室町時代3 3代将軍足利義満 | 南北朝の統一を果たし上皇にまで上り詰めようとした人物

金閣寺 室町時代の人物録

今回の記事では足利義満が3代将軍に就任し、室町幕府の最盛期を迎え、南北朝がついに統一される場面をご説明したいと思います。

3代将軍・足利義満

室町幕府は3代将軍足利義満の元で、大きな繁栄を迎えることになります。ですが幼くして将軍に就任した義満にはまだ幕府政治を執る能力はなく、南朝との争いや御家人同士の争いを、将軍という立場から傍観し続けることになります。

まずは義満が将軍に就任したところから見てみましょう。

足利義満の補佐役となった管領・細川頼之

12歳で将軍に就任した義満でしたが、当然幕府政治を取り仕切れるわけもないので、管領として細川頼之が就任します。

管領とは、鎌倉幕府での執権と同じ様に、将軍の代わりに幕府政治を取り仕切る役割となります。この時代の細川氏は鎌倉幕府における北条氏程ではありませんが、かなり大きな権力を持っていました。

この時の細川頼之は、南朝で最大の勢力を持っていた九州に軍を派遣し南朝を大きく弱体化させ、相対的に幕府の権力が強まることになりました。

京都の室町に邸宅を移転

足利義満が20歳になった頃、邸宅を京都の室町に移しています。

実は室町幕府という名称も鎌倉幕府と同様に当時呼ばれていた名称ではなく、明治時代に歴史の研究が進んだ結果名付けられた名称だったりします。室町幕府という名称は足利義満が邸宅を移した「室町」に由来していますが、この時建造された「花の御所」があまりにも豪華すぎ、幕府を象徴する建物として扱われていました。

京都室町に建造された足利義満の邸宅「花の御所」

足利義満 派閥争いを利用する

観応の擾乱の時ほど大っぴらにはやっていないのですが、幕府内では派閥間の争いがいつまでも続いていました。この頃の派閥としては、管領細川頼之の派閥と、頼之に反対している派閥です。

義満が室町に邸宅を移してしばらく後、義満の邸宅が反頼之派の軍に包囲されるという事件が起こります。反頼之派の要求は、頼之の管領職を取り上げるというものでした。

抵抗する術を持たなかった義満は反頼之派の要求を呑み、細川頼之を管領職からクビにするという事件が起きます。

その後しばらくして細川頼之も幕府に復帰し、両派閥は元気に派閥争いを繰り広げるのですが、義満はどうやらこういった派閥争いを利用していたようなんですよね。どちらの派閥が大きくなりすぎても将軍の権力が相対的に落ちるため、両派閥に争わせて力を削いでいく考えであったように思えます。

事実この後の義満は、有力な御家人が内紛を起こしてゴタゴタしているスキに、なにかと理由をつけて討伐しに行くという行動を繰り返します。逆にそこまでしないと、足利家自体を守れないほど当時の将軍という地位が不安定なものだったのかもしれません。

寺社勢力との融和と公武の一体化

武士達をある程度大人しくさせることに成功した義満は、次に寺社勢力との融和を図ります。当時の寺社勢力は、比叡山延暦寺や興福寺などが独自の勢力を持ち、侮れない実力を持っていました。特に比叡山延暦寺は、後醍醐天皇が足利尊氏に追われた時に逃げ込み先になるなど、幕府とは敵対関係にありました。

そんな中で義満は比叡山延暦寺や興福寺と直接対話をして、彼らの要求を聞き入れました。特に比叡山延暦寺には幕府と直接交渉できる権利を認め、さらに戦乱の中で失われてきた仏事の再興に対しても取り組む約束をします。これに対して非常に喜んだ寺社側は義満を歓迎し、幕府との関係が良好になりました。

寺社を押さえた義満は、次に朝廷での昇進に狙いを定めます。すでに朝廷での位を持っていた義満でしたが、ここからトントン拍子で昇進していき、ついには皇族に近い待遇まで手に入れています。さらには武家としては初めて源氏長者となり、この時点で朝廷と幕府両方の頂点に、名実ともになりました。朝廷を握り込んだ義満は、自身の命令を天皇の使者に伝えさせることにより、圧倒的な権力を手にすることに成功しました。

ちなみにこういった義満の行いを見た貴族が、「先例を超越した存在」と評しています。この言葉の意味は、日本史上最高の権力を手にした人、といった意味ですよね。

南北朝の統一

公武の頂点に立った義満は、ついに長く南北に分かれている朝廷の統一を図ります。

義満はこの頃に、河内国(現在の大阪府東部)の千早城を陥落させることに成功しました。守っていたのは南朝側の楠木正勝で、あの楠木正成の孫にあたります。楠木家はいつも千早城に立て籠もっている気がしますね。千早城の陥落は南朝側に大きな影響を与え、南朝勢力は全国的に勢いを失い始めました。

これをいい機会と思った義満は、南朝との和平に乗り出します。南朝にとって領地の面でかなり有利な条件を提示し、さらには持明院統と大覚寺統が交互に天皇になるという条件で、ついに南北朝統一が成されました。そして3種の神器が無事京都に戻り、ここで58年もの間続いた朝廷の分裂が終結を迎えることになりました。

これによって南朝を正義としていた勢力も大義を失い、急速に衰えていきます。足利直冬から始まった九州の独立状態も一気に収束し、西日本では義満に抵抗できる者はいなくなりました。

