戦国時代7 信長包囲網 | 織田家の周りは敵だらけ

三方ヶ原の戦いでの徳川家康 戦国時代の時代史

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今回の記事では、浅井家朝倉家の連合軍を倒して勢いに乗る織田信長に対して、諸大名が連合を組んで立ち向かう場面をご説明いたします。

それでは織田信長が姉川の戦いに勝利した後の場面から見ていきましょう。

信長包囲網の構築

再び登場の三好三人衆

織田信長が上洛を果たした際に敗れた三好三人衆は、三好氏の本拠地である四国から京都奪還の機会を伺っていました。とは言え姉川の戦いに勝利した織田信長はすでに圧倒的強者であり、中規模勢力の浅井長政・朝倉義景が束になっても敵わなかった訳です。三好三人衆とて織田信長の実力は重々承知していたようで、単体ではなく他の勢力と連動して織田信長に挑もうとした訳です。

時は遡って姉川の戦いの真っ最中、摂津国(大阪府北西部)では織田家に味方していたはずの武将が三好氏と内通、城主を追放して三好氏につくという事件が起きます。そしてこの城を足掛かりに三好三人衆は本州に再上陸、京都奪還のために摂津の城を次々に奪っていきました。

攻勢に出れば背後を突かれる

姉川の戦いに勝利した織田信長は改めて三好三人衆の討伐に向かいますが、すると浄土真宗の本願寺顕如が信徒を率いて織田軍に攻撃を始めました。そしてこの織田信長の劣勢を見た浅井長政と朝倉義景が復活を遂げ、北陸方面から京都侵攻のために軍を派遣しています。

織田軍は三好家に加えて本願寺勢力が出現したことで、森可成(よしなり)といった古参の武将を何人も失う程の苦戦を強いられています。その上で浅井朝倉の連合軍を迎撃する余力などなく、もはや摂津国を諦めて京都防衛に専念する他はありませんでした。

気付けば周囲は敵だらけ

北陸から京都に迫っていた浅井・朝倉の連合軍でしたが、織田信長が京都に帰還していることを知るとすぐに方針転換、直接の激突を避けて比叡山延暦寺に立て籠もりました。一方の浄土真宗の本願寺顕如は伊勢(三重県北部)の一向一揆を扇動し、ここで織田軍は信長の弟が討ち取られるなど大きな被害を受けています。

この時の織田信長は北に浅井・朝倉と比叡山の寺社勢力、西には三好三人衆と浄土真宗の本願寺顕如、そして南にも浄土真宗の一向一揆という敵を抱え、領土をスッポリと包囲される格好となってしまいました。となれば、各地の戦線を維持するために兵力を分散することになり、撃破するためのまとまった戦力を持てなくなったという訳です。

しかも、さらに続々と反織田の意志を表明する勢力が現れ、着々と信長を追い詰める包囲網が出来上がっていきます。

信長包囲網

困った時は話し合い

自国の周囲を敵に囲まれる形となった信長は、軍事力よりも外交による打開を選びました。

まずは敵対勢力の中で最も手強い浄土真宗の本願寺顕如との和睦を図り、これをなんとか成立させました。また浅井・朝倉の連合軍に対しては将軍義昭に調停の依頼を出し、これには室町将軍・足利義昭が取り成す形をとり、こちらも軍を引き上げさせることに成功しています。残った三好三人衆も次々と共闘する味方がいなくなったことで勢いを失い、攻撃に移る前に軍を引き上げていきました。その他の勢力にも松永久秀が和睦の仲介として駆け回ったお陰で、結局ここでは織田信長は大した被害もなく包囲網を崩すことに成功します。

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第二次信長包囲網

比叡山焼き討ち

包囲網をしのいだ織田信長は勢いを取り戻して浅井家の城を攻め取り、また伊勢でいまだ燻っていた長島一向一揆を鎮圧するなど、すぐに軍事行動を再開しました。

そして包囲網が解けた後もまだ敵対を続けていた比叡山延暦寺に対して、和睦の使者を送ります。ですが信長への猛烈な敵対心を隠そうともしない延暦寺はこの和睦の提案を拒否し、なおも抵抗を続けていました。

再三に渡る勧告を拒否された信長はここで比叡山延暦寺への攻撃を決断し、延暦寺を包囲して山に火を放ちました。比叡山延暦寺にはお堂や鐘楼など、多くの建築物がありましたが全てここで焼失し、現代に残っているのはこの後に建て直したものとなります。また僧兵だけでなく武装していない僧侶まで殺害し、延暦寺の完全な無力化を図りました。

以前の記事でもご説明していますが、この時代の大きな寺院は僧兵という兵を雇い入れており、決して平和的な団体ではなく大きな武力を持った軍事勢力です。延暦寺には4千もの僧兵がおり、信長としてはこの勢力を立派な敵として見なしていたのでしょう。ですが現代人と同様に、むしろそれ以上にこの時代の人々は信心深く、寺院を焼き討ちしたという悪評は後々まで信長につきまとうことになります。比叡山焼き討ちについて掘り下げた記事は、こちらからどうぞ。

