徳川四天王 傷だらけの闘将・井伊直政 | 武田の赤備えを継承した井伊の赤鬼

井伊直政の銅像 安土桃山時代

今回の記事では徳川四天王の1人、井伊直政についてご紹介いたします。

怯むことなく常に前へ 井伊直政の生涯

井伊直政 「おんな城主 井伊直虎」の養子に

今川氏の家臣・井伊直親の長男となる井伊直政は、桶狭間の戦いの翌年となる1561年に誕生しています。桶狭間の戦いまでは井伊家の当主は井伊直盛という人物が努めていましたが、井伊直盛は桶狭間の戦いの中で今川義元と共に戦死しています。

その後直政の父・井伊直親が井伊家を継ぐのですが、今川家の跡目を継いだ今川氏真に謀反の疑いをかけられ誅殺されるという事件が起き、その結果井伊家に成人男性がいないというハプニングが発生します。この井伊家存続の危機に際して井伊直盛の娘が立ち上がり、井伊直虎と名乗り井伊家の当主に就くことになります。

井伊直虎は落ち目の今川家から徳川家への乗り換えを図り、そこから井伊家は徳川家家臣としての道を歩むことになります。そして直虎は直政を次代の井伊家当主とするべく、養子として引き取り教育を施し、自らは政務に明け暮れます。

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徳川家康の小姓として側仕え

井伊直政が15歳になると養母・井伊直虎の斡旋により、いよいよ正式に徳川家康に仕え始めることになります。井伊直政は家康の身の回りの世話をする小姓として取り立てられており、300石という15歳の少年が得るには破格の待遇で迎えられています。

長篠の戦いが織田信長の大勝利で終わり織田家は自国へ撤退しますが、家康はその後も武田家への攻勢を強めました。徳川家は三方ヶ原の戦いやそれ以前に奪われた領土の奪還に乗り出しますが、その戦いの中で井伊直政は敵に突貫、初陣であるにも関わらず大きな戦功を挙げます。

一回り以上先輩となる本多忠勝は57回もの戦争に出陣し、軽装備なのに一つの傷も負わないという、スタイリッシュにキメる武将だったと言えるでしょう。それに比べて直政は重装備にも関わらず、戦場では常に生傷だらけだったそうです。戦い方は人それぞれではありますが、直政は傷を負っても長槍を突きながら愚直に前に進み続ける武将だったのでしょう。

蒼天航路:楽進
蒼天航路12巻より抜粋 ものすごくイメージが重なります

武田の赤備えを継承 「井伊の赤鬼」

本能寺の変が起きて織田家の統治が緩むと、旧武田家臣団が蜂起して織田家の代官・河尻秀隆を誅殺するという事件が起き、甲斐国・信濃国は統治者不在の無政府状態に陥ります。2国にまたがる広大な土地に主だった大名がいないというおいしい状況に、関東の北条家・越後の上杉家、そして東海の徳川家康は領土を切り取る争奪戦・天正壬午の乱が始まります。

徳川家は信濃国と上野国を領有していた真田昌幸には惨敗を喫していますが、甲斐国と信濃国の一部を自領土に加えることに成功しています。

真田昌幸についてはこちらからどうぞ。

ここで旧武田領の大部分を手に入れた家康は自軍を強化するため、実力は折り紙付きの武田家臣達の登用を始め、ここで武田4名臣・山県昌景の家臣達の登用に成功します。山県昌景の部隊は「赤」がトレードマークだったため、それになぞらえて「井伊の赤備え」と呼ばれる赤い甲冑に身を包んだ部隊が誕生します。

井伊の赤備えは抜け駆けで一番槍 関ヶ原の戦い

井伊直政は関ケ原の戦いの前には豊臣家の武将を取り込み、東軍の味方にするために積極的に勧誘を続けています。豊臣姓を受けていた直政は豊臣家でも知名度が高かったためか、多くの有力大名を味方に引き入れることに成功しています。

いざ戦闘が始まると、直政は徳川家康の本軍に付き従い、東軍の軍監として指揮系統の一部を担っていました。名誉ある東軍の先陣は福島正則と戦前から決まってはいたのですが、直政率いる「井伊の赤備え」は抜け駆けで敵に突撃、それに続くように東軍諸将が攻撃を始めます。両軍とも善戦を続け拮抗状態となっていましたが、戦いは小早川秀秋らの裏切りで一気に流れが傾き、西軍が崩れ東軍の勝利に終わります。

