御成敗式目を制定した鎌倉幕府中興の祖・北条泰時

北条泰時と巻物 鎌倉時代の人物録
鎌倉幕府3代執権・北条泰時

武家政治の土台を作り上げた北条泰時

北条泰時は「御成敗式目」の制定や九条頼経の将軍就任など、鎌倉幕府の根幹となる部分の整備に尽力しました。その業績は歴代執権の中でも随一と言える程であり、まさに鎌倉幕府における「中興の祖」と言っても過言ではありません。今回の記事では北条泰時の生い立ちや仕事、また性格やエピソードについてご紹介したいと思います。

初代・北条時政がその剛腕によって押し上げ、2代目・北条義時が守り抜いた北条氏の地位を、3代目・北条泰時が安定させるというキレイなリレーのような図式になっております。思えば室町時代では足利義満、江戸時代では徳川家光がやはり幕府に安定感をもたらしているため、ひょっとしたら3代目というのは何かと都合がよろしいのかもしれませんね。それでは泰時が執権に就任する場面からお伝えしたいと思います。

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北条泰時の執権就任と執政

長男だけど嫡男ではなかった北条泰時

北条泰時は2代執権・北条義時の「長男」ではあったのですが、「嫡男(ちゃくなん)」ではないという微妙な立場で生まれています。というのも泰時の母「阿波局(あわのつぼね)」について名前以外は伝わっておらず、多分ではありますが結構身分の低い女性だったものと思われます。そのため血統のよろしい次男・北条朝時(ともとき)が後継者に決定してはいたのですが、朝時は女性問題で義時から「義絶(ぎぜつ)」、つまり親子の縁を切られる形で失脚してしまいました。とは言え朝時はその1年後に復帰し、和田義盛との戦い「和田合戦」にも参加してはいるのですが、あまりに反省しすぎてしまったのか一歩引いた姿勢のまま生涯を過ごしています。

鎌倉殿の13人・和田義盛についてはこちらからどうぞ。

北条政子と大江広元から支持されて執権に

1221年に起きた承久の乱が幕府軍の大勝利に終わると、北条義時は力を使い果たしてしまったのかその翌年に亡くなっています。ここで尼将軍こと北条政子、そして幕府官僚の大御所・大江広元の2人は泰時を指名、この時から北条泰時は3代執権の重責を担うこととなりました。

ですが泰時を執権に押し上げた2人もすぐに亡くなってしまい、泰時は支持者がいないまま幕政を取り仕切る立場に残されてしまいます。とは言え大物の2人がいなくなったことで泰時には「自分のやり方」を実践する機会が生まれ、その手始めに幕府内の法整備という大事業に取り組みました。泰時は来る日も来る日も法制の書物に目を通し、承久の乱が終わってから実に11年後となる1,232年、「御成敗式目」が発布されています。

「夢買いで尼将軍に上り詰めた女性?」の北条政子についてはこちらからどうぞ。

北条泰時が制定した武家法・御成敗式目

「平和な生活」を実現するための法令

この「御成敗式目」を制定した目的と理念について、北条泰時が弟に送った手紙が残っておりますのでそれをご紹介したいと思います。

多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。

この長い手紙の内容を端的に要約するならば、「公平に裁判できる基準を作って皆に安心して暮らして欲しい」といったところでしょうか。こんなことをいちいち真剣に伝える人は良い人で間違いなさそうですが、「みんなの平和な生活」を実現するために努力を惜しまないということで、割と聖人クラスのメンタルを持っていたのではないかと思われます。ですが逆に言えば「公平に裁判されていなかった」からこそこんな法令ができたのであって、その背景としてはやはり「承久の乱」が影響しています。

荒ぶる新補地頭たちへの対処として

承久の乱に勝利した2代執権・北条義時は、天皇家や貴族が所有していた土地に御家人達を新たに「地頭」に補任、いわゆる「新補地頭」として赴任させています。このことによって鎌倉幕府は支配領域を大きく伸ばし、勝利に貢献した御家人もニッコリで全て丸く収まるかと思われました。ところが新たに着任した地頭達は自分の利益を最優先し、自領では明らかに重すぎる税を取り立て、さらには武力で隣に侵食するという荒っぽい事件が頻発していたようです。その地頭達の余りに凄まじい行状はむしろ一般的だったようで、「泣く子と地頭には勝てぬ」なんてフレーズが生まれたりもしています。