足利義昭と織田信長の関係悪化

ともあれ京都付近の敵対勢力だった延暦寺の寺社勢力を滅ぼした信長は、北近江の浅井長政への攻勢を強めます。浅井長政の居城である小谷城を包囲し、睨みを効かせながら攻めるタイミングを伺います。順調に拡大を進める織田信長に対して、将軍足利義昭は不満を募らせていました。

一度目の包囲網では信長を助けた足利義昭でしたが、この頃から信長との関係が完全に悪化します。信長の監視が相変わらず続く中でコッソリと全国の大名と連絡をとっていた将軍義昭は、信長の代わりとして義昭自身を守り立ててくれる大名を探していました。

そんな中で甲斐(現在の山梨県)の武田信玄から、京都へ攻め入って義昭を守り立てるという内容の返事を受け取ります。甲斐で強大な軍事力を持っていた武田信玄が味方についたことにより、ここで将軍義昭は信長と連携する路線を捨てて武田信玄と連携することを決意します。

松永久秀の離反

足利義昭を将軍に就任させた頃からほぼ信長の配下(実際は幕臣)として動いていた松永久秀でしたが、ここで突然織田信長の元から離反します。足利義昭と領土の境界でモメた上での離反だったため、義昭のバックにいた信長にも離反したという形になります。ですが武田信玄と書状のやり取りがあったという形跡もあるため、状況を見た上で織田信長が武田信玄に敗れることを予想しての離反だったのかもしれません。

そして三好義継や三好三人衆から軍を引き継いでいた篠原長房とともに、織田家についていた京都近辺の勢力を攻撃し、京都に信長を釘付けにします。

松永久秀・荒木村重、そして本能寺の変を起こした明智光秀の裏切りトリオについてはこちらから。

三方ヶ原の戦い

ここで将軍足利義昭の要請を受けた武田信玄は、京都に上洛するための道として東海道を選択します。武田軍は3万もの大軍をもって信濃(現在の長野県)から遠江(現在の静岡県西部)に侵入し、まずは徳川家康の居城・浜松城を目指します。武田信玄による織田領への侵攻をなんとしても食い止めるため、京都を守備していた織田信長も援軍だけは浜松城へ送り出しました。

三方ヶ原の戦いの頃の中部地方

武田信玄襲来の知らせを聞いた織田家の同盟相手である徳川家康は、戦上手で名高い武田信玄との野戦は避け、当初は浜松城での籠城戦の構えをとっていました。ところが武田軍の進路が浜松城を無視して西に向いたとの報告を受け、武田軍の背後から奇襲をかけるために浜松城から出撃します。三方ヶ原あたりでの奇襲を考えていた家康でしたが、いざ着いてみると武田軍が万全の態勢で待ち伏せており、2時間程の戦闘の中で有力な武将を含め多くの死傷者を出して浜松城へ敗走しました。

徳川軍の死傷者2000人に対して、武田軍は200人程だったといいます。家康本人が討ち取られなかったことは不幸中の幸いでしたが、完敗とも言える敗北を喫し、武田軍はほぼ無傷のままとなった軍で遠江の各城を攻め落とします。

三方ヶ原の戦いに至るまでの、織田家と武田家の関係についてはこちらからどうぞ。

足利義昭の挙兵

ここまで表面的には織田信長と友好な関係を続けていた足利義昭は、三方ヶ原での武田信玄勝利の知らせを聞くと、ついに京都の二条城で自ら反織田の挙兵をします。その頃には美濃で武田対策のために動いていた信長は、将軍義昭へ和睦の使者を何度も送ります。ですが武田信玄が絶好調のため強気な将軍義昭は、信長からの和睦の提案を全て拒絶します。放っておくわけにもいかないため仕方なく京都へ軍を向けた信長は、将軍義昭のいる二条城を包囲攻撃し始めます。

ここで時の天皇である後陽成天皇から、幕府将軍と幕府の重臣(まだ信長は建前上では幕臣扱いです)の間での争いは避けるよう調停が入り、一旦は両者ともに和睦を受け入れます。ですが足利義昭の動きは止まらず、浅井・朝倉や本願寺といった信長の敵対勢力に兵を挙げるよう要求し、また松永久秀などを巻き込んで反織田の包囲網を自らの手で作り上げていきます。

まとめ

今回の記事では、拡大を続ける織田信長に対して各勢力が連合を組んで立ち向かっていく場面をご説明しました。

次回の記事では、織田信長が足利義昭を京都から追放する場面や、宿年の敵である浅井家・朝倉家を滅ぼす場面をご説明します。

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