東軍の各隊が西軍武将の追討戦に移った所で直政は島津義弘隊を発見、井伊隊は即座に反応し追撃を始めます。「井伊の赤備え」は猛烈な勢いで島津軍を追撃しますが、少数の部隊を切り分けて決死で反撃する島津家の撤退戦術「捨て奸(すてがまり)」によってなかなか追いつくことができません。井伊隊は島津家の若き重臣・島津豊久を討ち取ることには成功しますが、肝心の島津義弘まであと一歩が届かない状態となっていました。そんな中で直政は単騎で突出してがむしゃらに島津義弘を目指しますが、島津軍の放った鉄砲が足に命中し落馬してしまいます。ここで追撃は断念し、ついに島津義弘を討ち取れないまま終戦を迎えることになります。

戦いの余波が静まってから死去

関ヶ原の戦いが終わった後の直政は足に鉄砲玉を食らうという怪我があったにも関わらず、毛利家や島津家との交渉役を担っています。怪我はあっても相変わらずの外交手腕を発揮し、毛利・島津とも穏便に事を進めることができ、2家とも江戸幕府に組み込むことに成功しています。

戦いでの活躍だけでなく戦後処理の功績もあり、直政は石田三成が所有していた近江国佐和山18万石を受け、徳川四天王の中でもトップの領土を手に入れます。そして自身の居城となる彦根城を築いている間に、病で42歳の生涯を終えます。15歳から徳川家に仕えた井伊直政は27年に渡って徳川家康のために尽くし続け、天下分け目の関ヶ原を無事に終えると役割を果たし終えたかのように亡くなっています。若くして失敗が許されない重要な役割をこなし続けた直政には、家康が江戸幕府を開くにあたって一番の功労があったという称賛の記録が残っています。

井伊直政の人物像

容姿美麗にして心優し

井伊直政は小柄でスマート・そして美形という美男子の要素を兼ね備えており、女性からの人気が非常に高かったようです。

美青年のイラスト
※勝手な美青年イメージです

小牧長久手の戦いで負けに等しい和睦となった豊臣秀吉は、自身の生母となる北政所を人質として差し出してまで徳川家康との同盟を望んでいました。家康からすれば秀吉の母親まで差し出されて同盟を受けないわけにもいかず、また家康としても豊臣政権でのナンバー2の座は魅力的だったため、この条件を受け入れ豊臣政権の大老職に就任します。

人質として徳川領の関東にやってきた北政所を、直政は細やかな気配りでもてなしました。この丁寧なもてなしに直政自身の容姿も加わり、北政所や一緒についてきた侍女たちは非常に喜んだという逸話が残されています。王子様のような容姿端麗な男性に丁寧に尽くされるのは、いつの時代でも女性に喜ばれるものなのでしょう。

ちなみに直政は男性にもモテたようで、家康に仕え始めた頃には夜の相手をしていたかのような記録が残っています。男性同士というのも当時の価値観でいくと割と普通のことだったようで、主君の相手をするというのはむしろ名誉なことでもあったようです。家康はわざわざ直政の家を自分の屋敷の近くに作る程だったようで、余程直政に入れ込んでいたものと思われます。

他の武将からのヒガミは強烈

若くして徳川家の中枢にまで上り詰めた井伊直政は、無骨で知られる三河武士の古参武将達からはヒガミの対象となっていました。まだ出陣できる年齢ではなかったため仕方ないことではあるのですが、三河一向一揆や三方ヶ原の戦いなど、徳川家の大ピンチとなる戦争に参加できていないことも事実ではあります。

三方ヶ原の戦いについてはこちらの「室町幕府の滅亡」ページでどうぞ。

大半というかほぼ全ての武将が先輩であり、三河武士持ち前の武力と根性で徳川家を支え続けた頑固オヤジ達でもあります。負けず嫌いな直政とて先輩の小言に生意気を言うようなこともなかったようですが、心のなかではフツフツと燃え上がるものがあったのでしょう。他人からお小言を言われないためにはまず日頃の生活態度を改めるということで、直政は自分自身に厳しく日々を過ごすことになります。

