室町時代 足利尊氏という人物前編

室町時代の人物録

鎌倉幕府の滅亡に加担した後に後醍醐天皇との戦いを制し、室町幕府を樹立するという偉業を成し遂げた足利尊氏ですが、この人物は和歌を詠むような文化的な側面を持つ人でもありました。尊氏の生涯を一通り見てみると、戦上手で部下からの信望も厚く、武士達の気持ちを汲み取る有能な上司の一面がありながら、たびたび全部嫌になって隠居するという妙な性癖が見られたりします。

この記事では足利尊氏を話の中心に据え、時代ごとのエピソードのご紹介や考察記事を記載しております。その都度注意書きを添えてはおりますが、若干筆者の妄想も入っていますので、読者様にはご了承の程お願いいたします。

ちなみに足利尊氏という人名は実は改名後の名乗りではありますが、ややこしさを防ぐためにページ内では改名前も後も同じに表記しています。こちらもご了承の程お願いします。

そもそも鎌倉幕府における足利家とは

承久の乱によって特別な家系になった足利家

鎌倉幕府の頂点は本来なら将軍であるはずなのですが、実際は執権北条氏によって牛耳られ続けられており、北条氏と同列であるはずの御家人達はほぼ家来となっていました。そんな状況においても足利家は北条氏との婚姻によって名門の地位を保っており、それは足利尊氏が登場する鎌倉時代末期においても同様です。その理由として足利家が源氏の血を引いていることもありますが、1221年に起きた「承久の乱」という朝廷と鎌倉幕府の争いが大きな要因となっています。

「承久の乱」は朝廷が武士を討伐に向かったという戦いではありますが、そもそも朝廷軍は日本史上でほぼ負けたことがありません。その唯一の例外がこの「承久の乱」なのですが、戦前の御家人達はそんなチート級の敵を前にして戦意喪失のお通夜ムードに包まれていました。ところが北条義時・北条政子のリーダーシップ、そして大江広元の京都侵攻作戦によってポジティブな雰囲気が戻り、鎌倉幕府は一丸となって戦い勝利を収めています。この戦いにおいて「足利義氏」が一軍の大将を務めて活躍したのですが、これ以降の足利家は北条氏から異常に優遇され、なおかつ対外的な戦いでは足利家が大将を務めるという慣例が出来上がっています。

承久の乱についての記事はこちらからどうぞ。

源氏の正統後継者となった足利家

そして鎌倉時代後期には十四代執権北条高時によって、足利家は源氏の正当な後継者であると正式に認められています。このことにはかなり大人の事情が絡んでおり、北条高時からすれば足利家から将軍を迎える気なんてサラサラありません。どちらかと言えば北条氏の立場をより強固にするため、「源氏の棟梁をも従える北条氏!」というステータスが欲しかっただけと思われます。とは言えこの事情を足利尊氏の父に当たる貞氏はよく理解していたようで、変にイキがって北条氏に楯突くようなことはせず、むしろその意図に従いながら共存の道を選んでいました。

足利家にとっては源氏の後継者であると認められて名が高まり、北条氏は源氏の後継者を従える家柄として名が上がります。お互いにメリットがあるウィンウィンの関係を築いていたんですね。つまり北条氏と足利家はこの時まで、かなり密接でなぁなぁの関係であったとも言えます。

そんな中で父である貞氏が死去し、20代の尊氏が足利家を継ぐことになりました。尊氏が足利家を継いだちょうどその頃、後醍醐天皇が二度目の挙兵をしました。

足利尊氏と後醍醐天皇の戦い「元弘の乱」

嫌々出陣した足利尊氏

後醍醐天皇の挙兵を知った鎌倉幕府は、足利尊氏に出陣するよう要請しました。承久の乱から続く、足利家が対外的な戦争で大将を務めると勝つ、のジンクスは多くの御家人に信じられていたためです。当時は現代では考えられないほどジンクスというものが大事にされており、御家人や兵の士気を盛り上げるために大きな影響力がありました。ただでさえ相手が朝廷ということもあり、無理矢理にでも士気を上げる必要があったものと筆者は推測しています。

鎌倉幕府討伐にご執心な後醍醐天皇

ですが足利尊氏は出陣を一度拒否します。これはまだ父が亡くなって間もない時期であり、喪中であることを理由としています。ですが幕府としても士気を上げるために必要な「足利家」ブランドであったため、次は出陣するように命令しました。

仕方なく嫌々出陣することになった足利尊氏でしたが、この時に鎌倉幕府への嫌悪感を覚えたと言われています。反乱軍がいるのに出陣しないのは幕府御家人としてどうなの感はありますが、若くして家を継いで間もない時期に急に大将を務めるというのも、気乗りがしない理由だったのかもしれませんね。

