武士の騎乗武器と言えば弓が主流であり、また下馬戦闘は刀での打ち合いが普通だったため、「槍」という武器そのものの需要があまりありませんでした。ですが騎乗武器として槍が流行し始めると名工と呼ばれる刀鍛冶も槍製作に着手し始め槍の性能や装飾の精度も向上、そして名槍と呼ばれる品も登場し始めます。そして「西の日本号、東の御手杵」と並び称されていたところにいつの間にか蜻蛉切が入り、天下三名槍と呼ばれるようになっています。

騎乗武器の遷移についてはこちらの記事で。

それでは一つずつエピソードや特徴をご紹介したいと思います。

日本号

精巧な細工が施された至高の大身槍

戦国時代の初期に作られた日本号は、あまりに見事な出来栄えだったため皇室に献上され、天皇家の所有物となっています。そして槍なのに正三位という上級貴族の官位を受けるという不思議な快挙を成し遂げており、槍とはいえ高貴な存在として朝廷内で認知されています。一本の槍の名前に国の名前が付いたという事実からしても、当時この槍を見た人々にどれほどの感銘を与えたのかが窺い知れます。

日本号の写真

槍身の長さは80センチ程度あり、柄の部分を含めた全長は3メートル20センチというやや短めのサイズではありますが、最も特徴的なのは槍身に施された装飾でしょう。槍身の付け根にあたる部分に浮き彫りにされた倶利伽羅龍の装飾は、遥かに高い技術で作られた現代の工芸品に見劣りしない出来栄えでしょう。刀身彫刻に携わる人にとって日本号は無視できない存在のようで、腕に覚えがある刀匠は生涯一度は日本号の写しに挑戦するとまで言われています。現代に入ってからもトライした実例はかなりあるようで、高名な刀匠の写し作品は美術館などで展示されています。

20数年の間に持ち主が替わりまくり

元は天皇家が所有していた日本号は、戦国時代に多くの著名人の手を渡り歩き、戦国末期には黒田官兵衛の家臣・母里友信の手に渡っています。天皇家から室町幕府15代将軍・足利義昭に渡り、織田信長と豊臣秀吉を経由して豊臣家家臣・福島正則が所有し、最終的に母里友信の手に渡るという華麗な持ち主遍歴を持つ槍でもあります。

母里友信の手に渡った後は江戸時代を通して母里家の家宝として伝えられ、大正時代に入ってから旧主家の黒田家に贈与されています。その後昭和時代後期に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館で常設展示されています。

「呑取」という通称のエピソード

母里友信が黒田官兵衛の使者として福島家に訪れた際、面会相手の福島正則はすでに酔っ払い状態となっていました。後世にまで酒癖が悪かったと伝えられる正則は、酒豪で有名な母里友信の来訪を喜んで酒を勧めます。友信は使者として公用で来ていることを理由に断り続けますが、酒癖の悪い正則は苛立ちながら酒をしつこく強要し続けました。

自身の勧めた酒を飲まない友信に苛立った正則は、友信のみならず黒田家まで侮辱する煽り発言を放ち、大盃に酒をなみなみと注ぎました。そして「これを飲み干したら何でも欲しい物をやる」とさらに煽ると、友信は態度を一転させて大盃の酒を一気飲みし、約束通りに日本号を持ってスタスタと立ち去りました。このエピソードになぞらえて、この槍は「呑取」という異名でも呼ばれることになります。この時のエピソードが黒田家中だけでなく世間でも広く知られ、「黒田節」という民謡の歌詞にもなっております。

酒は呑め呑め呑むならば 日ノ本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士

ちなみに翌日の朝に事態を思い出した正則は、日本号を諦めることができずに代わりの品物との交換を申し入れていますが、友信は取り付く島もなく徹底拒否します。身から出たサビであるにも関わらず正則は友信を恨んだため両者の関係が悪化しましたが、これを見かねた竹中半兵衛の従兄弟・竹中重利の仲裁によってようやく和解に至っています。

蜻蛉切

徳川家の重臣・本多忠勝のトレードマーク

室町時代に作られた蜻蛉切は戦国時代に徳川家家臣・本多忠勝の手に渡り、以後戦場での活躍を支え続けます。本多忠勝が各地で戦功を挙げるとともに蜻蛉切も有名になり、天下三名槍入りを果たしています。

本多忠勝についての記事はこちらからどうぞ。

蜻蛉切レプリカ

柄の部分は現存していませんが螺鈿(らでん、真珠質の貝殻が使われた装飾のこと)が散りばめられていたと伝えられており、また笹型の槍穂には梵字(ぼんじ)と独鈷剣(どっこけん)が彫り込まれるなど、美術品としてもかなり質の高い仕上がりとなっています。

