越前の狂犬の異名を持つマイナー武将・富田長繁
皆さんは、富田長繫(とだ/とんだながしげ)という戦国武将の名前を聞いたことがあるでしょうか。おそらくではありますが、ほとんどの方が「全く知らない」と答えるのではないでしょうか。ですが一部の歴史マニアの人々から「越前の狂犬」や「越前のバーサーカー(狂戦士)」などと呼ばれ、ニッチで不思議な人気を博す人物だったりします。
今回はマニアックな声望を得る人物、「富田長繁」について見ていきましょう。
富田長繁が織田家に参入するまで
朝倉家で育ちそのまま仕官
富田長繁は天文21年(1551年)生まれであることだけは記録が残されていますが、生誕地がどこかはわかっておりません。富田氏は出雲国(現在の島根県)を発祥としていますが、長繫の父・富田吉順の代にはすでに越前国で朝倉義景に仕えています。生まれた場所こそわかりませんが、長繁は越前国で育ち、自然な形で朝倉家に仕え始めています。
長繁が歴史の表舞台に現れるのは、1570年頃に起きた織田信長と朝倉義景の間に起きた金ヶ崎の戦いが最初となります。この戦いでの長繁は当時20歳の若武者であるにも関わらず、1000騎という中規模部隊を率いているため、長繁は朝倉家の中でも割と高い地位にいたものと思われます。浅井長政の裏切りで金ヶ崎の戦いは朝倉家の勝利に終わっていますが、朝倉家は重要拠点である金ヶ崎城を奪われており、長繁にとっては自身の身の振り方を考えるに至る重要な一戦となったのでしょう。この戦いからわずか2年後、長繁は朝倉家での地位を捨てて見放すように他家へと走りました。
金ヶ崎の戦い、そしてその後の姉川の戦いについてはこちらからどうぞ。
朝倉家から織田家へ華麗に裏切り
次に長繁の名が出てくるのは「信長公記」、つまり朝倉家ではなく織田信長側の記録に登場しています。元亀3年(1572年)4月、浅井氏の本拠・小谷城付近で浅井・朝倉連合軍が織田信長と対峙している最中、前波義継(朝倉家家臣・後に桂田長俊に改名)の投降に前後して長繁も織田家に投降しています。戦時中の拮抗した場面であったためか、織田家も投降者を積極的に受け入れており、富田長繁はまんまと織田家の仲間入りを果たしています。
小谷城での戦いや朝倉家、浅井家が倒れる場面はこちらからどうぞ。
一番美味しいタイミングで織田家に寝返った長繁は同年の11月、攻撃を仕掛けてきた浅井軍と木下秀吉の戦いに参戦、秀吉を助けてちゃっかり手柄を立てる活躍を見せつけました。長繁と前波吉継は寝返った後が最も難しい大名・織田信長(信長は投降者を信用できないヤツとしてかなりの数を処刑しています)を前にして、堂々と華麗なる裏切りを成功させています。
富田長繁が「越前の狂犬」になるまで
戦勝に沸く織田家
1573年8月に長繁や前波吉継の元の主家・朝倉家が滅亡、そして同年9月には浅井家も滅亡し、織田家は一時的な戦勝ムードに包まれています。前波吉継は朝倉家を攻める際に道案内役を自ら買って出ており、その結果朝倉家を攻め滅ぼすことができたという経緯がありました。織田信長は長年の宿敵だった朝倉家と浅井家を攻め滅ぼして気が大きくなっていたためか、各武将に気前よく褒美や領土・城を与えていますが、前並吉継の道案内の功績を特に高く評価し、越前国一国の守護代に任命するという大盤振る舞いをしています。
前波吉継とほぼ同時期に織田家に投降した富田長繁も府中の領主になっており、また旧朝倉家臣団のほとんどを許し所領を安堵しています。「敵対者は絶対に許さない」というイメージのある信長ですが、この時ばかりは上機嫌で寛大な態度を取っています。こうして織田家も前波吉継も、そして長繁も万々歳でハッピーエンドかと思いきや、物語は思わぬ方向へ突き進むことになります。
嫌な上司の典型・前波吉継
