鎌倉時代1 鎌倉時代の始まり | 源頼朝による鎌倉幕府成立

鎌倉時代の時代史

日本初の武士政権・鎌倉幕府の成立

ただの地方政権から徐々に肥大化した鎌倉幕府

鎌倉時代という言葉から受けるイメージといえば、鎧兜を纏った騎馬武者が偉そうにしている「武士の時代」ではないでしょうか。鎌倉幕府が成立して以降の日本史といえば、登場人物の大半は武士となり、平安時代まで猛威を振るっていた貴族や皇族は鳴りを潜める格好となっています。

鎌倉時代のまとめ記事はこちらからどうぞ。

ですが鎌倉幕府が日本全国を管理下に置き、外交にまで口を出すようになったのは1,221年の「承久の乱」以降でしかありません。当初は関東の一勢力くらいだったところ、鎌倉幕府は段階を踏みながら日本全国に支配域を広げていきました。今回の記事では鎌倉幕府が成立したキッカケとされる「文治の勅許」、そして源義経と奥州藤原氏が滅亡する場面をご説明したいと思います。

源頼朝が守護・地頭の任命権を得た「文治の勅許」

源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱で平氏政権が滅亡していますが、この段階での源頼朝はあくまで一地方の有力者でしかなく、まだまだ反対勢力も多くいました。そのため平氏滅亡後も各地で反乱が起きていたのですが、その全てに対して関東から出陣するのはなかなか難しいというか、ちょっと無理がありますよね。

またこの頃、源頼朝の弟・源義経が「反乱を企てている」という噂が出回っていたようなのですが、それを鎮圧・阻止するために各地に軍を置いておきたい、という事情もあったようです。という訳で、源頼朝は朝廷に守護地頭の任命権の許可を申請、この時に得た「文治の勅許」こそが鎌倉幕府成立の契機とされています。

後世に勝手に命名された「幕府」

ちなみに現代では一般的に「鎌倉幕府」という呼び方が使用されていますが、鎌倉時代当時には「幕府」なんて単語は日本に存在していません。この単語が日本で使われ始めたのは実に江戸時代であり、明治時代頃にようやく一般化しており、御家人以外からはかなりざっくり目に「関東」や「鎌倉」なんて呼ばれ方だったそうです。また幕府に所属していた御家人達も別段変わった呼び方はせず、地名に敬称が付いただけの「鎌倉殿」という呼称を用いていました。

一応こちらの記事でも「幕府」についてご説明しております。

源義経と奥州藤原氏を討伐!奥州合戦

奥州合戦が起きた背景

罪人の源義経が奥州へ逃亡

一方、「文治の勅許」が出されて日本中に居場所がなくなった源義経ですが、子供の頃に縁があった「奥州藤原氏」の元へと逃げ延びました。本来であれば源義経を匿っているだけで罪人扱いされそうなのですが、当時の当主・藤原基衡(もとひら)は源義経を歓迎したようで、むしろお客さん以上の待遇で迎え入れたようです。しかも藤原基衡は相当に源義経を気に入っていたようで、子供の藤原泰衡・藤原国衡に義経の臣下になるよう命じていたりします。

実は源頼朝は治承・寿永の乱の折に奥州藤原氏に援軍を要請していますが、東北での独立を志向していた藤原基衡はこれを却下したという経緯があります。つまり源頼朝からすれば奥州藤原氏は「大事な時に手伝ってくれなかったヤツ」な訳で、逆恨みではあれど悪感情を抱いていてもおかしくはなさそうですよね。そんな奥州藤原氏の元に捕縛対象の源義経が逃げ込んだわけですから、源頼朝にとって一石二鳥のカモネギ状態でしかありません。という訳で源頼朝は東北攻略を検討し始めますが、相手は源平合戦の英雄と日本有数の金持ちということで、まずは一計を案じて内部からの切り崩しを図りました。

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源頼朝の命令に屈した藤原泰衡

まず頼朝は朝廷から、奥州藤原氏に義経を討ち取る命令を出させます。その命令を一度は拒否した藤原泰衡でしたが、源頼朝は次に奥州藤原氏を討ち取る命令を全国に出したんですね。これを恐れた泰衡は、やむなく義経の首をとって頼朝に送りつけています。

源義経の首を差し出しても攻められる

源義経の首を送って一安心していた藤原泰衡でしたが、残念ながら源頼朝はそんな生易しい人ではありません。源頼朝は源義経を討ち取るよう藤原泰衡に要求していたはずなのですが、今度は「家族である源義経を討った報復!」を理由にして奥州に侵攻を開始しました。冷静に考えればメチャクチャな理由ではあるのですが、源頼朝にとって安心して奥州を攻撃できる環境が整っただけであり、むしろプラン通りだった感すらあります。

また鎌倉御家人としてもこの戦いは忠誠心を示す良い機会ということで、各人とも功を争うように苛烈な攻撃を仕掛けています。源頼朝の侵攻に対して藤原泰衡は一応の抵抗を試みていますが、圧倒的な物量を持つ幕府軍の前にはやはりひとたまりもなく、わずか3日の戦いであっという間に敗北しました。京都から遠く離れた東北の地で栄華を誇った奥州藤原氏ですが、ここで源義経の巻き添えを食ってあっけなく滅亡しています。

源頼朝が奥州征伐で得たもの

まずひとつは、東北地方の有力な勢力である奥州藤原氏を滅ぼし、広大な土地が手に入ったことです。これによって東北地方にも幕府側の守護や地頭が多数配置され、幕府は領土を拡張することができました。

そしてもうひとつは、幕府の味方にならない武士を処罰できたことです。この戦いの際には、頼朝は全国の武士達に兵を出すように要求しました。要求の通りに兵を送ったところもありましたが、兵を送らなかった武士もいたんですね。奥州合戦後に兵を送らなかった武士は、参戦しなかったという理由で領地の没収という、非常に厳しい処罰を受けています。

鎌倉時代の最初期のまとめ

こうして奥州合戦によって、鎌倉幕府は東北にも統治権を行使するようになりました。

命令に従わなければ領地没収という幕府からのメッセージは、幕府の支配力を強めはしたものの、数々の反乱が起こる火種ともなっています。次回記事では源頼朝亡き後、2代将軍・源頼家と御家人達による熾烈な権力争いの場面をご紹介しています。是非ご覧になってください。

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