徳川家康の天下取りに貢献した天下無双の忠義者
生涯で57回もの戦争に参加した本多忠勝は、その全ての戦闘でカスリ傷の一つすら負わなかったといいます。だったら後ろで指揮だけして兵だけを戦わせていたのでは?なんて思ってしまいますが、むしろ忠勝は「一騎駆け」や少数の兵での突撃というかなりの無茶もしており、スタイル的にはどちらかと言えば猪武者でしょう。
徳川家だけでなく同盟国・織田家でも敬意を受ける程の武勇を持っていた忠勝ですが、指揮官としてもかなり優秀な能力を持っていたようです。また関ヶ原の戦いの後には伊勢桑名藩の藩祖として繁栄の土台を築くなど、政治的な能力の高さも見せつけています。さらに徳川家康に対する忠誠心が高く、どんな状況でも主君を第一に考えるという、戦国大名にとって家臣の理想を絵に描いたようなハイスペックな人物でもあります。
戦場での派手な活躍だけでなく地味な役回りも厭わずにこなす忠勝は、家康や味方だけでなく敵となった人物からも称賛を受けています。小牧・長久手の戦いでは忠勝のせいで勝機を失った豊臣秀吉も、忠勝の振る舞いを褒め称え、自身の配下に引き入れたいという願いを周囲に漏らしたというエピソードすら伝わっています。忠勝は武勇だけでなく人望によって味方を引き入れたという点でも、家康の天下取りに大きく貢献したと言って間違いないでしょう。
本多忠勝の戦績
桶狭間の戦いで初陣
本多氏は徳川家に改名する前の三河松平家に、家康の曽祖父の頃から仕える一族です。そんな家柄に生まれた本多忠勝はごく自然に松平家に仕えており、6歳年上の家康に付き添うように桶狭間の戦いで13歳にして初陣を飾っています。
三河松平家は家康の父・広忠の代で今川家に従属しており、今川家と織田家の戦いに巻き込まれる形で何度か織田家と戦っています。桶狭間の戦いでの徳川家康は最前線で織田軍と戦っていましたが、今川義元が奇襲によって討ち取られると即座に撤退、これ以降は独立勢力として今川家と敵対し織田家との同盟を組みます。
徳川家康の三大危機の一つ「三河一向一揆」
本多忠勝・一揆と戦うために浄土真宗から改宗
桶狭間の戦いを経て今川家からの独立を果たした徳川家康は、自身の領土である三河国の平定に乗り出します。というのも三河国にはもともと浄土真宗の寺院が多く、その寺院に所属していた人々は独自の利権を主張、家康への納税を拒否していました。そこで徳川家康は浄土真宗勢力を解体して自身の勢力下に取り込もうとしますが、独立を志向する浄土真宗勢力はやはり猛烈に反発しました。そして民間人だけでなく多くの徳川家家臣が浄土真宗勢力に加わり、見知った仲間同士で血みどろの戦いをするという内乱に発展しています
この時家康の配下武将も多く浄土真宗側についており、本多忠勝の本多氏からも数多く一揆勢に加わっています。戦前には忠勝も浄土真宗を信仰していたのですが、この事態にあたって即座に浄土宗に改宗、そして家康の旗本として浄土真宗と戦いに臨んでいます。
苦悩する徳川家康を支えながらの勝利
自国領土内に敵勢力が点在する状況での戦闘は他拠点との連絡もままならず、また身内同士の戦いということで士気も上がらず困難を極めました。ですが信仰と主従関係の狭間で思い悩む家臣も多くいたため、家康は少しずつ浄土真宗から家臣を取り戻しながら敵拠点を攻撃、一年間に渡って戦い続けた結果なんとか浄土真宗勢力の解体に成功します。この間も本多忠勝は一貫して家康側の家臣として働き続けており、戦後には活躍を認められて徳川家の旗本部隊の隊長に任命されています。
ちなみに同じ本多氏の本多正信や本多正重は浄土真宗側として戦っており、一揆鎮圧後には両名とも他国へ脱走し、10数年後に徳川家家臣として復帰しています。同じ本田一族なので忠勝と正信は仲が良かったのかなくらいに思ってしまいますが、三河一向一揆で敵に回ったせいもあるのかもしれませんが、忠勝はこの正信のことが大嫌いだったらしく日頃から腰抜け呼ばわりする程だったようです。
三河一向一揆を含む徳川家康の三大危機はこちらからどうぞ。
姉川の戦いで家康を守るために一騎駆け
