日本中世の貨幣事情 | 織田信長の撰銭令

宋銭 その他考察

戦国時代の初期頃まで日本のお金はほぼ輸入品

今回の記事では、鎌倉時代あたりから戦国時代あたりまでの貨幣事情についてご説明したいと思います。

日本史の中でもかなりマニアックなジャンルではあるのですが、調べてみると意外と面白かったため一本の記事にしてみました。古代の時代から日本は中国文化の影響下にあった訳ですが、中世以降も貨幣の面ではガッツリと依存しており、むしろ国産貨幣なんかほとんどなかった点が個人的に衝撃でしたね。

それではまず、日本の中世で流通していた貨幣から見てみましょう。

日本の鎌倉時代から室町時代頃の貨幣事情

中世日本で流通した主な貨幣は中国からの輸入品

これは日本で貨幣が使われるようになってずっと続いていることですが、中世においても貨幣そのものが中国から輸入され、日本国内で普通にお金として流通していました。日本でも平安時代に作られた「皇朝十二銭」などがありはしますが、あいにく素材となる銅の産出量が安定せず、現代で言うところの記念コインくらいの量しか鋳造されないまま打ち止めとなっています。つまり中世の日本は国産の貨幣づくりを諦めてしまった訳で、その代わりとして唐の開元通宝や宋銭が通貨として使われていました。

開元通宝の写真
こちらは唐で鋳造された「開元通宝」

とはいえ輸入貨幣だけでは流通量が全然足りていなかったため、お金の代わりに絹や布、米などの物品貨幣が売買の際に使われることも多かったようです。この貨幣不足は江戸時代までずっと続いており、明治期に入ってから紙幣を導入してようやく解決に至ります。ちなみに皇朝十二銭や開元通宝・宋銭など全ての銅銭は、一枚あたりの価値は基本的に同じ扱いで、1枚の銅銭が「1文(もん)」という単位で使われていました。現代であれば旧千円札と新千円札が同じ扱いとなりますが、これと同じように「1文は1文!」という感覚だったものと思われます。

1文の価値を持たない劣悪な「一文銭」も

ですが当時の鋳造技術はそれほど高くなく、また中国で作られたニセの貨幣も多く紛れ込んでいたため、現代のお金のように全てが同じクオリティだった訳ではありません。そのため同じ銅銭でも見た目が悪ければ売り手が販売を拒否することもあったようで、つまり「1文の価値を持つ1枚」と「1文の価値を持たない1枚」が存在していました。

この辺はものすごくシンプルで繊細な事情ではあるのですが、要するに「自分が使う時に相手に拒否されそうなお金は嫌」ということでしょう。これを逆に言えば「ちゃんとお金として使えるお金が欲しい」訳で、こう言われればまあ当たり前な気もしますよね。つまり当時の貨幣はそれ程までにクオリティにムラがあったということで、商人にとっては品物を見る目だけでなく、お金そのものの価値を見極める必要があった訳です。

室町時代に入ってからも輸入貨幣がメジャーでしたが

鎌倉時代室町時代、つまり武士政権が立ち上がった時期も日本のお金は相変わらず輸入メインであり、幕府朝廷による貨幣の発行はありません。というのもこの時代においても日本は銅の産出量がかなり少なく、作りたくても作れなかったというのが正しいものと思われます。室町幕府3代将軍・足利義満の時代に日明貿易が開始されると、宋銭や明銭が大量に輸入され国内の貨幣事情は若干改善することになります。

ところが今度は輸入元の明国内で貨幣不足が発生、慌てた明が銅貨の輸出を制限し、その結果日本に流入する貨幣量が減少してしまいました。その後に室町幕府の4代将軍・足利義持が日明貿易自体を停止し、貨幣の流入が完全に止まったことでまたも貨幣が不足してしまいます。

私的な貿易で再度貨幣が流入

そのため日本国内では長く貨幣が足りない状態が続いていたのですが、応仁の乱が終わりかけの頃に周防国(現在の山口県)と大内氏、そして管領の細川氏は私的に明国と勘合貿易を開始しました。これによって明国から貨幣が流入しはしたのですが、この貿易によって輸入された物はニセの貨幣や出来損ないの貨幣が非常に多かったようです。

また倭寇を通じても多くの明銭が流入したのですが、この貨幣にも悪銭が多く混ざっていたようで、日本には「このお金使えるの?」という低品質な貨幣がどんどん増加していきました。すると日本国内では売り手側が「悪銭では売らない」といった事態が多発し、時には刃傷沙汰にまで発展したようです。

