今回の記事では、幕府による元寇の経済的な打撃の回復策と、幕府が滅亡していくまでをご説明したいと思います。
貧困にあえぐ御家人を救済!「永仁の徳政令」
当時の武士は自前で戦います
当時の常識というか慣習として、武士が出陣する際の費用は自前というのが一般的です。まあ勝った際にはその見返りとして土地という恩賞にありつける訳で、このことを現代風にすれば投資といった言葉になるのでしょうか。これがいわゆる「御恩と奉公」という関係であり、土地を介して主従関係を結ぶ封建制度の根本でもあります。
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元寇で貧困化した御家人
ところが「元寇」はただの防衛戦でしかなかったので、死にものぐるいで戦った御家人たちにも恩賞なんかありません。これまでの国内戦でも「戦に勝つ→謀反人の土地を奪う→その土地を山分け」という図式が成立していたのですが、言ってしまえば元寇はただ守っただけですので、山分けする土地なんかある訳がないんです。
つまり執権北条氏、及び鎌倉幕府サイドからすれば恩賞を出せない状況だったのですが、それは当時の武士たちにとって納得のいく状況ではなかったでしょう。しかし、武士達は土地をもらうアテがあったからこそ借金をしてでも戦場に臨んでいたのですが、それで恩賞がないとなれば困窮してしまうのも当然ですよね。
お金に困った御家人は土地を売る
また御家人自身も困窮してはいたものの、もちろん兵として戦ってくれた郎党に対して報奨を渡す必要がありました。とは言え戦費は持ち出しなのですでに家計は火の車、その上で郎党の家族も養うというのは二重苦という言葉が相応しい気がします。もともと鎌倉幕府からの報奨をアテにして戦っていた訳で、それがないとなればニッチもサッチもいかないのが当然ですよね。という訳で御家人達は「毎日を生きる」という課題に対し、何かしらのアクションを起こす必要に迫られました。
とは言えそもそも戦いと名誉こそが武士の本懐というやつであり、商売なんかそうそうできず、何かを売るしかなかった訳です。そんな武士達が持つ財産と言えば大体「武具」「馬」「土地」になりますが、「武具」や「馬」を手放せば「土地」の防衛すらままなりません。ということで最初に手放すべきは「土地」になりますが、「土地」を失えば翌年の収入は当然減ってしまうため、これでは将来的な希望が全くない自転車操業ですよね。
救済策のはずの「永仁の徳政令」でしたが
こういった事態を重く見た9代執権・北条貞時は御家人達の救済に動き、「永仁の徳政令」を全国的に発布しました。この「徳政令」は「土地売買に関する訴訟を受け付けない」、「以前に売られた土地を御家人に返す」といった内容が盛り込まれていましたが、要するに経済的に困窮していた御家人達を強制的に助けたということですね。
ですがこの法令を金貸し側から見れば、「買った土地は取り上げられ、なおかつ訴訟すら受け付けてもらえない」というあまりに酷い内容な訳です。御家人の借金が帳消しということは、金貸しからすれば貸した分だけ丸損、しかも訴えすら聞いてもらえないのですから次は貸せませんよね。という訳で、この「永仁の徳政令」では金貸し達が泣きを見て一応終わりはしたものの、御家人達にとっては「次はもうお金を借りることができない」という状況が残されてしまったことになります。
室町時代まで続いた「元寇」への防備態勢
御家人達にとってちょっとだけ困窮が和らいだ「永仁の徳政令」ではありましたが、実はまだまだ出費の原因が解消していません。というのも元寇は1274年「文永の役」、そして1281年「弘安の役」の2回で終わっていますが、日本側はまだまだ元の襲来に対する防衛体制を続けていたからです。
この防衛に当たる役割は「異国警固番役」と呼ばれていましたが、実は鎌倉幕府が滅びた後まで続いており、室町幕府も初期の段階では引き続き同様の体制を敷いていました。このことは当時の日本人がいかに元軍の襲来を恐れていたかという証拠ではありますが、実際に防衛に当たる武士の懐事情はまた別問題です。
人々の気持ちが幕府から離れていく
御家人達は大切な土地を切り売りしながらギリの生活を送っていましたが、実はその間も北条一族の領地は増え続けていました。これは反乱を起こした御家人を倒して土地を奪ったという流れですので、一応ではありますがスジが通っている話ではあります。とは言え「永仁の徳政令」が発布されても状況が全然改善しない御家人としてみれば、自分や家族が苦しい思いをしている中でリッチになり続ける北条氏を良く思わないのも道理でしょう。当然そんなことをしていれば、幕府を支持する人はどんどんと減っていきます。
結局「永仁の徳政令」は御家人達の経済的な困窮を根本から解決することはできず、ただの一時しのぎにしかなりませんでした。鎌倉幕府としてもその辺の事情は理解していたようで、機会があるごとに徳政令で御家人達の救済を図っています。とは言えこんな頻繁に徳政令が出る状況で金を貸す金貸しなんかそうそういない訳で、救済策であるはずの徳政令は回を重ねるごとに効力を失っていきました。そんな武士も商人も不満を抱えた時代がしばらく続いた後、ついに鎌倉幕府を倒そうという人物が現れます。
鎌倉幕府を打倒せよ!元弘の乱
1度目の倒幕運動?正中の変