織田信長と浅井・朝倉連合軍との戦いに、織田家の同盟国として徳川家も参戦しています。姉川を挟んで睨み合いとなった浅井・朝倉軍と織田・徳川軍でしたが、徳川家康の攻撃によって戦いが始まっています。
戦端を開いた徳川軍に対して朝倉軍が反撃のために大軍で迫りますが、家康のいる徳川本軍の対応が遅れ防御態勢が整っていない状態でした。ここで徳川本軍の対応が遅れていることを見た本多忠勝は数千もの朝倉軍に対してなぜか単騎で出撃、朝倉軍の進路に1人で立ち塞がります。当然朝倉軍は一人ぼっちの忠勝に殺到しますが、これを見た徳川軍は忠勝を救出するために慌てて全軍突撃、結局この突撃がキッカケとなって朝倉軍を崩しています。徳川軍の局地的な勝利は次第に戦場全体に波及し、忠勝の無謀とも言える行為は結果的に姉川の戦いの勝利に貢献しています。
さらに忠勝はドサクサで徳川本陣に少数突撃してきた朝倉軍の猛将・真柄直隆を迎え撃ち、一騎打ちという戦国時代では珍しい戦いを挑んでいます。この一騎打ちは結局勝負がつかなかったようなのですが、2メートル近い太刀を振り回す真柄直隆と渡り合ったことで、徳川家や織田家だけでなく各地に本多忠勝の勇名が広まることとなります。
本多忠勝は名将・山県昌景を撃破する
武田信玄が足利義昭の要請によって西上作戦を開始すると、当時徳川家康が統治していた遠江国へ侵攻します。
武田信玄と徳川家康の戦いについての記事はこちらからどうぞ。
当初浜松城に籠城し織田家の援軍を待つ策を採っていた家康でしたが、武田信玄が浜松城を無視して西に進んだために、ちょうど武田軍が三方ヶ原に差し掛かったあたりで背後からの攻撃を仕掛けました。ところが家康の動きを読んでいた武田信玄は三方ヶ原で待ち構えており、徳川軍にとって不利な形で戦闘が始まります。
体勢が整う前に攻撃を受けた徳川本軍は始まって早々に脆くも崩れ、次々と名だたる家臣達が戦死していきました。その中で殿を努めた本多忠勝は武田家の名将・山県昌景を相手に孤軍奮闘、敗退するどころか撃退し、危うくなった山県昌景をむしろ武田勝頼が救援に来るという異質の強さを見せつけています。この間に家康は命からがら浜松城に逃げ帰り、なんとか危機を逃れています。
ちなみにこの戦いにおける本多忠勝の活躍を見た武田家臣が詠んだ狂歌がこちらです。
家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八
唐の頭とは当時の徳川家でブームを巻き起こしていたヤクの兜飾りを指し、本多平八は忠勝の呼び名である平八郎の名前そのものです。「過ぎたるもの」とされた忠勝は三方ヶ原で徳川軍が大敗北を喫したその夜に武田軍に夜襲を仕掛け、完勝を収めてご満悦の武田信玄に一矢報いることに成功しています。
徳川家康の価値を高めた「小牧・長久手の戦い」
圧倒的不利から始まった戦い
10万もの大軍を用意して戦いに臨んだ豊臣軍に対して、徳川軍は3万程度と圧倒的不利な状況から始まった小牧・長久手の戦いでは、当初本多忠勝は城の留守番を任されていました。圧倒的な物量を持つ豊臣軍に対しても徳川軍は善戦を重ね、数日に渡って膠着状態と小競り合いを繰り返しています。
両軍が睨み合ってから半月ほど経過した後に豊臣軍の武将・池田恒興が徳川家康本陣を攻撃すると、待ち構えていた徳川軍から鉄砲の一斉射撃を受け、続けて反撃を受けた豊臣軍は総崩れとなりました。ここで池田恒興は戦いの中で戦死しており、この段階では徳川軍の圧勝となっていました。ですが池田隊の壊滅を見た豊臣秀吉は徳川軍の側面に向けて突撃を開始し、このまま豊臣本軍の攻撃が刺されば家康の身にも危険が及びそうなところであの男が動きます。
ただ一騎で数万の敵を足止め
豊臣本軍は竜泉寺川を越えて家康本陣に向かっていましたが、その進路上になぜか本多忠勝が少数の護衛で登場します。1万を越す殺気立った軍勢の前に突如現れた忠勝は、竜泉寺川で下馬して馬の口を洗い、戦場真っ只中であるにも関わらずのんびりとした立ち居振る舞いを続けました。忠勝のあまりに呑気な様子を見た豊臣本軍は躊躇してしまい全軍停止、その間に体勢を整えた徳川軍は戦果だけを得て撤退に成功しました。