これには天候不順による飢饉も影響しており、地頭たちも好んでそうしていたのではなかったのかもしれません。ですが権利を悪用して迷惑を掛けまくる地頭が多かったのも事実、北条泰時はそんな状況を憂慮して「御成敗式目」の制定に至ったという訳です。式目の大まかな内容については別ページにてご紹介しておりますので、ご興味がありましたら下のリンクからお願い致します。

鎌倉の市街づくりや貿易の推進も

「御成敗式目」の制定以外も北条泰時は精力的に仕事をこなしており、摂関家出身の九条頼経を鎌倉殿として迎えるお膳立て、また鎌倉市街の整備といった大きな事業に取り組んでいます。特に区画割りは京都をモデルとして推進したようで、その御蔭で鎌倉は現代でも美しい街並みを披露してくれていますよね。また泰時は貿易港として和賀江島の港を建造し、中国・宋との貿易を活発化させて経済発展にも貢献しています。

若宮大路の写真
鎌倉の目抜き通りの一つ・若宮大路

北条泰時の病は後鳥羽上皇の怨霊か

泰時は1242年に60歳の生涯を終えていますが、亡くなったタイミングが6月だったことで若干物議を醸しました。というのも北条義時・北条政子・大江広元の3人の大物が6・7月に亡くなっており、また承久の乱で敗北した後鳥羽上皇が流罪に処されたのも7月ということで、後鳥羽上皇の怨霊ではないかという騒ぎにまで発展したようです。まあそんな訳もないので実際は偶然が重なっただけなのでしょうが、現代で言う迷信が現実だった時代ではやはり恐怖の対象だったのでしょう。それでは次に鎌倉幕府と執権北条氏の土台をしっかりと固めた、北条泰時さんに関連する小話もご紹介したいと思います。

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北条泰時のエピソード

側近として学んだ歴代将軍の政治学

北条泰時は鎌倉幕府を創立した源頼朝と2代目の源頼家、そして3代目の源実朝と、3代に渡って将軍の側近として仕えています。泰時は母親の血筋がよろしくないとは言え、北条時政の最初の孫ということもあって待遇面ではかなり優遇されていました。そのため将軍の世話をするという名誉なポジションにいたのですが、泰時はナマの政治を間近で学ぶ機会があった訳ですね。その中で頂点に位置する人間の振る舞い方、そして多様な裁きを見た上で武士の「道理」を学び、日本初の武家法制定に大いに役立てたのでしょう。つまり「御成敗式目」は、源氏3代と泰時の合作とも言える幕政の集大成だったりします。

源頼朝のイラスト
「御成敗式目に貢献した」かもしれない源頼朝さん

「まことの賢人」と評された人格者

人間誰もが欲を持っているものですが、北条泰時という人物にそれは若干当てはまらないのかもしれません。というのも北条義時が亡くなり土地の相続をする際、泰時自身はほとんど受け取らず弟や妹に振り分けてしまったそうです。また飢饉の際には自領での税を免除、さらには生活が苦しい民衆に遠慮して贅沢を禁止するなど、荒くれ者の代表格・北条時政の孫とは思えない配慮のある行動を取り続けています。このことは本来「嫡男ではなかった」ことが影響しているのかもしれませんが、やはりちゃんと遠慮ができる権力者はいつの時代でも人気が出るもので、「沙石集」という仏教説話集には泰時を称えた一文が記されています。

まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である

涙もろくて人情家な北条泰時

また「沙石集」では北条泰時に関するエピソードも書かれているのですが、そこから伝わってくる性格は若干行き過ぎな感激屋でしょうか。泰時は武士世界の「道理」を重視していたというか愛好していたようで、裁判の際にも「道理」に合った話を聞くたびに感激して涙を流す、という謎の性癖を持っていたようです。もちろん悪辣な地頭を前にすれば厳しい施政者の顔を見せたのでしょうが、逆に苦労している者や潔い態度の者には寛大で、温情のある措置で救済したという逸話も結構あったりします。

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