室町幕府樹立後の足利尊氏
またもや隠居願望が芽生える
後醍醐天皇を無事追い払い、室町幕府を樹立した足利尊氏でしたが、この人生のピークとも言えるタイミングでなぜかまた隠居願望が芽生えてきたようです。楠木正成に敗北し逃げ回った挙げ句に九州で再起、そこからのドラマチックな勝利で栄華はこれから、といったところでの隠居宣言はもはや謎でしかありません。まあ色々とやり尽くしたからこその隠居なのかもしれませんが、多くの時間を共に過ごしてきた者達にとっては「またか」くらいだったのでしょうか。
実際の足利尊氏はこの場面ではまだ隠居はせず、この後も後醍醐天皇が立ち上げた南朝との争いを継続しています。ですがこの頃京都の清水寺に、「世間から逃れたい。」といった内容の願い文を納めたりしと、もう明らかに疲れちゃってる感が伺えます。まあ若くして家督を継いでから戦争と逃亡生活ばかりということで、ほっとしたところで本音が出てしまったのかもしれませんね。
鎌倉幕府の方針を引き継いだ「建武式目」
後醍醐天皇と新田義貞を取り逃がしはしましたが、京都を抑えることには成功ました。武士達に鎌倉幕府への回帰願望があったため、尊氏は新しい武家政権成立を宣言しました。そして「建武式目」という武家に対する基本方針を発表し、自身を「鎌倉殿」と称しています。
「鎌倉殿」という言葉からも分かるように尊氏は、自身の作った幕府を「鎌倉幕府の続き」として考えているんですよね。「建武式目」でも第一項に、室町幕府は鎌倉幕府の正当な後継者である、という内容のことが明記されています。
ちなみにこの「建武式目」は、鎌倉時代に制定された「御成敗式目」と並び、戦国時代や江戸時代に至るまで影響を及ぼし続けます。特に戦国時代は各勢力が独自の法整備を行っていましたが、基本的には「御成敗式目」や「建武式目」に追加する形で作られています。現代のように情報があるわけではない戦国時代において、最低限の基本的な決まりごとである常識があったことの意味は非常に大きいでしょう。最低限の常識があったからこそ同盟関係などの、各勢力間での外交が成立したのではないでしょうか。もっとも各式目の内容すらいまいち知らない国人あがりの戦国大名などには、やはり通用しない常識ではありましたが。
征夷大将軍就任と天龍寺
一度捕まった後醍醐天皇が再び逃走して奈良の吉野へ逃げて南朝を樹立した後に、尊氏は征夷大将軍に任命され、ここで名実ともに室町幕府が成立します。
その1年後に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、尊氏は慰霊のために天龍寺建設を始めました。尊氏にとっては最後は敵対したものの、一度は親密な関係を築いていたこともあり後醍醐天皇への想いもあったのでしょうか。実際のところ尊氏の挫折と成功は全て後醍醐天皇が関係しており、2人の間に敵味方以上の感情があったとしても不思議ではないですよね。
ちなみにこの頃の幕府の財政は火の車で、天龍寺の造営費が全然足りないという問題が出ていました。尊氏はここで朝廷に顔が利くのをいいことに、朝廷の官位をお金で売る、という売官行為を働いています。しかしそれでもお金が全然足りなかったため次は当時の中国王朝である元に貿易船を派遣し、大儲けしたお金を天龍寺の造営費用に当てました。
元寇でしか日本と元の関係が語られないことが多いのですが、実はこの頃元との関係は良好で、禅宗の僧侶が頻繁に行き来している状態でした。また寺社造営のための貿易船を派遣した前例もあり、尊氏の貿易に手を出した行為はそこまで特別なものではなかったようです。
ですが最終的に敵だった後醍醐天皇のために、ここまでして寺を建ててやるという尊氏の気持ちは、筆者としてはちょっとグッときてしまうところでもあります。