蜻蛉を切ったから蜻蛉切

槍穂が大きな笹のような形をしていた蜻蛉切は、槍という突くための武器であるにも関わらず切れ味にも優れていたようです。蜻蛉を切ったからそのまま蜻蛉切と名付けられたようですが、槍穂に止まった蜻蛉が真っ二つになったという説や、本多忠勝は飛んでいる蜻蛉を切り落とす程槍術に優れていたためこの名がついたという説があります。前者の理由ならまだしも、後者の理由の場合では完全に本多忠勝の槍術ありきな気もしますが、いずれにせよ蜻蛉を切ったという逸話からのネーミングのようです。ちなみに本多家にはもう一本「蜻蛉切」と呼ばれる槍があったという記録が残されています。こちらはあまり歴史の表舞台には出ずひっそりと行方知れずになっています。

蜻蛉切は江戸時代を通じて本多家で大事に保管された後に、第二次世界大戦後に静岡県に住む収集家の個人所有となっています(2021年現在)。

御手杵

手杵の形の鞘に収められたから御手杵

京都を含む関西で名槍とされた日本号に対して、御手杵は関東で有名な槍となっていました。柄まで含めて4メートル弱と全体の長さは普通の槍ではありますが、この槍の特徴的な部分は槍身のサイズでしょう。

御手杵レプリカ
(画像はレプリカです、詳細は下部の見出しで)

槍穂(柄の先に出ている刃の部分)だけで約140センチもの長さがあり、茎(柄に埋まる部分)の部分まで含めると金属部分だけで2メートルを越えています。そこまで長いと最早槍ではなく薙刀だったのではないかと疑ってしまいますが、穂の先端はキッチリ正三角形となっており、突いて攻撃するための武器として作られています。

槍なのに「御手杵」という名前がついた理由は、鞘として使われた品物に由来しています。杵と聞くとお正月の餅つきで使われるタイプは打杵と呼ばれる物で、この打杵は江戸時代に入ってから普及しています。打杵が作られる前の脱穀や餅つきには手杵が用いられ、この手杵型の鞘が用いられたため「御手杵」という名前がついています。

手杵の写真

結城秀康が養父から受け継いだ御手杵

下総国(現代の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部あたり)の戦国大名・結城晴朝の注文によって御手杵は作られています。後に結城家に養子入りした徳川家康の次男・結城秀康に受け継がれ、江戸時代に入ってからは結城家から改姓した松平大和守家の象徴として手厚く扱われています。

結城秀康についてはこちらからどうぞ。

江戸幕府三代将軍・徳川家光の時代に参勤交代が始まると、松平大和守家は江戸への行き帰りに必ず御手杵を持ち歩いています。徳川家に縁のある名家としての威厳を示すために名前にちなんだ鞘が作られた結果、1.5メートルもの高さと45センチの直径を持つ巨大な鞘が誕生しています。

御手杵と鞘

槍穂が1.4メートルもあるため高さは納得がいきますが、直径の太さはいささかやりすぎ感が否めません。この巨大な鞘は通常時でも22キロを越える重量がありましたが、雨が降ると木や装飾用の熊の毛が水をたっぷりと含み、37キロを超える重量になっていたようです。幸いなことに松平大和守家は多くの引越しを経た後に、江戸の町にかなり近い武蔵国(東京都と埼玉県南部)川越藩主となったため、御手杵を抱えて運搬する係の人も胸をなで下ろしたことでしょう。

東京大空襲によって焼失

江戸時代を通じて松平大和守家の象徴となり続けた御手杵は、幕藩体制が解体した後は藩主の子孫が受け継ぎ、東京の松平邸で大切に保管されていました。ところが太平洋戦争でアメリカ軍によって行われた東京大空襲で松平邸の蔵に焼夷弾が直撃、御手杵だけでなく一緒に保管されていた数々の名品が全て焼失してしまいます。

松平邸の蔵には湿気による品物の傷みを避けるため、丁寧に木炭が敷かれた造りになっていました。そこに発火性の強い焼夷弾が落ちると木炭に一気に引火し蔵の内部温度が急上昇、鍛え上がった鋼鉄も全てただの鉄塊に変えてしまいました。

御手杵は天下三名槍の中で唯一焼失してしまっていますが、現代でも名工と呼ばれる職人によって槍だけでなく鞘までレプリカが作られています。これは蜻蛉切と日本号についても同様で、有名な刀匠によるレプリカ作品は各地で展示されています。

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