勝利した足利尊氏は挨拶もせずに帰る

出陣した足利尊氏率いる軍は後醍醐天皇の軍勢を破り、ジンクスの通りに勝利を収めました。

この時の朝廷は2派閥に分かれており、大覚寺統の後醍醐天皇と、持明院統の花園上皇といった構図です。戦に負けた大覚寺統の後醍醐天皇は天皇の座から降ろされて、隠岐島に島流しとされています。そして代わりに花園上皇の後押しがあり、光厳天皇が天皇となっていました。

ここで後醍醐天皇軍を破った足利尊氏は、本来は大将として朝廷に挨拶に行くべきなのですが、嫌々出陣していたせいか代理の大将を任命して、自身はさっさと鎌倉に帰還してしまいます。無理矢理出陣させられて頭にきていたのかも知れませんが、足利尊氏はこの段階ですでに幕府に対する反感を持っていた可能性も高いかなと思われます。

一方の鎌倉幕府はさっさと帰還してしまった足利尊氏を咎めることなく、功績を讃え貴族の官位を与えて報奨としました。この幕府の対応に足利尊氏は満足したのか特に文句を言う訳でもなく、しばらくは平穏な日々を過ごすことになります。ところがそんな日々も長くは続かず、先の戦いで敗れたはずの後醍醐天皇がまたも動き出しました。

鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏

隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、またも倒幕の挙兵をします。

後醍醐天皇の挙兵を知った幕府は、またも対朝廷のラッキーアイテムである足利尊氏に大将として、出陣を命令しました。この流れはちょっと前にもあった気がしますね。ちなみに今回の足利尊氏は喪中ではありませんでしたが病中であったため、やっぱり嫌々だったのではないかと筆者は勝手に思っています。

今回は足利尊氏とともに、名越高家という御家人も大将として出陣しています。ですがこの名越高家は、戦が始まってすぐに戦死してしまいました。

いきなり大将の1人が討ち死にするという、異常すぎる展開に足利尊氏はとても悩んだことでしょう。大将を一人討ち取って士気が最高潮に盛り上がる敵と、意気消沈する味方の軍を比べて、勝つことはなかなか難しいと判断したのではないでしょうか。以前からの幕府への嫌悪感、そしてずっと続いていた後醍醐天皇からの勧誘もあり、ついに足利尊氏は後醍醐天皇側につくことにしました。

六波羅探題を攻め落とす

後醍醐天皇につくと決めた足利尊氏の行動は素早いものでした。尊氏の領地が京都北部にあったため、そこを拠点に倒幕の挙兵をし、近隣の御家人達に味方になるよう催促する手紙を送ります。

この時点で各地の御家人も、今度こそ幕府が倒れると感じていたのでしょう。もしくは幕府への気持ちはとっくになく、鎌倉幕府が倒れる瞬間を見計らっていたのかもしれません。多くの御家人たちが足利尊氏の元へ集い、鎌倉幕府が京都に設置していた一大拠点である六波羅探題を一気に攻め落とします。

そしてその頃関東では、新田義貞が鎌倉を攻めていました。そして新田義貞は鎌倉を制圧し、元弘の乱が終わりました。

建武の新政での足利尊氏

高評価好待遇?

鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏は後醍醐天皇から最も手柄があったと評され、貴族の位と将軍位、そして多くの領地を報奨としてもらいました。ちなみに「尊氏」と改名したのもこの時期ではありますが、この「尊」は後醍醐天皇の名前から一文字もらっており、天皇からすれば評価の高さを示したものと言えるでしょう。まあ足利尊氏が鎌倉幕府を見限ったからこそ新政権が成立した訳で、このくらいの高評価は妥当とも言えるでしょうか。ですが足利尊氏本人としては新政権の運営に乗り気ではなかったようで、一歩引いた立ち位置で成り行きを見守ることになります。

なぜか新政権でポストなし

そんな好待遇をする意思を見せた後醍醐天皇に対して、足利尊氏自身は新政権では要職に就かず、部下だけを新政権に送り込んでいました。これは後醍醐天皇が足利尊氏を恐れたため、重要なポストを与えなかったという説もあり、定かではありません。

ですが足利尊氏が、新政権では重要なポストに就いていなかったことだけは確かな事実として伝わっています。筆者の推測としては、大きな功績を挙げた尊氏を持て余した後醍醐天皇が、ご褒美だけたくさんあげて後は放っておこう作戦に出たものと踏んでいます。これは筆者の妄想ですので、あしからず。