明との国交を開きたい

南北朝が統一されたことにより、日本国内はだいぶ落ち着きを取り戻していました。そんな中で次なる義満の計画は、明との国交を開くことでした。日本と中国の関わりとしては、実は元寇以来まったくない状態です。元々明に対して強い憧れを持っていた義満は明へ使者を送ります。

ですが義満の使者は、明に認められずにすごすごと戻ってくることになります。明が認めなかったのは、明が話し合いをするのは天皇だけであり臣下とは話し合いしない、といった理由からだったようです。すでに日本の頂点に立ったとも言える義満でしたが、一応の形式上は天皇の臣下なんですよね。天皇から任命された将軍職であり、天皇から任命された太政大臣であるため、他所から見たらどう見ても天皇の臣下です。ですが義満は、この状況を思いがけない方法で打破します。

義満は太政大臣を辞め、出家してフラットな立場になることによって、明との関係を築けるようにしました。そして博多の商人を通じて再度使者を送り、今度は明と話し合いをすることに成功します。話し合いさえできれば義満の日本での立場や力も充分に理解させることができたのでしょう、義満は明から日本国王とされ、明との国交が正式に開かれることになりました。

明との関係性と貿易 日本国王足利義満

ここで、この段階での日本と明との関係をご説明したいと思います。

今回義満が明との間で築いた関係は、横の関係ではなく縦の関係です。要するに同盟国や友好国ではなく、従属国です。日本の国王として「認めてもらう」代わりに、明の臣下となって貢ぎ物を渡す関係を「冊封」といいます。

当時の明は圧倒的に強い国家であったため、同盟関係にある国などありませんでした。そのため明との関係を築こうとすると「冊封」されるしかなかったんですよね。当時の朝鮮王朝も、日本と同様に「冊封関係」となっています。

明はそれほど拡大志向のある国家ではなく、また従属国に対して兵役などのデメリットを与えることはありませんでした。毎年「朝貢」という明に対しての貢物は義務としてあったのですが、この「朝貢」には必ず返礼があり、実のところこの返礼は貢ぎ物として渡した物の何倍もの価値がありました。つまり明に貢ぎ物を毎年渡しているとなぜか儲かる、といった仕組みだったんですね。この仕組みは明の国力を示す行為だったのでしょうが、それにしても冊封国にとっては旨味しかありません。ここに目をつけた義満は、是が非でも明との国交を成立させたかったんですね。

ちなみに「朝貢」という建前で始まった明との貿易は、「勘合貿易」と呼ばれます。一枚の板に文字を書き、そして割ります。そして日本側と明側がお互いに片方ずつを持ち、それが一致した場合のみ貿易を行うという仕組みですね。よほどモグリの貿易商人が多かったのでしょう。それほど利益のある貿易だったとも言えます。

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北山文化

義満が作った建築物では鹿苑寺金閣がとても有名です。様式としては武家様式と公家様式、さらに禅宗の要素を採り入れたものとなっており、どちらかと言えば豪華で派手な造りになっているのが特徴的です。こういった様式は「北山文化」と呼ばれます。

夜の清水寺舞台

また芸能面でも、能役者である観阿弥・世阿弥の親子を庇護し、能の発展に尽力しています。

自ら「上皇」になろうとするが

すでに義満は幕府に対しても朝廷に対しても、頂点にいることを自他共に認めるほどの人物でした。

そんな中で次に義満が考えたことは、義満自身が「上皇」となることでした。義満は上皇になるため、朝廷内の有力者に片っ端から働きかけます。

上皇とはそもそも、天皇が他の皇太子に天皇位を譲った時に受ける尊号です。義満は天皇でもなんでもないため、そもそもの条件を満たしていないんですよね。そういった事情からさすがの義満でもということで、義満の提案は受け入れられることはありませんでした。

ですがそんな無理なことを思いついてしまう程に、義満の功績は大きかったのだと筆者は思っています。そんな義満の無理な想いは、義満の死後にある意味叶えられることになります。

足利義満死去

義満が51歳の頃に、病気で危篤状態になってしまいました。

義満危篤の知らせはすぐに知れ渡り、すでに将軍職を継いでいた4代将軍義持や管領などによる、大掛かりな祈祷が何度と無く行われました。

ですが危篤状態になってから2日後に、偉大な功績を残した足利義満は死去しました。

義満が生前に望んでいた上皇の尊号は、義満が死去してから朝廷から贈られています。これを受けた4代将軍義持や管領斯波義将らは、先例がないことであるため辞退しています。

幕府としてはあまりにも大事であるため受ける訳にいかない話ではありますが、もし義満が上皇の位を贈られたことを知ったら、きっと大いに喜んだことでしょう。そして義満死後の室町幕府は、ゆっくりと衰退していくことになります。

足利義満のまとめ

今回は3代将軍・足利義満についてご説明しました。日本史上でも稀に見るほどの功績を残した義満は、多くの英雄が歩んだ破滅への道を辿らず、静かに生涯を終えています。もちろん多くの苦労があったのでしょうが、それにしてもここまで円満な最後を迎えた偉人も珍しいですね。

足利義満個人の記事を本編で書くのもどうかとは思いましたが、義満のしたことがこの時代の日本史の流れそのものであるため、本編に含めさせて頂いています。

次回の記事では、義満以後の将軍たちを紹介したいと思います。。

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