この後は徳川軍豊臣軍ともに一進一退の攻防を続けた後に外交によってウヤムヤのまま終わりますが、圧倒的な物量を持つ豊臣秀吉に対等以上に渡り合った家康の評価が一気に高まり、後に豊臣政権でのナンバー2の座につくキッカケとなっています。豊臣家の譜代家臣からのリスペクトも得ることができたため、後の関ヶ原の戦いでの味方作りにも大いに貢献した戦いだったでしょう。ほぼ1人で豊臣本軍の攻撃を食い止めたとも言える忠勝も称賛の的となり、秀吉本人からも「東国一の勇士」との評価を受けています。
本多忠勝の晩年
本多忠勝は関ヶ原の戦いの時にはすでに最前線を退いており、本田隊は長男の本多忠政が指揮を執っていました。ですがいざ戦いが始まると僅かな兵を率いて西軍に突撃、結局90もの首級をとるという凄まじい働きを見せています。この功績により忠勝は石高にして10万石もの領地を授与され、幕末まで続く伊勢桑名藩の初代藩主となっています。
戦乱が終わったことで武勇を売りとしていた本多忠勝の活躍の場がなくなり、幕府政治にはほとんど関わっていません。また無双で鳴らした忠勝も病気には勝てなかったようで、関ヶ原の戦いから9年後には隠居しており、その翌年に63歳で亡くなっています。
冒頭の見出しでもご紹介していますが、忠勝は生涯で57もの戦場に出ており、本当か嘘かはわかりませんが傷一つ負わなかったと言われています。ですが忠勝の傷について面白いエピソードが一つ残っておりますので、ご紹介したいと思います。
隠居中の忠勝が小刀で持ち物に名前を彫っていたのですが、その時にふと自分の指に傷を作ってしまったそうです。そして忠勝はその傷を見ながら、「自分も傷を作るようになったら終わりだな」と言い、その数日後に本当に亡くなってしまったそうです。忠勝程の人物ともなると切り傷一つに対してそんな想いを抱くのでしょうが、我々一般人が傷一つで死んでいたら命がいくつあっても足りませんね。
本多忠勝の豆知識
鹿角脇立兜と蜻蛉切に大数珠
本多忠勝のトレードマークと言えば、天下三名槍にも数えられる「蜻蛉切」でしょう。穂先にぶつかった蜻蛉が真っ二つになったという逸話を持つ蜻蛉切は、名工・村正の弟子によって作られています。槍の柄は当初6メートルもの長さだったのですが、体力の衰えに合わせて短くしていったようです。
蜻蛉切や日本号など天下三名槍についてはこちらからどうぞ。
忠勝は装備にもこだわりがあったのか、兜にはやたらと目立つ鹿角脇立兜を愛用していました。画像で見てもかなり大きく、これをかぶって6メートルもの槍を振り回していたらぶつかってしまいそうな気もします。そして肩から脇に大数珠を下げ、動きやすい軽装備で戦場を駆け回るのが忠勝のスタイルでした。数珠は忠勝自身が葬った敵を弔うために下げていたらしく、忠勝のちょっとした信心深さもうかがえます。
本多忠勝の辞世の句
天下無双の称号を受ける程の功績を残した本多忠勝でしたが、残されている辞世の句もなかなか忠勝らしさが出ているためご紹介したいと思います。
侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D
まさに侍の鑑、とも言うべきフレーズではないかと思います。忠勝はこの言葉通りにどのような戦場でも全力で戦い抜き、自身を投げうって主君・家康の盾となっています。ただ強いというだけでなく、家康のために戦い抜いた姿勢があったからこそ周囲に認められ、「天下無双」という称号が与えられたのではないかと思います。
本多家のその後
本多忠勝の子孫達は分家と領地替えを繰り返しながら、明治維新後まで存続しています。播磨国山崎藩の最後の藩主となった本多忠明も忠勝の子孫の1人であり、現代にもその血脈は受け継がれています。
楽天株式会社の会長兼社長(2021年現在)を務める三木谷浩史さんは本多忠明の玄孫(孫の孫)にあたるため、つまり本多忠勝の子孫ということになります。忠勝の子孫だから1代で大成功を収めたわけではないのでしょうが、困難な時にも「事の難に臨みて退かず」の精神で乗り越えたからかもしれません。
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