そんな宙ぶらりん状態の足利尊氏でしたが、鎌倉では新たな事件が勃発します。

北条氏による政権奪還作戦「中先代の乱」

足利尊氏勝手に出陣する

北条氏の残党が反乱を起こし、鎌倉が制圧されるという事件が起こります。

本編でも触れていますが、この時の足利尊氏は後醍醐天皇に出陣許可と征夷大将軍の位を要求していますが、後醍醐天皇はどちらも拒否しています。足利尊氏は拒否されたにも関わらず、軍を引き連れて勝手に鎌倉に向かってしまいました。尊氏勝手に出陣の知らせを聞いた後醍醐天皇は、仕方なく追っかけで征東将軍の位を送ります。足利尊氏が征東将軍の位で納得したのかどうかはわかりませんが、鎌倉にいた旧幕府の軍勢を打ち破り鎌倉を取り戻しています。

武士の棟梁+征夷大将軍の意味

ここのくだりから推測できるのは、やはり後醍醐天皇の足利尊氏への恐れではないでしょうか。足利尊氏を征夷大将軍に就任させるのはあまりに危険と感じつつ、替わりの征東将軍を与えています。つまり後醍醐天皇にとっては「足利尊氏+征夷大将軍」の取り合わせがまずかったんですね。

というのも足利家は、すでに北条氏によって源氏の正当な後継者であると認められており、そのことをほぼ全ての武士達は知っています。このことに関してはページ上部の「源氏の正統後継者となった足利家」でもご説明しています。つまり武士の棟梁の家柄である源氏の後継者に征夷大将軍を送るのは、「どうぞ幕府を作ってください」くらいの意味になります。後醍醐天皇にとっては天皇中心の日本統治が目的ですので、武士の独立政権である幕府などは邪魔以外の何物でもありません。そのため征夷大将軍を与えることはどうしてもできなかったんですね。でも裏切られるのは嫌だから征東将軍でもあげてなだめておこう、くらいの思惑だったと思います。

この時の足利尊氏も、すでに幕府創設まで考えていたと思います。尊氏自身も、自分が征夷大将軍になる意味、は重々承知していたはずですから。建武の新政で混乱の中にあった幕府への回帰を望む武士からも、多くの期待の声が寄せられていたでしょう。

そして鎌倉での内乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉に留まったまま妙な行動を取り始めます。

幕府将軍の真似事をし始めた足利尊氏

中先代の乱が起きた時に鎌倉を統治していたのは足利直義ですが、この人物は足利尊氏の弟に当たります。そんな血縁上の気安さもあったのか、足利直義は鎌倉に留まっての治安維持を依頼しており、足利尊氏はこれを快諾しました。とは言え後醍醐天皇からは何度も帰還命令がありましたが、足利尊氏はこれをガン無視、懐かしみのある鎌倉での生活をエンジョイし続けました。

そして鎌倉に留まったまま功績のあった武士達に報奨を与えたりし始めました。そして以前から嫌いだった新田義貞の領地を勝手に没収し、その土地を報奨として与えるというとんでもないことまでしています。

建武政権では報奨を与えるのは、「恩賞方」という部署ときっちり決まっています。ですのでこの報奨を与える行為自体が完全にアウトです。朝廷から見たら組織を無視した越権行為も甚だしいですからね。ですが武士の感覚でいくと、大将が功績のあった者に報奨を出すのは自然で当たり前のことです。ここら辺りが武士と朝廷側で全く噛み合っていなかったんでしょうね。

新田義貞の件はともかくとして、後醍醐天皇の幕府アレルギーも大きかったのでしょう。鎌倉で独立した政治体制をとろうとした尊氏を朝廷が見逃すはずもなく、新田義貞や東北の武士に尊氏を討ち取るよう命じます。

足利尊氏の新政権への反乱「建武の乱」

鎌倉で引き籠もった足利尊氏

新田義貞や東北の武士が鎌倉へ向かっていることを聞いた尊氏は、髪を切って寺に引きこもり、そして隠居を宣言して朝廷に対して許してもらおうとします。やりたい放題やってから、相手が怒ったら許してもらおうという作戦だったのでしょうか。ちなみにこの隠居宣言は尊氏個人の意見であったようで、弟の直義や足利家執事の高師直(こうのもろなお)らは各地に迎撃に向かっています。

当然隠居したくらいで許す後醍醐天皇ではなく、意に介さず鎌倉への進撃を続けました。各地で迎撃にあたっていた弟直義や高師直は、朝廷軍の前に段々と劣勢になっていきました。尊氏が隠居を決め込んでいる状態では兵たちの士気が上がる訳もなく、当然の成り行きとも言えます。

