戦国時代に三大梟雄とされた人物達
「梟雄」という単語から思いつくイメージは、ずる賢くて残虐で油断もスキもない悪党、といったものではないでしょうか。「梟」(ふくろう)は夜行性は昼はおとなしいのですが、夜には猛禽類らしく獰猛に獲物を狩るそうです。まあ普段は従順に振る舞いながら「スキあらば襲いかかる」、こんな感じが「梟雄」なのでしょうね。
三大梟雄という謎の言葉は、そもそも小瀬甫庵という人物が著した「太閤記」という本の中で、悪人として扱われる3人の人物を指して使われています。「甫庵太閤記」とも呼ばれるこの本はかなりフィクション性が高く、歴史的な資料としての信頼度はちょっとアレなところがありますが、江戸時代には発禁処分されたにも関わらず大量に発行されるなど大衆人気は高かったようです。
この本の中では「松永久秀・斎藤道三・宇喜多直家」の3人が挙げられていますが、フィクション性が高い本をマルっと信じるのもどうかということで、審議や考察を混じえながら簡単にご紹介したいと思います。
裏切りと暗殺のヒーロー・松永久秀
将軍暗殺の主犯とされた男
筆者が子供の頃友人と「信長の野望」を遊んでいる時には、すでに松永久秀という武将には「すぐ裏切る」というイメージが定着していました。敵にいても「お?」くらいしか思わないのですが、配下にした途端「いつ寝返るのか」という妙な緊張感が生まれた記憶があります。そのイメージが出来上がった背景には、室町将軍や三好長慶の長男を暗殺した、という物語によるところが大きいものと思われます。
他に松永久秀の所業として扱われているものは、三好義興やその弟・十河一存の暗殺、そして13代将軍・足利義輝などが挙げられます。さらにはトドメに織田信長をも裏切っていますので、これらが全て事実であれば梟雄というかただの悪人ですよね。
実際はただの優秀な家臣か
といった感じで戦国三大梟雄の仲間入りを果たしていますが、これらのほとんどは実のところフィクションだったりします。三好義継や十河一存は普通に病没、また足利義輝殺害の主犯は三好三人衆となっており、松永久秀はその時他所にいたため関わりようがありません。まあ足利義輝の件については長男の松永久通も共犯なので無関係とは言い難いですが、とは言え強烈すぎる梟雄イメージは捏造された可能性が高いと言えるでしょう。
松永久秀は三好長慶という偉人の下、三好政権という外様でも重臣に抜擢される異質な体制の中で頭角を現しました。三好長慶の祐筆(代筆する秘書みたいな職分です)からスタートした松永久秀でしたが、その後は将軍や朝廷、各大名家との交渉役をもこなし、いざ戦場に出れば異常に強いというマルチな能力を発揮しています。久秀は15代目の将軍に足利義昭を立てるべく動き出した織田信長にも気に入られ、京都上洛のために惜しみなく協力しています。
信長の京都上洛についてはこちらからどうぞ。
最後はやっぱり裏切り者の松永久秀
松永久秀は織田家と室町幕府のバックアップを得たことで、大和国(奈良県)を平定し順調に支配体制を整えました。その見返りとして織田信長には名茶器「九十九髪茄子」を献上し、逆に北近江の浅井長政が裏切った際には信長の窮地を救うなど、両者はお互いに親密で良好な関係を築き上げています。
ですが甲斐国の龍・武田信玄を中心とした信長包囲網が結成されると、松永久秀は織田家もこれまでと思ったのか包囲網に参加し反旗を翻しました。ですが武田信玄の病没がキッカケとなって包囲網が崩壊すると、久秀は織田軍の猛攻に耐えきれずに敗北し自害を遂げています。
信長包囲網についてはこちらからどうぞ。
自爆説もフィクションの可能性大
ちなみに久秀の居城・信貴山城を大軍で囲まれた久秀は、もう一つ持っていた名茶器「古天明平蜘蛛」を抱えながら爆死したという物語が伝わっています。大河ドラマ「麒麟がくる」でも有名なシーンではありますが、実はこの一緒に爆死という話も創作された物語のようです。実際は「古天明平蜘蛛」を叩き割った後に自害したとのことなのですが、絶対に茶器を信長に渡さない、という意地を持って自害したところはきっと事実だったのでしょう。
国盗りの代名詞・斎藤道三
斎藤家を奪った美濃のマムシ
「美濃のマムシ」という強烈すぎる渾名を持つ斎藤道三ですが、この呼名は山岡荘八の小説「織田信長」の影響によるもので、実際はそんな呼び名があった記録はありません。とは言え、記録上の斎藤道三もなかなか濃い目の行動をとっており、マムシの異名もむしろジャストフィットな気がします。三大梟雄に挙げられる人物達は皆一様に「下剋上」を体現していますが、道三に至っては平民の地位から国主にまで上り詰めるという、豊臣秀吉にも似た華麗で劇的な成り上がり物語を残しています。
道三は11歳の頃に僧侶となり、そして油売りという商人の道へ入り、美濃国(岐阜県)の重鎮・長井家に出入りしていたところを武士として取り立てられました。後に美濃国主の家督騒動に乗じて権力を持ち始めると、道三を取り立ててくれた長井長弘に罪を着せて殺害、ここで長井家の乗っ取りに成功しています。そして道三は長井家を乗っ取っただけでは飽き足らず、次に美濃国守護代の斎藤利良が病死したのをいいことに斎藤姓を名乗り、毒殺などの手段を混じえながら美濃国主を追放することに成功、ついには自らが国主の座に着きました。
