武士達の一般常識を法令化してみました・御成敗式目

法律のイメージ写真 用語集

御成敗式目とは北条泰時が制定した日本初の武家法です

西暦1232年、鎌倉幕府三代目執権北条泰時によって「御成敗式目」が制定されました。この法令は元号が貞永年間に制定されたため、別名として「貞永式目」とも呼ばれています。鎌倉幕府にはそれまで守るべき統一的な基準がありませんでしたが、この日本初の武家法によって「武士の在り方」が明確にされ、裁判や処罰もこれに則って行われています。

御成敗式目が制定された背景

朝廷での出世を目指した平清盛

鎌倉幕府は日本初の武士独自の政権ということで、当然模範とすべき前例など存在していません。源頼朝が打倒した平氏政権も一応武士政権ではありますが、平清盛を始めとして平氏一門は貴族化し、天皇家の外戚の地位を活用して朝廷での官位を独占しました。つまり平氏政権に武士らしさはあまりなく、実際にやったことと言えば藤原道長に代表される藤原北家とほぼ同じだったりします。

独裁から始まった鎌倉幕府

後に源頼朝が鎌倉幕府を樹立すると、幕政は頼朝が独断で裁きを下し、大江広元三善康信など幕府官僚によって裁きが執行される体制がとられていました。それが頼朝の没後に鎌倉殿の地位を源頼家が受け継ぐと、頼家の独裁に反発した御家人達によって「十三人の合議制」がスタート、ここで急に「大事なことはみんなで決めましょう」という方針に転換しています。

ですがこの合議制は1年も保たずに崩壊、比企能員を経て頼家が暗殺されると、源実朝が将軍に就任し北条時政の執権政治が始まりました。これは要するに、「独裁→合議制→独裁」という流れを辿っており、つまり独裁で始まった鎌倉幕府は紆余曲折あって結局独裁で落ち着いた訳です。

承久の乱後の社会不安を解消するため

そして1221年に起きた承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、京都に六波羅探題を設置して朝廷を監視下に置き、西日本にまで勢力圏を伸ばしました。しかし、それと同時期に天候不順が続いて全国的に飢饉が発生、民衆だけでなく武士達にも社会不安が広がり、些細なことからの武士同士の揉め事が頻発しました。

そんな状況をなんとか改善しようということで、3代目執権・北条泰時によって「御成敗式目」が制定されました。これによって地域ごとに差があった「常識」が全国的に統一され、「武士ってこうあるべきだよね」という基準が設けられた訳です。幕府によって任命される地頭は遠方に赴任したケースも多かったため、この法令によって無駄な争いごとを減らそうというコンセプトですね。

御成敗式目のざっくりとした内容

この御成敗式目は51条から成り立っていますが、この51という数字には意図があったようで、飛鳥時代に制定された日本最初の憲法「十七条憲法」の17に3を掛けた数字にわざわざ設定されています。どちらも「日本初」という点では共通しているということで、北条泰時は法令における大先輩・聖徳太子にあやかったのかもしれませんね。それではものすごく端折りながら内容をご紹介したいと思います。

  • 第1・2条:神社や寺、そして祭事を大切にしましょう。
  • 第3~6条:守護・地頭の仕事の規定、年貢はきちんと納めましょう。
  • 第7・8条:土地の所有規定
  • 第9~17条:罪ごとの罰則規定、喧嘩だけでなく悪口もいけません
  • 第18~27条:財産相続の規定、女性も男性と同様に資産を持てます。
  • 第28~31・35条・45条:訴訟の規定、裁判で嘘は禁止、あったら処罰。
  • 第32~34条:罰則規定の補足、強盗及び犯人をかくまわない、他人の奥さんに手を出さない。
  • 第36から38条:貴族・皇族の土地に関する規定、奪ってはいけません。
  • 第39・40条:官位に関する規定、勝手に官位をもらってはいけません。
  • 第41・42条:奴隷・逃亡農民に関する規定、逃亡農民はむやみに処罰しない。
  • 第43・44条:領土と年貢の保障規定、他人の領地の年貢は取っちゃいけません。
  • 第46~48条:所領の扱いの規定、幕府から与えられた土地の売買禁止
  • 第49条:裁判の簡略化、裁判する前に理非が明らかな場合には即時判決
  • 第50・51条:刑罰の追加補足、暴力事件でどちらかに加担してはいけません。

細かな部分までは把握しきれないのですが、大体の部分は現代人にとっても「そりゃそうだよね」で納得いく範囲ではないかと思います。そもそもこの法令は、源頼朝以前の時代から続く「武士の常識」を明文化したものであり、全てがイチから編み出された訳ではありません。また貴族達に適用される公家法からも結構な割合で流用されており、要するに「みんながふんわりと持っている常識をガッチリと法律にしました」くらいの内容となっています。そのためかこの御成敗式目が施行されても反発する者はほぼいなかったらしく、「日本初」であるにも関わらず武士達にスンナリと受け入れられ、後世の武士達にとっての規範としても用いられています。

法律のイメージイラスト

室町時代や戦国時代でも通用した「武士の常識」

御成敗式目は鎌倉時代に制定された法令ですが、それ以降の時代でも「武士の常識」として在り続けました。足利尊氏が幕府を樹立したことで室町時代に突入しますが、尊氏が制定した「建武式目」も御成敗式目が前提とされており、17条の追加補足があるだけとなっています。ここでも「17」という十七条憲法を意識した数字が使われており、聖徳太子が生きた時代から700年が経ってもリスペクトを欠かさないという、当時の太子信仰がいかに浸透していたかが分かる出来事でもあります。

御成敗式目を制定した北条泰時についてはこちらからどうぞ。

戦国時代という混乱期にあっても御成敗式目は相変わらず健在であり、各大名たちは国内統治のために活用し続けていました。「分国法」と呼ばれる大名家ごとの法令が制定されはしましたが、やはり土台は御成敗式目が前提とされており、国内の事情に合わせて部分的に改廃しただけに留まっています。中でも「女性への遺産相続」の部分はガッチリ生きていたようで、日本の戦国時代にはかなりレアではあれど、井伊直虎(井伊直政の養母)や立花誾千代(ぎんちよ、立花道雪の娘)といった女性城主も誕生していたりします。このように女性が最前線の統治者になった例は世界的に見てもかなり珍しいのですが、これも北条泰時が作り上げた御成敗式目が及ぼした影響とも言えます。

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