戦国時代8 室町幕府の滅亡 | 織田信長による足利義昭追放

足利家追放 戦国時代の時代史

室町幕府の滅亡

武田信玄の勝利に呼応して足利義昭挙兵

今回の記事では、室町幕府15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、200年近く存続した室町幕府がついに滅亡する場面をご説明いたします。

三方ヶ原の戦いでの武田信玄勝利の知らせを聞いた足利義昭は、京都で織田信長に対して挙兵しますがかなりフライング気味だったため何の戦果も得られず、天皇の勅命によってすごすごと和睦することになっています。足利義昭と織田信長が和睦をした頃、遠く離れた地で武田軍に深刻な事態が起こっていました。

それではまず三方ヶ原の戦い後の武田信玄について見てみましょう。

武田信玄の持病が急速に悪化

三方ヶ原の戦いで大勝利を収めた武田信玄はそのまま遠江の地に留まり続けて年を越し、順調に城を攻め落としながら侵攻し、年明けには隣の三河へと手を掛けます。

そして三河の野田城を攻め落とし順調に京都へ進んで行く武田信玄でしたが、ここで急に持病が悪化し、武田軍は停滞を余儀なくされます。しばらく療養のため三河に留まっていた武田信玄でしたが病状が回復しなかったため、自国甲斐への撤退を始めます。そしてその撤退の途上で武田信玄は病状が悪化し、京都へ辿り着くことなく亡くなってしまいます。

武田信玄は亡くなる前の遺言で自身の死を対外的に3年は秘密にするよう家臣達に伝えていますが、このことが足利義昭の悲劇を生むことになります。

足利義昭の再挙兵と室町幕府の滅亡

天皇の仲裁により和睦が成立したとはいえ、織田信長と足利義昭の関係はすでに最悪なものとなっていました。武田信玄の病死を知らされていなかった足利義昭は、いつか信玄が京都に上洛して来ると思っていたため、和睦して3ヶ月後にもう一度信長に対して挙兵します。

信長とはいえ幕府への反逆者という汚名を着ることは避けたかったため、トラブルの種になりがちな足利義昭をこれまで手元に置き続けていました。ですが2度目の裏切りに腹が据え兼ねたのか、足利義昭のいる城をすぐに攻め落として捕らえています。

ここで織田信長は、捕らえた足利義昭を京都から追放しました。そしてこれより先に足利家から将軍職を継ぐ者は出なかったため、この時点で室町幕府は滅亡となります。

室町幕府の滅亡後

幕府滅亡後の足利義昭

とは言え、足利義昭本人はこの時点でまだ自分自身が将軍であると考えており、せいぜい「ちょっと亡命しているだけ」くらいだったものと思われます。事実、征夷大将軍の職はまだ足利義昭であり、幕府機構はなくとも肩書だけは将軍ではあり続けていた訳です。

京都を追放された足利義昭は、この後に中国地方の毛利輝元の領地で保護を受けながら、日本各地の大名に使者を送り織田信長を倒すための動きを取り続けました。この直後に越後国(新潟県)の上杉謙信に幕府再興のための上洛を要請し、次なる信長包囲網の準備を進めます。

行きがかりで朝倉義景を滅亡させる

足利義昭を追放して身軽になった織田信長は、浅井長政と朝倉義景を次なるターゲットに定めました。ということで信長は浅井長政の居城・小谷城を包囲しますが、ここで盟友の危機を感じた朝倉義景が援軍を連れて現れます。

しかし、朝倉義景はどう考えても織田軍に勝てないことを悟ったのか、大して戦わずにそのまま自国へ撤退してしまいました。ですがそこはさすがの織田信長、その動きを察知して背後から襲いかかって朝倉軍を撃破します。そしてそのまま朝倉領になだれ込み、勢いのまま朝倉家を滅ぼしてしまいました。

朝倉家に続いて浅井家も滅亡

朝倉家を滅ぼした織田信長はすぐに小谷城へ戻って攻撃開始、すぐにこれを攻め落としました。信長はこの2週間程で朝倉家と浅井家をまとめて滅ぼしており、この一連の戦いは他国に対して圧倒的な軍事力をアピールする結果に終わっています。

ちなみに同盟のために浅井家に嫁いでいた織田信長の妹・お市の方は、小谷城落城の前に両家の合意の元で脱出し、その後は織田信長の元で保護を受けることとなりました。

お市の方に関しての記事はこちらからどうぞ。

お市の方の娘・茶々についての記事はこちらからどうぞ。

信長包囲網の再構築

足利義昭によって構築された対信長戦線は、武田信玄が病死し浅井家と朝倉家が滅びたことで一旦沈静化します。包囲網の一翼を担っていた浄土真宗の本願寺顕如はまだ健在ですが、これまでは直接的な対決は避けており信長と和睦と対立を繰り返していました。

ですが毛利輝元の保護下に入った足利義昭は、相変わらず信長打倒の野望は捨ててはいません。今度は幕府再建の夢を越後の上杉謙信に託し上洛を要請、次いで諸国の大名達に声を掛けて以前のものよりさらに大規模な信長包囲網を構築します。

青で囲った勢力が反織田勢力なのですが、こうして地図で見ると日本の半分くらいを敵に回している状態です。これまで中立を保っていた勢力も足利義昭の追放という信長の反逆行為に反応したのか、一斉に織田家の抵抗勢力へと転向しています。しかもこの後には関東の北条氏が越後の上杉謙信と甲斐の武田勝頼の間で三国同盟を締結し、さらに信長の敵が増えることになります。

まとめ

今回の記事では、織田信長が足利義昭を京都から追放する場面をご説明しました。

次回では織田信長と、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼との戦いをご説明したいと思います。

次回記事:

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