自分に厳しく他人にも厳しい井伊直政

井伊直政の厳しさは自身だけでなく自分が持つ軍にも及び、井伊家で採用されていた軍規は異常なまでに厳しかったようです。直政は家臣のわずかなミスも見逃さず、失敗があったら即手討ちという、気の休まる暇もないピリピリした軍団となっていました。その厳しさは「人斬り兵部」という有り難くない異名で呼ばれる程で、兵士や将官達は恐ろしさのあまり井伊軍にいることが耐えられず、井伊家の家老を始めとして高い地位にいる者すら出奔するという凄まじいものだったようです。直政にとって出世レースのライバルとなる本多忠勝の元へ逃げ込んだ者も多くいたため、その都度直政はモヤモヤする気持ちで見送ったことでしょう。

本多忠勝についての記事はこちらからどうぞ。

ですが徳川家康としては直政の凄まじい覚悟で事にあたる一面を評価したのであり、むしろ厳しい軍規で兵達を鍛え上げることを望んでいました。まだまだ若年の直政に歴戦の勇者である旧武田家臣が配属されたことも、直政であればナメられずに統括し、徳川軍を支える軍団を育成できると期待したのでしょう。直政はその家康の期待に充分に応え、他国に一目置かれる精強な「井伊の赤備え」を率いて戦場に臨むことになります。

意外と恐妻家な井伊直政

戦場では傷だらけになりながらも決して退くことがなく、また外交官としても歴戦の武将達に気後れせずに立ち回る井伊直政でしたが、意外なことに正室である「花」という女性にはまったく頭が上がらなかったそうです。

直政の長男となる井伊直勝がまだ「花」のお腹にいる間に、ほぼ同時期に「花」の侍女も直政の子を身籠っていました。自身の侍女となる女性が懐妊したことを知った花は激怒し、その侍女を即刻親元に帰してしまいます。その間直政は口出しも一切せず、傍観者のように侍女が去っていくのをただ見守っていました。

侍女が産んだ井伊直孝はその後も父に会うこともなく、11年もの歳月が流れました。そして井伊直孝が12歳になった頃、ようやく直政が直孝を呼び寄せ面会を果たすことになります。しかもその面会は極秘で行われるという厳戒態勢ぶりで、絶対に「花」に知られないようにと綿密な計画の下に行われました。ようやく父との面会を果たした井伊直孝は直政愛用の采配を受け取りますが、その翌年には結局親子らしく過ごす時間もなく、直政は病死してしまいます。

采配のイラスト

江戸時代に入ると「花」の息子・井伊直勝は近江佐和山藩18万石、侍女の息子である井伊直孝は上野白井藩1万石と、大きな差がついてしまっていました。直勝は正室の息子であるため、すでに大大名の仲間入りを果たしていた井伊家の家督相続者となるのが当然といえば当然であるとも言えます。

しかし後に大阪の陣が起きると、元来のんびり屋だった井伊直勝は戦争には向かないという徳川家康の判断により、次男の井伊直孝を抜擢し井伊家の大将に任命します。井伊直孝は家康の期待に応え、奮起して十分な働きを見せたことで、戦後には両者の領地を入れ替えるという措置までとられています。そして父にも会えない日陰の身だった井伊直孝は、近江佐和山藩から名称を変えて彦根藩の初代藩主となり、彦根藩は幕末まで江戸幕府を支え続けることになります。ちなみに幕末の日米修好通商条約を結んだ井伊直弼は、この井伊直孝の子孫にあたります。

招き猫・ひこにゃんの元ネタ

現代でも各地に井伊直政を祀るための墓所が残されていますが、東京都世田谷区にある豪徳寺にも直政の墓碑があります。幕末の井伊直弼など著名人の墓石が多い豪徳寺ですが、それ以外にも「招き猫」の発祥地という伝説が残されています。

直政の次男・井伊直孝が雨の中で豪徳寺脇にある大木で雨宿りをしていると、猫が寺内に招き入れるような仕草をしていたそうです。猫につられてなんとなく豪徳寺に立ち入るとすぐにその大木に雷が落ちたため、直孝は猫のおかげで難を逃れたという話が伝わっています。

豪徳寺に奉納された大量の招き猫
豪徳寺に奉納された大量の招き猫 怖いほどの数が奉納されています

この伝説にあやかって豪徳寺ではこの時の猫を「招福猫児」と呼び、招福観世音菩薩の眷属として祀るための「招福殿」を建てました。現代でも願掛け成就のお礼として招き猫が奉納され続けており、「招福殿」の横には膨大な数の招き猫が置かれています。

ちなみに井伊直孝を招き入れた猫は、滋賀県彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」にも反映されています。「ひこにゃん」が被る兜は井伊の赤備えになぞらえた赤となっており、また直政が愛用したクワガタのような形の「天衝脇立兜」の形となっています。

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