弟の足利直義との争い・観応の擾乱
観応の擾乱が幕府での、尊氏と弟である直義の2人による役割分担での政治体制によって、派閥争いが段々と大きくなっていったことは本編でもご説明しました。こちらのページでは擾乱の中で、特に尊氏と直義にスポットを当ててご説明したいと思います。
本編はこちらからどうぞ。
足利直義と高師直の対立
幕府では尊氏が軍事指揮権と恩賞権を持ち、直義が統治権を持つ、二頭政治となっていました。役割分担と言えば聞こえは良いですが、トップが1人ではない場合に必ず揉めるのが歴史であり、今回も全く例外ではありません。仕事が違うので別々の人間関係や利害関係ができてしまうため、派閥争いに発展しやすいんですよね。一旦派閥争いに発展してしまえばお互いのプライドや恨みなどが重なり続け、激化していくのが歴史の常です。このケースでは直義派と反直義派に分かれて対立が深まっていくのですが、反直義派のリーダー格である高師直の襲撃を受けた直義が、尊氏の邸宅に逃げ込んだところから本格的な擾乱が始まります。
直義の引退を要求する高師直
尊氏の邸宅に逃げ込んで一安心していた直義でしたが、高師直はそのまま尊氏の邸宅を包囲し、そして直義の引退を要求します。軍事権を握っていた尊氏はどちらかと言えば反直義派の立場であったのですが、かと言って弟を殺すつもりもなかったのでしょう、ここでは直義を捕まえるようなことはせずに直義の判断に任せています。
とは言え包囲されている状態ではどうにもならないので、直義は師直の要求を飲み、出家して政治から身を引くこととなりました。
尊氏の長男義詮と認知されなかった息子直冬
直義が引退したため直義の代わりに統治を担当させるために、尊氏は鎌倉にいた長男の義詮(よしあきら)を京都に呼び戻します。
直義には足利直冬という養子がいました。直冬は尊氏の息子なのですが、尊氏に認知されなかったために直義が養子として引き取っていた経緯があります。直冬は直義派を助けるために九州で軍を整備し、事あらば動こうと待機している状態でした。尊氏は直冬軍の拡大を恐れて早めの討伐を考え、九州へ向けて軍を移動させます。
直義の南朝入りと高師直死去
尊氏が軍を連れて西に向かったのを見た直義は、南朝に使者を出し友好関係を結びます。そして南朝側の軍と直義派の兵をかき集め、一気に京都を攻撃しました。この時京都の守備として残っていた義詮は、直義軍の攻撃にたまらず逃げ出しています。
直義の京都攻撃を知った尊氏は、九州討伐どころではないことを悟り、京都への道を戻ります。そして京都を占拠している直義軍とぶつかるのですが、尊氏はここで敗北してしまいます。
このままでは勝てないことを悟った尊氏は切り替えが早く、直義と和議の交渉を始めます。元々は高師直と直義の対立から始まっていたため、尊氏は高師直の出家と島流しを条件に交渉を進め、直義がその条件を飲んだため急に争いが終わりました。尊氏は高師直を連れて京都へ戻ろうとしますが、京都への護送中に高師直は上杉能憲という者に斬りつけられ、あっさりと死亡しています。
一説によれば、尊氏は直義との交渉の中で高師直の暗殺を許可していた、という話もあります。高師直を斬りつけた上杉能憲は、尊氏の母親の一族に当たる外戚の名門です。上杉能憲の父は高師直との政争に破れて暗殺されていたため、師直に対して恨みを持っていたんですよね。上杉能憲の恨みを晴らしたい気持ちに、親戚関係にある尊氏が応えたという可能性は充分にあると思います。
ちなみにこの上杉能憲の上杉氏は長い間関東管領の職を続ける名門であり続け、戦国時代の流れに抗いきれなくなったところで、上杉謙信に上杉の姓と関東管領の職務を譲り渡すことになります。