強制引退と長男・斎藤義龍との戦い
美濃国主に収まった斎藤道三は相当に戦争に強かったようで、隣国・尾張国(愛知県北部域)の織田信秀との間で起きた戦いを優勢に進めています。1547年には織田信秀が道三の居城・稲葉山城に大規模な攻撃をした「加納口の戦い」が起きていますが、道三は織田軍に5000人もの死者を出す大勝利を挙げています。この戦いの後に美濃攻略を諦めた織田信秀との間で急に和睦が成立、信秀の長男・織田信長に道三の娘・帰蝶が嫁入りし、争い合う関係から一気に姻戚関係を結ぶところまで漕ぎ着けています。
道三という人物は戦争に関する手腕は卓越していましたが、国内統治についてはあまり関心がなかったようで、民政に関する記録がほぼ残っておりません。その状況を見かねた家臣達は道三をほぼ強制的に引退させ、長男となる斎藤義龍を新たな主君に据えています。ですが道三と義龍は仲が良くなかったようで、道三はたびたび義龍の弟を国主に据えるために各方面へ働きかけていました。その道三の動きを脅威に感じた義龍は弟を殺害、そしてついに道三討伐に乗り出します。毒殺や追放など荒っぽい手段で国主にのし上がった道三に味方する者は少なかったようで、1万を越える義龍軍に対し2000程の道三軍は敢え無く敗れ、戦死という形で63年の生涯を終えています。
布団で亡くなった三大梟雄の一角・宇喜多直家
作られた暗殺遍歴を持つ男
三大梟雄という油断もスキもないリストにランクインした宇喜多直家という人物は、多くの軍記物の中で悪人扱いされてしまった被害者とも言えます。出世のために暗殺という卑劣な手段を用いたことも実際にあったようですが、現代に伝わるようなイメージ程ではありません。ですが一度でもやってしまうと印象とは怖いもので、もはや直家のライフワークが暗殺であるかのようなイメージすらあります。
軍記物の中に描かれる直家は、祖父の復讐という名目で島村盛実という人物を暗殺したのを皮切りに、妻の父親を含む主家・浦上家の重臣を片っ端から暗殺したとされていますが、さすがにそこまでやったらどこかでバレるのが普通というものでしょう。もし誰にも知られずに全て完遂できたのであれば、そこまで隠密理に暗殺したという事実を、軍記物を書いた一小説作家が知っていることの方がありえません。また宇喜多家の家臣達は豊臣政権に取り込まれた後も幼い主君を支え続けており、暗殺という手段だけでノシ上がった家にしては一致団結しすぎている気がします。
主君追放と毛利・織田間の巧みな立ち回り
暗殺という卑劣な手段はあまり使っていないとは言え、宇喜多直家は主君追放という立派な下剋上劇を演じきっています。直家は備前国・美作国・播磨国の三カ国を領有していた、浦上家を主家としていました。当時の浦上家は尼子家という強大な隣国への対応を巡り、浦上宗景と浦上政宗の二派に分かれて対立しており、直家は宗景側に仕えて頭角を現していきます。対立勢力となっていた浦上政宗は赤松政秀に殺害され、またその子供・浦上誠宗を浦上政景が暗殺し、国内を統一した浦上政景は戦国大名としての名乗りを上げています。
浦上家中が落ち着いた頃、すでに織田信長は京都上洛を果たしていました。浦上家からの独立を願っていた直家はここで織田家との同盟を結び、主君・浦上宗景に対して反旗を翻します。この時は旗色が悪く一旦は降参し謝罪するという形で浦上家に帰参していますが、その後毛利家と結ぶことで軍事的な優位を得た後にもう一度離反、今度は浦上宗景を播磨国に退かせることに成功します。直家は浦上宗景を排除した後に備前・備中国を統治し、羽柴秀吉の中国侵攻に合わせて毛利家から織田家へと鞍替えした後、毛利家との戦いの最中に53歳で病死しています。
文章がゴチャゴチャのまま突っ走ってしまいましたが、要するに「浦上宗景に仕える→出世して重用される→主君追放→国主!」という、斎藤道三とほぼ同じルートを辿っています。毛利家や織田家といった脇にいた大勢力を巧みに使いながら、状況によっては鞍替えするという、冷徹な判断力が高ポイントですね。直家は三大梟雄の中で唯一布団の上で亡くなっており、破天荒な前の2名と比べて若干大人しめの最期となっております。
戦国三大梟雄のまとめ
三大梟雄とされた松永久秀・斎藤道三・宇喜多直家の三人は、戦国期という激動の時代の中で、旧来の家格や秩序を越えて大出世をした人物達です。戦国当時の風潮「下剋上」という言葉を体現し、低い身分から能力ひとつでノシ上がった偉大な人物達とも言えます。この三人にキッチリ共通していることは、仕えた家で気に入られて信じられないスピードで出世しているということです。このことは優れた能力だけでなく、チャーミングな人柄も大いに関係していたのではないでしょうか。
同様の特徴は天下統一を果たした豊臣秀吉にも共通していますが、秀吉が梟雄扱いされることなどほぼありません。秀吉も織田信雄を追放して織田家を乗っ取るという、普通だったら罪に問われそうなことをしているにも関わらずです。秀吉もなかなかのヤンチャをしてはいるものの、最後に天下統一という大事業を成し遂げているため、悪い部分は全て帳消しになっているのでしょう。「歴史は勝者によって作られる」ってやつですね。
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