元々朝倉家内では別段地位が高くなかった前波吉継でしたが、守護代になった途端に主家であった朝倉家の一門にさえ見下した態度をとるという、いわゆる「嫌な奴」だったようです。また前波吉継は京都へ上洛し信長に謁見すると、長繁や旧朝倉家臣たちの領地が多すぎるということで、わざわざ長繁達の領地削減を提案するという謎の行動もとっています。さらには織田信長に対してゴマすりの献上物を捻出するため、前波吉継は自らが治める越前国内の税率を引き上げるという、ちょっとした悪代官ぶりも発揮しています。同僚や部下が突然自分の上司になるというのもなかなかモヤッとする展開ですが、その人物が突然横暴に振る舞い始めるというのは特に嫌なものですよね。
こういった前波吉継の傍若無人な振る舞いが続く中、織田家は伊勢国(現在の三重県)で抵抗していた浄土真宗勢力を攻撃するため、第二次長島侵攻を敢行しました。この戦いには越前国の守護代・前波吉継を始めとして、富田長繁ら旧朝倉家臣団も多く従軍しています。その際に長繁の与党(同調する仲間)が武功を上げていたため、長繁は守護代の前波吉継を通して信長に恩賞を求めたのですが、長繁の勢力拡大を恐れた前波吉継はそれを握りつぶすという、部下のテンションを大いに下げる嫌な振る舞いを見せつけています。結局織田家の第二次長嶋侵攻自体も失敗に終わり、長繁ら越前国からはるばるやってきた旧朝倉家臣団もトボトボと帰路についています。
富田長繁の逆襲
前波吉継の振る舞いに怒りを覚えていたためか、あるいは元々野心があったのか、富田長繁は前波吉継を討ち果たし越前を支配するという考えを抱きます。ですがいくら相手がセコい奴とは言えやはり一国の統治者、それなりの軍事力があり強敵でもあります。そこで長繁は越前国内に多くいた浄土真宗信者に目を付け、助力を得ることで前波吉継を倒す算段をつけます。
長繁が持っていた反乱の意志は、過酷な増税に苦しんでいた浄土真宗信者達のニーズにもピタリとハマりました。さらに長繁の反乱は浄土真宗信者を介して一般庶民にまで知れ渡り、総勢で3万を越す大規模な一揆軍が集結します。長繁はこの一揆軍を率いて前波吉継の本拠・一乗谷城を襲撃、前波吉継のみならず家族に至るまで殺害しています。
富田長繁の乱心?
前波吉継を討ち果たすことに成功した富田長繁でしたが、勢い余ったのかなんなのか、織田信長が目付役として越前に置いていた三人の奉行にまで攻撃し始めました。さすがにこれはマズいということで仲間達は長繁を説得、ひとまず三人を越前国から追放するという処置で済ませています。織田信長と露骨に敵対するという未来のない衝動的な行為に、一緒に行動していた仲間達もさすがに人格を怪しんだのではないでしょうか。
すでに危なっかしさを見せていた長繁でしたが、ここでさらに不可解な行動を取り始めます。朝倉家から織田家に投降し同じ立場にあったはずの魚住景固という人物を、朝食に招いた上で暗殺してしまいます。さらに翌日には魚住景固の息子まで暗殺し、魚住氏が持っていた所領を根こそぎ奪っています。善人として多くの人々に知られていた魚住景固を暗殺したことは、領民たちや旧朝倉家臣達を遠ざけるには充分すぎる出来事でした。この後は魚住景固のように暗殺されることを恐れ、味方だった人々も誰一人として面会に訪れなくなります。
必然の孤立状態に陥った富田長繁
一応は越前国の支配者となっていた富田長繁は、三箇条の禁制を掲げ越前全土へ自らの支配権が及んだことを示しました。前波吉継とは違って善政を布くつもりだったのかもしれませんが、この時点ですでにやっていることがチグハグな長繁を支持する人は少なかったでしょう。さらに長繁が織田信長との和平を考えているという噂が立ち、当時織田家と対立していた浄土真宗の信者は長繁の元から一気に離れていきました。
