織田信長の妹・お市の方 | 戦乱に翻弄された浅井三姉妹の母

お市の方イラスト 安土桃山時代の人物録

今回の記事では、織田信長の妹・お市の方についてご説明したいと思います。

お市の方は戦国時代の女性としてはかなりメジャーな方ではありますが、当時は女性についての記録を残す慣習自体がほぼなく、お市の方の記録もほとんど残っていません。という訳で、この記事では織田信長や浅井長政といった人物と関連する内容で、できるだけお市の方にクローズアップした内容をお伝えしたいと思います。

お市の方が浅井家に嫁入りするまで

京都上洛に必要だった同盟

まずお市の方が歴史の表舞台に登場する場面と言えば、織田信長と浅井長政が同盟を結んだ辺りからとなります。当時の織田信長はと言えば、足利義昭を将軍に据えるべくして京都への上洛を目指していましたが、そのためにはどうしても南近江(滋賀県南部)を通過する必要がありました。

織田信長の京都上洛への道

まあ南近江の六角氏は倒すとしても、その際に北近江(滋賀県北部)の浅井長政に邪魔されたくはありませんよね。またいざ南近江を抜けたとしても、本拠の美濃国(岐阜県南部)への帰還の際にも浅井長政の動向が重要ということで、信長としてはもうマストレベルで同盟したい相手だった訳です。

同盟強化のために浅井長政と婚姻

とは言え浅井家は元々六角氏と縁が深く、織田家との同盟の話が出てくる前には六角氏の女性を妻として迎える段取りが整っていました。そこに織田信長は無理やり同盟と「お市の方」との婚姻話をねじ込んだのですが、浅井長政は六角氏と勢い絶頂の信長を比較したのか、結局織田家との同盟を選ぶことになります。

そんな経緯があったため、同盟受諾の返答を受けた織田信長は大喜びし、満面の笑顔で「お市の方」を送り出しました。実は当時の慣習として夫が婚姻費用を負担するのが通例だったのですが、この時の織田信長は全ての費用を用立てているため、まあそれ程に価値のある同盟だったのでしょう。

浅井長政婦人・お市の方肖像
浅井長政婦人・お市の方肖像

柴田勝家との再婚とその後

離反してもお市の方をかばった浅井長政

織田信長が京都でぶいぶい言わせていた頃、突如として浅井長政は織田家からの離反を決意しました。そしてやっぱり古くからの交友があった朝倉家と結託し、金ヶ崎の戦いにて織田信長をあと一歩のところまで追い詰めますが、羽柴秀吉の活躍もあり信長は命からがら逃げ帰っています。

実はこの後の浅井家では、「お市の方と子供たちを処刑して織田家の勢いを削ぐ」なんて意見が多数を占めていたといいます。ですが浅井長政はこの乱暴な意見を全面的に拒否しており、これまで通りお市の方との夫婦生活を続けています。

小谷城から脱出したお市の方

織田信長から離反した浅井長政はジリ貧状態に陥り、結局は朝倉氏と共に滅亡への道を辿りました。とは言え浅井家の本拠・小谷城が陥落する直前にお市の方と子供たちは開放され、無事に織田陣営へと送り届けられています。

この時のお市の方は2人の女児と2人の男児を連れており、また3人目の娘をお腹に宿していました。織田信長は戦国の習いとして男児は処刑しましたが、お市の方と自身の姪となる女児達は処刑せず、終戦後に岐阜城へと一緒に連れ戻っています。その後の信長は弟にお市の方と3人の娘を預け、かなり贅沢三昧の手厚い待遇で保護することとなりました。

織田家の宿老・柴田勝家との再婚

織田信長の弟の下で10年近く静かに過ごしていたお市の方と娘達でしたが、1582年に本能寺の変で信長が横死するとお市の方にも転機が訪れます。

落合芳幾:太平記英雄伝十三 柴田勝家
落合芳幾:太平記英雄伝十三 柴田修理亮勝家

豊臣秀吉が本能寺の変の首謀者・明智光秀を討ち取った後、尾張国・清州城に織田家の重臣が集まり今後の方針について会議が行われました。この「清須会議」ではお市の方についても言及され、豊臣秀吉や他の重臣達の同意があったこともあり、織田家の筆頭家老・柴田勝家がお市の方を正妻として迎えることで決定しています。

というのもお市の方は織田家の中でも有名になる程の美人だったようで、もともと家臣達の間でアイドルのような存在となっていました。そのため女好きで有名な豊臣秀吉を始めとして、誰もが内心お市の方を狙っていたのでしょうが、これまでひたすら独身を貫き通した(妾はいたようですが)柴田勝家が希望を通したことになります。

清州会議についてはこちらからどうぞ。

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柴田勝家と共に自害したお市の方

清州会議で急遽再婚が決まったお市の方ですが、その後は3人の娘とともに柴田勝家の領土・越前国(福井県中東部)で新生活を始めますが、半年もたたぬ間に豊臣秀吉との戦争が始まってしまいました。柴田勝家は前田利家や滝川一益と組んで抗戦を試みますが、大規模な合戦となった賤ヶ岳の戦いでは前田利家が戦わずして撤退、戦線が崩れてしまった柴田軍は大敗北を喫してしまいました。戦いに負けた柴田勝家は居城である北ノ庄城まで撤退しますが、アテにできる援軍などどこにもいない中、羽柴軍は慎重に、そして静かに包囲を狭め続けました。

北ノ庄城は石垣や堀だけ現存しています

北ノ庄城は孤立無援のまま完全包囲されてしまったため、この時の柴田勝家が持つ選択肢は「どんな最期を遂げるか」くらいしかなかったでしょう。とは言え柴田勝家は家族まで死なせるつもりはなかったようで、羽柴秀吉に対してお市の方の3人の娘を助けるよう頼み込み、秀吉はこの願いを快く聞き入れています。また秀吉からはお市の方の保護も提案があったようですが、お市の方は「夫と2度も死に別れるのは嫌だから」という理由で提案を拒否しました。そして柴田勝家は北ノ庄城に自ら火を放ち、最後の僅かな時間を夫婦で過ごした後に亡くなっています。

賤ヶ岳の戦いについてはこちらからどうぞ。

お市の方の3人の娘・浅井三姉妹

北ノ庄城から脱出した3人の姉妹は羽柴秀吉に保護され、美形で名高かったお市の方の面影を持った美人へと成長しました。この3姉妹は幼い頃に父・浅井長政が亡くなり、次いで継父と実の母を失うという過酷なスタートを切っていますが、成長した後にもそれぞれ数奇な運命を辿っていくことになります。

長女の茶々は母と死に別れて数年後に豊臣秀吉の側室となり、豊臣家の後継者となる秀頼を出産します。次女のお初は浅井家と血縁関係のある京極高次の正室に、そして3女の江は江戸幕府3代将軍・徳川家光を通して将軍家に血筋を残し、そして天皇家にまで血筋を残すことになります。この3人の娘達に関しては、またそれぞれ別記事で掘り下げてご説明したいと思います。

浅井三姉妹それぞれをあっさり目に紹介している記事はこちらから。

長女・茶々についての記事はこちらからどうぞ。

末っ子・江与(崇源院)についての記事はこちらからどうぞ。

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