ともあれ高師直が死亡したことでひとまず争いは静まりましたが、戦争自体は直義が勝利していたため、直義は意気揚々と幕府政治の中心に返り咲くこととなりました。
足利尊氏、なぜか威張る
この時点での尊氏は、戦争に負けてしまった人であり、また高師直という家臣を失った人でもあります。つまり、本来であれば非常に弱い立場にあるはずなんです。いくら将軍という立場にあるとはいえ、直前の戦争で直接負けてしまっていますし、派閥の勢いとしても直義派はかなりイケイケの状態です。
なのですが、尊氏は負けをまったく意識していなかったようで、むしろなぜかこれまで以上に傲慢な振る舞いを見せ始めます。反直義派の家臣の報奨を直義に無理矢理押し通し、直義派の家臣をなぜか敗北者扱いし始めるという、傍から見るとよくわからない振る舞いをしていました。
尊氏の言い分としては、前回の戦争はあくまで高師直と直義の戦争であって自分は関係ない、というものだったらしいのですが、実際に戦って負けている人が言うことではない気がします。ですがそんな尊氏の怯まない態度もあり、また直義の政治に不満を持つものも多くいたため、直義派から反直義派に鞍替えするものが現れていきます。
足利直義ついに死す
戦に勝って、これからは俺の時代だ状態なはずの直義でしたが、なぜか自分の派閥から尊氏側に鞍替えする者が多くなってしまい、結局またもや幕府政治から引退することになりました。そして直義はまたも南朝側に合流し、再起を図り始めます。
ここで尊氏は、直義を倒すためには南朝との分離が必要であると悟り、南朝との和睦を図ります。そして南朝に3種の神器を譲り渡すことで南朝との和睦が成立し、分断されて孤立した直義を打ち破り、最後は捕らえて幽閉しました。ちなみに直義は、幽閉されてしばらく後に急死しているのですが、死んだ時期が高師直のちょうど一周忌だったそうです。色々といがみあっていた二人だっただけに、何かと想像してしまいますね。
尊氏と直義 北朝と南朝の関係
最初は北朝側だったはずの直義が急に南朝についたり、直義を支持していた南朝が突然尊氏と手を結んだりと、展開が急すぎて腑に落ちない気がしますので、ここでざっくりと4者の利害関係を説明したいと思います。4者が別々の思惑と目的を持っていることが、観応の擾乱を凄まじくややこしくしています。
手書き感満載の相関図で申し訳ないのですが、要するに図で何が言いたいかと言えば、基本的に敵対しているのは尊氏vs直義と、北朝vs南朝の2つだけです。尊氏は直義を倒すためなら北朝と南朝どちらと手を組むのも問題ないですし、直義も同様です。もし北朝が尊氏の強い影響下になかったとしたら、きっと南朝に切られた後は北朝に支援を求めたでしょう。
北朝と南朝の争いについても南朝からすれば、尊氏だろうが直義だろうが使えそうなら使い、北朝を倒すためなら誰とだって手を組みます。ですがそもそも南朝が始まった理由が、後醍醐天皇が尊氏に敗れてしまったことに由来しているので、若干の敵対感情はあるかもしれません。ですが尊氏が北朝支持をやめたとすれば、たぶんですが南朝とて尊氏との敵対が続くことはなかったのではないでしょうか。南朝の最大の目的はあくまで京都奪還であり、北朝を追い出すことですから。
ドサクサに紛れて南朝が京都奪還
南朝は尊氏との和議が成立したにも関わらずすぐに手の平を返し、鎌倉にいた尊氏と京都の義詮に対して攻めてきました。
まずは尊氏がいた鎌倉に南朝側の軍が攻めて来るのですが、尊氏はこれを当然のごとく撃退します。ですが京都もほぼ同時に攻撃を受けており、尊氏の長男である足利義詮が守っていましたが、敗れて脱走するハメになり京都を占拠されてしまいました。
尊氏は義詮の救援要請を受けて大急ぎで京都へ戻り、なんとか京都を奪還します。