誰も「朝敵」になんてなりたくない

そもそも大将である尊氏が隠居なんてしている理由は、「朝敵」という汚名を着せられたくないからなんですよね。「朝敵」という単語はそのまま朝廷の敵という意味で、当時としては日本人全ての敵といった印象を受ける単語でした。尊氏の部下からすれば、やりたい放題やっておいて今さら何を言っているんだという感じですが、このままいくと「朝敵」の汚名を着せられたまま惨敗して終了です。絶望しかない状況で増々士気が下がり、直義や高師直は負けを繰り返しながら後退を続けていました。

幕府の後ろ盾もない状態で朝廷と争うことは、日本中を敵に回すことになりかねません。「朝敵」という単語には、当時それほど強烈なインパクトがありました。そんな中で弟直義や高師直の劣勢を聞いた尊氏は、とある裏技を思いつきます。「朝敵」であることを免れつつ朝廷と戦うことができ、自分の戦いに大義名分を持てる方法です。

「朝敵」にならなくて済むなら出陣します

それは後醍醐天皇によって朝廷から追い出された、持明院統の光厳上皇から後醍醐天皇討伐の院宣をもらうことです。院宣をもらうことで朝廷内の争いという構図にできるため、露骨な「朝敵」ではなくなることができます。上皇は当然院宣を出すことができますし、後醍醐天皇に追い出された格好の光厳上皇でしたら協力してくれそうな気がしますよね。

そして東海道で戦っていた直義から、新田義貞が西から鎌倉へ向かっていることも聞いた尊氏は闘志を燃やしたのでしょう。段取りもついていた尊氏は天皇に反旗を翻す決意をし、そして目の前の大嫌いな新田義貞を倒すことを心に決めます。

箱根・竹ノ下の戦い

直義の軍を追いかけながら鎌倉へ向かっていた新田義貞は、投降してきた兵を吸収しておりさらに強さを増していました。そんな折に尊氏は直義の軍と合流します。遅れてきた主役の登場に、足利軍は大いに士気を上げました。とは言っても、そもそもこの戦いが起きているのは完全に尊氏本人のせいなんですけどね。

尊氏が合流した足利軍は、箱根のあたりで義貞軍と激突します。数日に渡って戦いが続きましたが、ここで新田義貞の軍から足利軍に寝返る者が現れたこともあり、足利軍が勝利を収めました。

そして尊氏は「朝敵」とならないよう院宣をもらうため、光厳上皇へ使者を出しました。

足利尊氏敗れる

新田義貞の軍を破った尊氏は、そのままの勢いで京都へ向かい、そしてそのまま制圧します。尊氏が京都に迫っていることを知った後醍醐天皇は比叡山に逃げ込み、機会を伺うこととなりました。しかしこの後醍醐天皇も、人生で何回逃げたり捕まったりしているのでしょう。この後醍醐天皇という人物も、相当破天荒な人生を送っております。

そして京都に入った尊氏を待ち構えていたのは、各方面から集まってきた朝廷軍でした。楠木正成も新田義貞と合流しており、ここで朝廷軍の猛攻を受けた尊氏は一旦撤退し、味方を募ってから京都を奪還しようと軍を整えます。ですが尊氏にそんなスキを与えなかった新田義貞はさらに尊氏を攻めたて、尊氏は大惨敗を喫して西へ逃げていきました。

皇居外苑の楠木正成像

九州で再起した尊氏 院宣を受け取る

新田義貞にボロ負けした尊氏は、九州まで撤退することとなりました。九州には尊氏に好意的な武士が多くおり、尊氏はそこを頼ることにしたんですね。

そして九州で味方を募り、力を蓄えた尊氏は九州にもいた朝廷側の勢力を破りました。軍が立ち直り、改めて九州から京都を目指している間に、待ちわびた光厳上皇からの院宣が届きます。

京都にもう一度

院宣を受け取った尊氏は、京都へ向かいながら近隣の武士達に勧誘の手紙をバラ撒きました。元々あった足利尊氏の血筋や人望に加え、院宣の力が後押しをして急速に味方が集まることになります。武士達が常々思っていた、建武の新政への批判も大いにあったと筆者は考えています。建武の新政よりも幕府統治の方がはるかにマシだった、という気持ちは多くの武士にあったのではないでしょうか。

そして京都の手前で新田義貞と楠木正成の軍と激突し、勝利を収めた尊氏は京都を再び制圧しました。この時に新田義貞は後醍醐天皇と共に比叡山に逃げ、楠木正成は自害しています。

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