室町時代1 室町幕府ができるまで | 足利尊氏流浪の果てに

夜明けの富士山 室町時代

足利尊氏の活躍によって鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇による朝廷の中央集権体制が始まります。

この期間を室町時代には含まずに「南北朝時代」とするのが一般的ですが、便宜上室町時代における最初の場面とさせていただいています。かなり短いですからね。

また、「応仁の乱」が起きて以降はほとんど幕府として機能していないため、「応仁の乱」までを室町時代としており、それ以降は戦国時代としています。どこまでが室町時代かという解釈は資料によって違うため、このブログでは筆者が勝手に「応仁の乱」までとしています。資料によっては15代将軍足利義昭が追放されるまでを室町時代としているため、読者の方々にはご了承の程お願いします。それくらい後半の室町幕府は存在感がないんです。

鎌倉時代に比べると出来事の数が少ないですが、やっていることは鎌倉時代とあまり変わらず御家人同士の争いは絶えません。

そして3代将軍足利義満が登場するまでは南北朝の争いがあるため、実際に日本がひとつになったと言える状態は70年少々といったところです。最初からバタバタし続け、少し安定した後に「応仁の乱」でほぼ無力化し戦国時代に雪崩のように突入、といった具合ですね。かなり儚い幕府と言えるかもしれません。

それでは出来事をひとつずつ追っていきましょう。

建武の新政

後醍醐天皇の政治理想

鎌倉幕府を滅ぼすことに成功した後醍醐天皇は、平安時代の「延喜・天暦の治」を理想としていました。「延喜・天暦の治」とは、天皇が自ら政治を主導して、摂関家による上位の官位独占がされていなかった時代の政治体制を指します。この「延喜・天暦の治」は朝廷による理想の治世という考え方があり、後醍醐天皇も「延喜・天暦の治」の再現をしたいと考えていたんですね。

理想とこの時代の現実

まずはそれまで天皇として在位していた光厳天皇を廃位し、自ら天皇に返り咲きました。

そして新たな貨幣を発行する計画を立てます。延喜年間には貨幣を作っていたため、それを真似しようとしたわけですね。ですがこの貨幣は実際に作られることはなく、計画倒れとなったようです。

そして元々鎌倉幕府の御家人たちが所有していた領地は、朝廷の許可なく所有できないという法令を全国に出しました。平たく言うと、鎌倉幕府が認めていた領地の所有権は新政府では認めないからキチンと朝廷に許可を取りに来い、という法令ですね。

さすがに武士の土地を取り上げようとはしなかったのですが、この法令が全国に出されたことで京都は武士達によってごった返し、全ての許可を出していたらキリがない状態になったため法令は撤回されることになりました。

すでに世の中は貴族中心から武士中心になっており、平安時代のような政治をしようとしても全く上手くいかなかったんですよね。武士の慣習に対しての理解が全然なかったために、新設された各機関では混乱が起きていました。

足利高氏改め尊氏

この建武の新政が始まって世間がゴチャゴチャしている頃に、鎌倉幕府を倒した功績として足利高氏は後醍醐天皇から一文字もらい、足利尊氏と名乗りました。

足利尊氏についての個人ページはこちらから

そして足利尊氏は鎮守府将軍に任命され、まずまずの出世を果たしていました。そんな折に北条氏の残党が鎌倉で動き始め、時代の流れも一気に変わることになります。

建武の乱

中先代の乱

鎌倉幕府の第十四代執権・北条高時の子供である北条時行が、旧幕府御家人と共に鎌倉幕府再興のために挙兵しました。

建武の新政では武士達の支持が全く得られていなかったため、不満を持っていた元幕府御家人達が多く参加していました。これに伴って北条家に縁のある武士達も一斉に挙兵し、建武の新政で鎌倉に置かれていた将軍府が陥落することになりました。

足利尊氏の出陣

この反乱を知った足利尊氏は、出陣の許可と征夷大将軍の位を後醍醐天皇に要請しました。ですが後醍醐天皇は足利尊氏の要請を拒否します。

そして足利尊氏は出陣の許可がないにも関わらず、勝手に鎌倉へ出陣してしまいます。この足利尊氏の動きに焦った後醍醐天皇は、慌てて征東将軍の位を送り、足利尊氏の軍が朝廷軍である体裁を無理矢理繕いました。

これは筆者の推測なのですが、足利尊氏に征夷大将軍の位を渡すのが怖かったのではないかと考えています。征夷大将軍と鎌倉の取り合わせは、苦労して鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇にとって苦い思い出しかなかったのでしょう。

そして足利尊氏は北条時行軍を破り、北条時行は脱走して行方知れずとなっています。

鎌倉で将軍みたいなことをする

北条時行を破った足利尊氏でしたが、そのまま鎌倉に居座り続け、さらに参戦した御家人達に対して勝手に領地の分配や裁判を行いました。鎌倉時代のページでもご説明しましたが、領地を分配する権利と裁判権というのは統治権とほぼ同等で、要するに鎌倉時代の将軍や執権と同じことをしていたんですね。後醍醐天皇は足利尊氏が将軍の真似事をしていることを知り、反逆とみなして元幕府御家人の新田義貞に討伐を命じました。