「元寇」が終わって大体40年後の1318年、京都の朝廷では第96代の天皇として後醍醐天皇が即位しています。鎌倉時代末期頃から朝廷内は派閥争いが激化しており、「大覚寺統」と「持明院統」という皇族による2つの派閥で天皇位を巡って争いを続けていました。今回の主役・後醍醐天皇は「大覚寺統」に属していた人物だったのですが、この「大覚寺統」が持つ政治構想は「日本は朝廷が動かすべきでしょ」だったため、そりゃ鎌倉にある武士政権なんか認められませんよね。
という訳で無事に即位した後醍醐天皇は「大覚寺統」の政治路線を貫こうとしましたが、天皇になった後も鎌倉幕府の批判を続けてしまい、当然のごとく幕府によって捕縛されてしまいました。ところがこの時は冤罪、つまり他人の罪を着せられたとして扱われたため、後醍醐天皇自身はお咎めなしで替わりに側近が島流しとされています。
この一連の冤罪事件を指して「正中の変」と呼ばれますが、この時実際に後醍醐天皇が倒幕を計画していたかは分かりません。まあ幕府からすれば公然と批判を続ける後醍醐天皇に対し、「あんま調子コカンとけ」くらいの牽制だったのではないでしょうか。
後醍醐天皇の倒幕計画と流罪
どのタイミングからかはわかりませんが、正中の変後に後醍醐天皇が実際に倒幕を計画したことは間違いのない確かなことです。ですがここでの倒幕計画は、側近の裏切りによって幕府にバレてしまいます。
幕府は後醍醐天皇を捕まえようと軍勢を送りますが、後醍醐天皇はこのピンチに女装をして脱出し、さらに幕府打倒の挙兵をしました。この挙兵の呼びかけに応じた人の中に、楠木正成もいます。
幕府は後醍醐天皇の挙兵に対して足利高氏や新田義貞の討伐軍を送り、順調に征伐を進めていきました。そして最後に残ったのは楠木正成の守る城だけとなりますが、ここで幕府軍は苦戦することになります。ですが最終的に幕府軍が勝利し、楠木正成と後醍醐天皇の皇子である護良親王は逃亡し、後醍醐天皇はまたも捕縛されました。
そして後醍醐天皇は天皇の座から降ろされた挙げ句に隠岐島に流罪となり、ひとまずの決着が付きました。
楠木正成と護良親王の再始動
正中の変によって後醍醐天皇は隠岐島への流罪に処されはしたものの、楠木正成と護良親王は諦めずにチャンスを伺っていました。もちろん後醍醐天皇との約束があった可能性もありますが、流刑に処された人物を信頼し続けたのは相当なメンタルの持ち主な気がします。楠木正成は河内国(大阪府東部)の千早城で挙兵し、そして同時期に護良親王も他所で挙兵、鎌倉幕府に対する連携の取れた宣戦布告でパニックを誘いました。
もちろん鎌倉幕府にとって倒幕の挙兵なんて許せるはずもないのですが、まずは楠木正成を始末しようということで大軍を送り討伐に向かいました。この時の幕府軍は25,000もの大軍を用意しており、それに対して千早城の守備隊は1,000にも届かず、しかも周囲に味方なんて全くいない完全に孤立した状態です。と言うわけで幕府軍は一気呵成に千早城を攻め立てますが、そこは後に軍神とまで謳われた楠木正成、策略の限りを尽くして猛攻をしのぎ続けました。開戦前はすぐにカタが付くと思われたこの戦いはなんと90日も続き、楠木正成が奮闘し続けるにつれてじわじわと反幕府勢力が動き出しています。
各地で起きる反乱と裏切り
楠木正成が粘り続けていることを聞きつけ、各地で一気に反乱が起きました。そして隠岐島に流罪になっていた後醍醐天皇も、反乱軍に合流して全国に倒幕を訴えかけました。
最初は幕府軍として反乱討伐に向かっていた足利高氏も、すでに後醍醐天皇側に付いていた新田義貞と合流し幕府に反旗を翻しました。他の幕府御家人達も次々と後醍醐天皇側に付き、どんどんと勢いを増していきます。
まず朝廷を監視するために置かれていた幕府の六波羅探題が攻め落とされ、そして後醍醐天皇側の軍勢は鎌倉に迫りました。
もはや幕府軍は連戦連敗で、日を追う毎に追い詰められていきました。そして後醍醐天皇の軍勢に追い詰められた16代執権北条守時や、幕府の中核を担っていた北条一族や御家人は自害し、後醍醐天皇側の勝利となりました。
鎌倉幕府の滅亡
執権北条守時を始めとした北条一族が滅び、そして鎌倉幕府を継ぐ人物がいなくなったことで鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉時代まとめ
鎌倉幕府滅亡の年号は1335年です。鎌倉幕府の成立が1185年なので、ちょうど150年間続いたことになります。
150年という数字が長いのか短いのか筆者にはわかりませんが、日本で初めてできた武家政権として大変な偉業だったと考えています。前例のないことだらけで手探り状態であったにも関わらず、後に続く室町幕府も多くの施策を真似ています。
もちろん初代将軍である源頼朝の血が絶えてしまったことや、多くの御家人をあの手この手で根絶やしにしてきた北条一門の暗躍も見過ごすことはできません。ですが北条氏は執権として勢力を拡大し、朝廷まで影響下に置いていた手腕は凄まじいものがありますよね。
最後はその朝廷によって滅ぼされてしまうのが、平家物語にあるような栄枯盛衰を感じますね。
まとめ
今回は鎌倉幕府の滅亡までをご説明しました。
鎌倉時代の次は南北朝の争いになるのですが、次回の記事では鎌倉時代の豆知識をざっくりと披露したいと思います。ぜひご覧になってください。
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