「撰銭」と「撰銭令」とは

受け取るお金を選ぶ、または拒否する行為が「撰銭」

この「撰銭」という聞き慣れない単語は、「えりぜに」と読んだり「せんせん」と読んだりします。

商売において買い手が出来損ないの貨幣を出してきた場合、また明らかな偽貨幣で支払われようとした時、売り手がその出来の悪い貨幣の受け取り拒否することを「撰銭」と呼ばれていました。まあ平たく言えば販売者側が「そのお金はお金として認めない」として販売拒否することなのですが、これは逆に購入者目線で言えば自分のお金に価値を認めてもらえないことになります。双方の価値観がズレた、もしくはズレが発覚した時に争いが起きるケースが多いですが、中世日本ではこの「撰銭」が原因で刃傷沙汰にまで及んだケースがかなり多くあります。

自分が汗水垂らして稼いだお金が使えないと知ってしまったら、なんとなく頭にきてしまうのも分かる気はしますよね。ですが販売者側からすればそんな出来の悪いお金、つまり「悪銭(ビタとも読みます)」を受け取ったら困るのは自分な訳で、「悪銭」はババ抜きにおけるジョーカーのように毛嫌いされていました。ですが悲しいことに当時は良質な銅銭の流通量そのものが少なかったため、場合によっては仕方なく受け取ったケースも多くありました。とは言えやはり「悪銭」は受取拒否されることも多く、時には「悪銭」複数枚が「銅銭一枚」として換算されるといった切ない事例もあったようです。

「撰銭」を禁止する法令が「撰銭令」

そんな中で私的に勘合貿易を行っていた大内氏や細川氏でしたが、彼らは貿易を行う中で自然と手元に悪銭が入ってしまっていました。この頃の明はすでに銅貨中心の貨幣制度から紙幣や銀を使った経済に移行しており、銅貨の鋳造がストップしていたため良質な銅貨があまりなく、処分のために日本への輸出品に悪銭が多く混じっていました。こうして悪銭を大量に抱えた大内氏や細川氏も処分する必要に迫られのですが、そこは幕府権力者の立場を利用して「撰銭令」という法令を編み出しました。

ここでの「撰銭令」とは「撰銭」を禁止し、「撰銭」をした者に対して厳罰を下すという法令になります。つまり細川氏が出した「撰銭令」とは、要するに「撰銭を禁止する法令」だったことになります。大内氏や細川氏は自分達の抱える悪銭を「1枚1文」の価値で使いたかったため、強引に法令で庶民の「撰銭」をねじ伏せ、逆らった人には「撰銭令に違反しているよ!」として処罰できるようにした訳ですね。ですが民間の「撰銭」はすでに人々の間で習慣化しており当たり前となっていたため、撰銭令が出た後も相変わらず悪銭の受け取り拒否は起こり続けたようです。

織田信長の「撰銭令」

戦国の風雲児は貨幣面も改革しちゃいます

細川氏が出した「撰銭令」から100年近く後に、足利義昭の要請により京都上洛を果たした織田信長も「撰銭令」を発令します。

織田信長の京都上洛についての記事はこちらからどうぞ。

織田信長が発令した「撰銭令」では「撰銭をした者を厳罰に処す」までは同じですが、「撰銭」の根本的な解決も同時に試みています。これまでの間に大量に流通していた悪銭を貨幣の基準とし、良質な貨幣を少し高い金種に設定、また金や銀を代用貨幣として認めることで貨幣そのものが不足していた状況を打開しました。悪銭として民衆から嫌われていた貨幣に一定の価値をつけ、また金銀という高額な金種を作ることでお金の絶対量を増やした形ですね。戦国時代に入って灰吹法という鉱石の精錬技術が伝来し、金や銀の産出量が増大したことも追い風となっています。

江戸時代まで継承された織田信長の貨幣制度

お金の流通量を増やすために理に適ったシステムだったこともありますが、信長が当時の日本の中心である京都を長く統治することにも成功したため、信長の撰銭令は民衆に受け入れられていきました。この織田信長の貨幣制度は豊臣政権、そして徳川家康が樹立した江戸幕府にも引き継がれています。江戸時代は三貨制度という「金銀銅」の貨幣制度が確立されていますが、実はこの制度の土台を作ったのは織田信長だった訳ですね。

豊臣政権から江戸期の貨幣事情はこちらからどうぞ。

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