足利尊氏のやったことは、当時の感覚で言ったら国家反逆罪くらいの重犯罪ですから、後醍醐天皇の反応は当然といえば当然のことではあります。ですが建武の新政で立場がなくなり混乱していた武士達にとって、足利尊氏がしたことは信頼の置ける馴染みのあるものだったのでしょう。本当の朝廷軍である新田義貞が向かってきていることを知っても裏切る者はほとんどおらず、足利尊氏の軍は大きな力を持ったまま迎え撃つことになります。

そして足利尊氏は東海道から向かってくる新田義貞の軍を箱根で破り、京都へ進軍しました。

足利尊氏包囲網

足利尊氏は京都に向かいながら新田義貞討伐の院宣を得るために、後醍醐天皇に天皇の座から引きずり降ろされていた光厳上皇と連絡をとり始めます。これは足利尊氏が反乱軍ではなく、正当な軍であることを証明してもらうためのものでした。いくら武士達の支持があるとはいえ反乱軍になってしまうと、尊氏に従っている武士達も動揺して裏切る可能性が出てきてしまうからです。

そして足利尊氏が京都に近づいていることを知った後醍醐天皇は、比叡山にいた新田義貞や楠木正成と合流して機会を待ちます。この時東北と中部地方から後醍醐天皇側の軍が京都に向かっていたため、これらと一緒に3つの軍で足利尊氏を攻撃する作戦ですね。

後醍醐天皇側の軍から攻撃を受けた足利尊氏は、あっけなく大惨敗することになります。

足利尊氏九州から再スタート

後醍醐天皇側の軍に敗れた足利尊氏は、撤退を繰り返して九州まで引くことになりました。九州で味方を集めた足利尊氏は、九州で後醍醐天皇側に味方する武士達を少しずつ打ち破り、軍を整えて京都へ向かう決意を固めます。

そして京都への道を進んでいる途中の広島県厳島で、ようやく光厳上皇からの院宣が届けられます。足利尊氏が院宣を受け取ったことを知った西日本の武士達は、急速に足利尊氏の元へ集結し始め、軍が一気に膨れ上がることになりました。

足利尊氏の「鎌倉将軍後継者」宣言と室町幕府

大軍に膨れ上がった足利尊氏の軍は京都へ向かって進み始めます。その知らせを聞いた新田義貞と楠木正成は迎え撃ちますが、連戦連敗が続くことになります。そしてついに摂津湊川の戦いで足利尊氏は勝利し、楠木正成は自害しました。そして負けた新田義貞は後醍醐天皇とともに、天皇家伝来の三種の神器を持って比叡山に逃げ込みます。

皇居外苑 楠木正成像

京都に辿り着いた足利尊氏は、院宣を出した光厳上皇を迎え入れました。京都に戻った光厳上皇は自ら天皇に返り咲くことはせずに、弟を天皇に就けることにしました。ここで即位した天皇が光明天皇となります。ですが天皇即位の儀式には三種の神器がどうしても必要であるため、仕方なく足利尊氏は比叡山にいる後醍醐天皇に和議を申し入れました。この時の後醍醐天皇は子供を新田義貞に預けて逃した後に、後醍醐天皇自身は京都へ向かい幽閉されることになります。

足利尊氏はかつての源頼朝と同じ「権大納言」に就任し、建武式目という武家の基本方針を制定しました。この建武式目は、鎌倉幕府における「武家諸法度」のようなものです。そして自らを「鎌倉殿」と称した上で、鎌倉の将軍後継者である宣言を出しました。ここで実質的には室町幕府が成立しています。

南北朝の始まり

光明天皇は三種の神器を後醍醐天皇から取り返し、無事に即位の儀式を済ませることができました。ですが足利尊氏が将軍後継者である宣言を出して少し後、幽閉されていた後醍醐天皇は脱出に成功します。

脱出した後醍醐天皇は吉野の吉水院という神社を拠点とし、「光明天皇に渡した三種の神器は偽物でここにある物が本物である」と主張しました。そして自身こそが正当な天皇であるとして、京都にある朝廷は無視して独自の朝廷を作ります。ここでできた朝廷が「南朝」となり、日本では例のない2つの朝廷が並び立つ南北朝時代が始まります。そして後醍醐天皇は新田義貞に、改めて足利尊氏討伐を命じました。

こうして室町幕府は成立してからすぐに、長い内乱で戦い続けることになります。

まとめ

今回の記事では、鎌倉幕府が滅亡してから室町幕府成立と南北朝に分かれるところまでをご説明しました。主役はなんといっても足利尊氏と後醍醐天皇の二人ですね。この二人の不屈の闘志によって歴史が作られていき、そして混乱も生まれていきます。

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