ここでようやく観応の擾乱が終結するのですが、尊氏の戦争人生はまだまだ続きます。
尊氏のもうひとりの息子 足利直冬
観応の擾乱が収束してしばらくは小康状態となっていましたが、九州にそのまま残っていた足利直冬が動き出します。直冬は京都へ向かいながら旧直義派の残党を集め、京都への猛攻撃を仕掛けます。
直冬の攻撃は凄まじく、尊氏は一度京都を放棄して退却しています。ですがここから長男義詮が大活躍し、最後は尊氏の本軍が突撃するという無謀とも言える攻撃を仕掛け、ついには京都を奪還しています。
よくよく考えれば直冬も義詮も、母親は別々ですが尊氏の子供なので、壮絶な家族ゲンカをやっているようなものなんですよね。尊氏自ら突撃することで、父親の意地を見せたのでしょうか。
直冬の撃退に成功した尊氏でしたが、この時矢傷を受けていました。直冬を追って討伐を仕掛けようとしていた尊氏でしたが、矢傷を受けていたせいか、周囲の人間に止められて結局断念しています。
偉大なる初代将軍 尊氏死去
1358年、尊氏は享年54歳で亡くなりました。直冬との戦いで受けた矢傷が治りきらず、傷にできた腫れ物が原因での病死となっています。ちなみに室町幕府の創始者が死去してちょうど100日後に、3代将軍義満が誕生しています。
尊氏は足利家の家督を継いで間もない頃から戦争に明け暮れ、無数の勝利を重ね続けました。戦争そのものが上手かったこともありますが、勝ち続けることができた理由は尊氏自身の性格にもよるでしょう。
足利尊氏という人物
「梅松論」という本の中で、尊氏と個人的な親交があった夢窓疎石という禅僧が尊氏の性格を「心が強く、慈悲深く、心が広い。」と表現しています。これだけ見ると聖人であるかのようですが、尊氏の場合はもうちょっと人間臭さがある気がします。
矢が雨のように飛び交っている戦場でも決して怯まず、笑みを浮かべて動揺することはなかったといいます。
また一度戦った相手や裏切った人間も、降参すれば許してずっと味方であったかのような接し方をしました。敵対関係のまま亡くなった後醍醐天皇に慰霊のために天龍寺を建てていることも、尊氏の慈悲深さを表しているのではないでしょうか。
そして心の広さについてですが、戦場で功績を上げた者に対してその場で恩賞を約束する覚書を書いてあげたそうです。領地に関する覚書だけでなく、大きな功績を挙げた者には腰に帯びていた刀をその場であげてしまうといったこともしていました。基本的に物欲や名誉欲で動いている武士達にとっては、そういった尊氏の大判振る舞いを見てやる気を出さない訳がありませんよね。尊氏の軍では皆自分の命を投げ出すように戦って功を競い、結果的に強力な軍が形作られていました。「建武の新政」では戦争後に恩賞方という役所に功績を申請し、待たされた後に報奨が出るか出ないかといった具合でした。尊氏自身も武家の人であるため、武士がどういった気持ちで戦争に出ているかを理解していたんでしょうね。
ちなみに尊氏が書いた領地に関する覚書の中には、他の家臣に同じ領地を重複で書いてしまったこともあるそうです。その覚書が原因となり、100年以上も紛争の種になったことすらあったようです。あってはならないことではあるのですが、尊氏らしいうっかりさんな一面が出ているようで、ちょっと微笑ましいエピソードであるように感じてしまいます。紛争にまで発展した当の本人達はたまったものではなかったのでしょうけどね。
まとめ
おおらかで無頓着、でも肝は据わっているという室町幕府創始者の生涯をご紹介しました。足利家の家督を継いでからひたすら戦争を繰り返しており、政治家というよりも最初から最後まで武士であったかのような人生ですよね。
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