織田信長

用語集

足軽とは長槍や鉄砲を武器にして戦った歩兵

平安時代の末期から続く一騎打ちや騎馬兵による弓の打ち合いによる合戦は、室町時代初期頃には段々と廃れ、集団戦闘での決着が主流となっています。兵の数が物を言う集団戦闘が一般化するにつれて足軽という歩兵が重用されるようになり、戦国時代末期の鉄砲伝来により飛躍的な進化を遂げています。
戦国時代

朝倉家3代を支え続けた大黒柱・朝倉宗滴

朝倉家の当主の子として生まれた朝倉宗滴は、主君が3回代替わりしても補佐を続けています。声望を高めた九頭竜川の戦いを始めとする軍事面だけでなく、外交や情報活動・内政など、多岐に渡って辣腕を振るう大黒柱として多大な功績を残しています。
戦国時代

越前の狂犬・富田長繁

朝倉家の家臣として織田家と戦っていた富田長繁は、小谷城付近での戦いで前波吉継らと共に織田家に投降しています。その後前波吉継を始めとして周囲の人間を手当たり次第に攻撃しており、越前の狂犬というニックネームに相応しい立ち回りを見せています。
安土桃山時代

明智光秀の謀反の理由

天下統一まで後少し、というところまで漕ぎ着けていた織田信長を明智光秀が謀反を起こした本能寺の変の理由については、研究が進んだ現代でも謎のままとなっています。怨恨説や野望説、また羽柴秀吉や徳川家康が裏で糸を引いていた黒幕説など、歴史的な事実が混ぜ込まれた様々な説が提唱されています。
安土桃山時代

安土桃山時代4 織田信長は天下統一を目の前にして明智光秀の前に散る | 本能寺の変

甲州征伐で宿敵・武田勝頼を滅ぼし、織田信長は天下統一へ大きく踏み出しています。信長は武田家討伐後には徳川家康を招いて祝宴をあげた後、中国地方攻略にあたっていた羽柴秀吉の救援に向かおうとしますが、京都で宿泊していたところで明智光秀が謀反、「本能寺の変」で志半ばにして倒れます。
安土桃山時代

安土桃山時代3 織田信長の甲州征伐

長篠の戦い以降の武田勝頼は、徳川家康からの攻撃を受け続け家臣団の統率すらままならない状態となっていました。そんな中で木曽義昌の寝返りを皮切りに、滝川一益や河尻秀隆を擁する織田信忠の軍団が一気に信濃国になだれ込みます。家老の小山田信茂にまで裏切られた武田勝頼は、天目山へと逃げ込み、長男・信勝とともに自害して果てることになります。
安土桃山時代

安土桃山時代2 決着! 本願寺石山合戦

織田信長が京都上洛を果たすと、三好家と親密だった本願寺顕如率いる浄土真宗勢力との抗争が始まります。毛利輝元と協力した本願寺顕如は反織田の兵を挙げますが、天王寺合戦や第一次木津川口海戦で一進一退の戦いを繰り広げた後、第二次木津川口海戦で鉄甲船に完敗、ついに織田家に降伏します。
安土桃山時代

「日本史」の編纂者 ルイス・フロイス | 織田信長の記録を残したイエズス会宣教師

ポルトガル人のキリスト教イエズス修道会の司祭となったルイス・フロイスは、フランシスコ・ザビエルの後を追い日本への上陸を果たしました。そこでルイス・フロイスは、京都へ上洛した織田信長からキリスト教布教の許可を受け、布教活動を行っていきます。ここである程度の成果を得たルイス・フロイスは後進の宣教師のために資料作りを行いますが、結果的に作られた記録は日本の戦国時代を綴った歴史書の様相を呈します。この記録は後に「日本史」というタイトルで出版され、まさに日本史を知る上で現代においても貴重な資料となっています。
その他考察

日本中世までの騎馬隊事情

古事記にも馬に関する記述があるなど、日本でも古代から馬は生活や軍事的に利用されていました。ハニワにも馬に鞍などが取り付けられているものが多く、また馬装品そのものが出土するなど、古墳が建造される頃にはすでに騎馬隊の活用がかなり広く普及していました。ここで生産された馬は騎乗馬として騎馬隊に用いられる他、情報の通信手段や農耕用にも使われています。
安土桃山時代

安土桃山時代1 長篠の戦い | 騎馬の武田勝頼と鉄砲の織田信長

長篠の戦いは元々徳川家と武田家の間に国境間の争いがあった中で、奥平貞昌の寝返りがキッカケとなって起きています。武田勝頼は徳川家康と寝返った松平貞昌を攻撃するために徳川領に侵攻していますが、徳川家の同盟相手・織田信長が参入してきたことで一気に決戦ムードが漂います。