長繁が織田家と隣接している越前国で生き延びるためには、織田家の傘下に入るか戦い続けることがどうしても必要となります。ですがすでに織田家についていた前波吉継を打ち取り、さらに奉行を攻撃したことで織田家と穏便に話を進められる訳もなく、また浄土真宗が離れたことで戦力をも失っています。
この段階でも長繁には手詰まり感があるのですが、戦国時代という弱肉強食の時代はさらなる追い打ちを掛けてきます。この越前国内の状況を見た浄土真宗の統率者・本願寺顕如は、北陸での拠点拡大を狙い、信者たちに越前奪取を命じました。そして浄土真宗の統治下にあった隣国・加賀国(現在の石川県南部)から司令官として七里頼周(よりちか、らいしゅうではないです)を向かわせ、信者たちを統率に当たらせています。この浄土真宗の軍勢に旧朝倉家臣団である朝倉景健、朝倉景胤も加わり、14万もの軍勢が長繁を攻撃するために集結しました。
ついに力尽きた富田長繁
14万という大軍に対し、迎え撃つ富田軍はおよそ5~6千であったと言われています。浄土真宗の軍勢はわずかに残っていた長繁の味方をことごとくすり潰し、長繁が居る府中の地を大軍で包囲しました。
絶望的な状況に置かれた長繁は浄土真宗に対して一矢報いようとしたのか、ここで700騎程の手勢を引き連れて包囲の一角に突撃を敢行、2000人を撃ち倒して無事に帰還するというミラクルを成し遂げました。長繁は大戦果を挙げたその日の内に府中の町に残っていた町衆を勧誘し、戦力を確保して次の戦闘への準備をしっかりと整えています。そして翌日も長繁は同様に突撃を仕掛けて散々に敵を打ち破ると、敵将・朝倉景健(かげたけ)の陣へ襲い掛かりました。とは言えさすがに朝倉景健も歴戦の勇者、むしろ頑強な抵抗に遭い討ち取るには至りませんでした。
そして翌日、天正2年(1574年)2月18日の早朝、長繁は先頭に立って出陣していきました。守備部隊が見送る中を意気揚々と進む富田長繁は、味方から放たれた銃弾一発に倒れ、24年の生涯を終えています。再三にわたる無謀な突撃に、不満というより付いていけないといったところでしょうか。
越前の狂犬・富田長繁のまとめ
前波吉継を討ち取った瞬間だけは拍手喝采だった長繁でしたが、その後織田家の奉行を攻撃した辺りでもう黄色信号が灯っていたように思えます。そして魚住景固を攻撃して領土を没収した時点で、滅亡は時間の問題といった感じでしょうか。敵と味方の数次第で勢力の優劣が決まるご時世において、味方になってくれそうな人間を暗殺するという暴挙は人々の支持を手放すことと同義に思えます。もちろん実際にどういう関係であったかはわかりませんが、客観的に見てしまうと「ただ土地が欲しかっただけ」という気がしてしまいます。
配下に攻撃を加えるという明らかな敵対の意志を織田信長が許す訳もなく、例え浄土真宗との戦いに勝っていたとしても、当時最強の戦闘集団・織田家からの侵攻を免れる術はなかったように感じます。富田長繁は勢いで周囲の人々に噛みつきまくる、「越前の狂犬」というニックネームさながらの生涯を送っています。
ちなみに長繁の後に越前国の統治者に収まった七里頼周は、前波吉継と同等かそれ以上の悪政を布いたとされており、大阪の石山本願寺に統治者を替えるよう直接訴えが届いた記録すら残っています。朝倉家が滅んでからの統治者の交代劇を、越前国の人々はどのような目で見守っていたのでしょうか。
<参考サイト様>
Ibis大百科 富田長繁【越前の狂犬、越前国を大混乱に陥れた狂人か】
https://ibispedia.com/todanagashige
ニワカ歴史オタが語る雑記 富田長繁 越前の狂犬
http://niwareki.doorblog.jp/archives/22623269.html
戦国武将列伝Ω 武将辞典 富田長繁とは~武勇に優れた猛将も一向一揆と家臣らの統制は失敗した?
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