飛鳥時代のまとめ記事

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「飛鳥時代」の呼称の由来となった奈良県明日香村

飛鳥時代の主役・蘇我氏の栄枯盛衰

蘇我稲目と物部尾輿の崇仏論争

本来の飛鳥時代は聖徳太子の摂政就任がスタートラインです。ですがこの時代の主役である大豪族・蘇我氏の初代に触れない訳にもイカンということで、当サイトでは蘇我稲目の頃から飛鳥時代とさせていただいております。予めご了承ください。

この時期の朝廷は大陸から伝来した仏教の扱いでモメており、蘇我稲目(そがのいなめ)を中心とする崇仏派、そして神道の保護を提唱する物部尾輿(もののべのおこし)の廃仏派に分かれて論争が繰り広げられていました。そんな不毛な状況を見かねた欽明天皇がついに決断、蘇我稲目の崇仏派を支持し始めてしまいました。

これに対して物部尾輿は不満を漏らしますが、さすがに相手が天皇とあっては口出しする訳にもいきません。ということでこの争いはひとまず崇仏派の勝利で幕を閉じ、続きは次世代に持ち越されることになります。

蘇我馬子と物部守屋の政争

崇仏論争の第一ラウンドは蘇我稲目の崇仏派が勝利しましたが、まだまだ廃仏派も萎みきってはいません。むしろここからが巻き返しということで、物部氏を継いだ物部守屋がまたも仏教排斥に向けて動き出しました。

それに対して蘇我馬子は直接的な手段に出始め、軍を向けて物部守屋を殺害してしまいました。さらに蘇我馬子は自身に反対する者達を片っ端から始末し、血族となる推古天皇を即位させて権力強化を図ります。

聖徳太子の摂政就任

この推古天皇と聖徳太子は蘇我氏の血を引いていたこともあり、蘇我馬子と連携を取りながら盤石の政治体制を築き上げました。そんな充実した環境の中、聖徳太子は遣隋使の派遣を通して中国文化を取り入れ、日本初の憲法「憲法十七条」や「冠位十二階」で統治体制の整備に取り組んでいます。

蘇我氏の専横を食い止めた乙巳の変

聖徳太子が亡くなった後は蘇我氏の一強状態となり、その子供である蘇我蝦夷、そして孫である蘇我入鹿も同様に強権を振るい続けています。さらに2人は天皇家にしか許されないはずの祭祀を堂々と執り行い、もはや自分達が支配者であるかのように振る舞っていました。

ところが、そんな蘇我氏に天誅が下ったのか、中臣鎌足・中大兄皇子が宮中にて蘇我入鹿を暗殺、さらに蘇我蝦夷を自害に追い込みました。この「乙巳の変」と呼ばれる事件で蘇我氏は凋落の一途を辿り、代わりに中臣氏改め藤原氏が台頭することになります。

天智天皇の治世とその後継者

日本の在り方を一新した大化の改新

乙巳の変で蘇我氏を葬った中大兄皇子は天智天皇として即位し、藤原鎌足とともに改革に乗り出しました。この一連の改革は大化の改新と呼ばれ、この後の日本の在り方を大きく変えることになります。

とは言え、この大化の改新は「唐」の律令制をモチーフとしているため、日本の実情とはかけ離れた部分も多くありました。そのため改革は天智天皇の世代だけでは終わらず、何世代もまたぎながら少しずつ修正されています。

天皇家の後継者争い・壬申の乱

天智天皇は後継者として弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を指名していましたが、時が経つにつれて長男の大友皇子による後継を望み始めました。すると大海人皇子はそんな心変わりを察したのか、後継の意思を隠すが如く自ら仏門に入っています。

そしていざ天智天皇が没すると大海人皇子は牙を剥き始め、大友皇子から皇位を奪還すべく兵を挙げました。この壬申の乱を制した大海人皇子は天武天皇として即位し、独裁がまかり通る強固な政権体制を築き上げています。

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