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独力で執権への道を切り開いた北条時政
鎌倉幕府という日本初の武家政権は源頼朝によって成立していますが、その覇業は多くの御家人達に支えられた上で成し遂げられています。平治の乱の余波で伊豆国への流罪に処された頼朝は、兵を挙げるどころか日常的な生活ですらままならず、さらに監視まで付くという厳しい処分を受けています。この時監視役として頼朝の動向を見守り、器を見抜いて娘を妻として与えた人物こそが、後に鎌倉幕府で初代執権を務める北条時政でした。
時政は元々伊豆国に土着していた北条家に属していましたが、当主ではなくどちらかと言えば家中でもそれ程重要な地位にはなかったものと思われます。鎌倉時代後期に成立した「吾妻鏡」という歴史書には、幕府に関与した北条家の人間は時政とその子孫だけしか登場していません。つまり時政は兄弟や親類を使える立場にはなく、自身に協力してくれる人のいない状態から全てを築き上げました。そんなパワフルな人物・北条時政の、幕府の執権にまで上り詰めた出世の過程と、幕府から追放される場面をご紹介いたします。
源頼朝と歩み続けた北条時政
娘の北条政子を源頼朝の妻に
伊豆国に配流された源頼朝は、北条時政の監視下にありながらも結構動き回っていたようで、気付けば時政の娘・北条政子と交際を始めていました。時政としては自身の娘と罪人扱いされている頼朝の恋仲に大反対していましたが、最終的には折れる形で2人の婚姻を認めています。罪人扱いとは言えども源氏の棟梁という名家の血筋であり、また頼朝という人物を間近で見続けた末の判断だったのでしょう。
北条時政の娘・北条政子についてはこちらからどうぞ。
頼朝と政子の婚姻をキッカケにして、時政は平氏側の監視役という立場から頼朝の協力者という立場を取り始めています。頼朝と時政は平氏打倒の計画を2人で練り上げ、他の御家人には打ち明けられないことも共有していました。そして平治の乱から約20年後となる1180年、2人の計画はついに実行に移されます。
源頼朝と共に平氏打倒の兵を挙げる
2人の挙兵のターゲットに選ばれたのは、伊豆国で大きな勢力を築き上げていた平氏一門・山木兼隆でした。この戦いでは源頼朝と北条時政はできる限り戦闘を避ける方針だったようで、わざわざ三島大社の祭礼が行われる日を選んで襲撃しています。そのため山木家の郎党達は相当数が留守にしており、頼朝軍は難なく山木兼隆を討ち取ることに成功しています。
平氏一門である山木兼隆を討ち取った頼朝一行は、相模国の三浦義澄と合流するために東へ進みました。ですが頼朝の挙兵を知り追跡してきた大庭景親の軍と先に遭遇、「石橋山の戦い」でコテンパンに敗北してしまいます。この時は大庭景親軍に元々源氏に仕えていた梶原景時がいたため、頼朝は見逃される形で九死に一生を得て、安房国(千葉県南部)まで脱走し再起を図っています。この時は安達盛長といった御家人が奔走し、千葉常胤といった大物豪族を味方に引き入れることに成功していますが、御家人が増えていくにつれて協力者としての北条時政の影は段々と薄れていきます。
亀の前事件で一旦離脱
安房国で再起した源頼朝一行は連戦連勝を重ね、相模国を支配下に置くと鎌倉を本拠として定めています。この時北条政子は妊娠しており、出産のために頼朝と乳母を同じくする乳兄弟の御家人・比企能員の屋敷で出産の準備をしていました。ですがこの時肝心の頼朝は「亀の前」という女性にうつつを抜かしており、子供を出産し終えた政子は頼朝の浮気を知って当然の激怒、なんと「亀の前」の父親の屋敷を破壊させるという暴挙に出ます。
とんでもないことをしでかした政子に対してさすがに頼朝も怒ったのか、なぜか北条時政の妻の父、つまり舅を呼び出して髷を切り落とすという意味不明な反撃をしています。当然ながら時政も舅に対する頼朝の陰湿な報復行為に怒り心頭、北条一族を引き連れて自領のある伊豆国へと帰還するという、ある種のボイコットで反撃しました。この「亀の前事件」の後はしばらく鎌倉で時政の姿を見ることはなくなりますが、手が空いた時政は伊豆の隣に位置する駿河国で大きく勢力を伸ばし、後の北条氏繁栄の土台作りに成功しています。
平氏滅亡後には京都の治安維持に
北条時政が駿河国の統治に励んでいる間、一方の源義経軍は順調に平氏攻略を進めていました。そして1185年に壇ノ浦の戦いが源氏の勝利に終わり、約5年にも渡る治承・寿永の乱が終結しますが、今度は源義経が謀反を起こすというまさかの展開に発展します。この頃には関係も修復されていたのか時政は源頼朝の命令で京都へと上洛し、時の権力者・後白河法皇から「文治の勅許」を得て、そのまま京都に居残り治安維持に当たっています。
「文治の勅許」とは源義経を追跡するという建前により、頼朝は自身の権限で各地に「地頭」を設置できる権利を持ちました。「地頭」とは現代で言うところの税務署と警察を兼ねたような権限を持つため、その土地に対して絶大な影響力を持つ役職になります。この「地頭」を自由に任命できる権利を得たタイミングこそが、現代では「鎌倉幕府が成立した」瞬間であるとされています。
ちなみに京都に居残った時政は、精力的に平氏の残党を捜索し、市中の治安維持に努めました。ですが京都の流儀を知らなかった時政は、本来なら野党を捕まえた際は役所に突き出すのが通常の手続きであるにも関わらず、直接その場で処刑するという無骨な武士の流儀を見せつけています。また時政の配下も結構な暴れん坊揃いだったようで、民家や商家から金品を強奪するという行為にも及んでいたようです。いくら頼朝の身内とは言えやはり強盗はやりすぎだったようで、時政はわずか4ヶ月で京都守護の任を解かれて鎌倉へ帰還しています。
源頼朝が亡くなって本領発揮の北条時政
将軍の独裁政治から十三人の合議制へ
京都から戻った北条時政は、その後も自領のある伊豆国の経営に専念していたためか、幕府で表立った活動はしていません。この間に伊豆国・駿河国・遠江国という現代の静岡県全体にまで支配領域を伸ばし、経済的にも潤い実力が付き始めた頃、鎌倉では初代幕府将軍・源頼朝が突然の死を迎えます。
頼朝の跡を継いだ源頼家は、父同様に将軍の独断で裁判を執り行い、独裁とも言える政治体制を採りました。ですが頼朝の時代から将軍独裁に対して御家人達は不満を積もらせており、現代風に言えば民主的な政治体制を望んでいたようです。御家人達からすれば力を合わせて平氏を打倒したにも関わらず、結局アゴで使われて上の言いなりになるのは納得いかない、と言ったところでしょうか。そんな流れで「十三人の合議制」が発足、政治方針はみんなで決めましょうという制度ができたことで、かなり短い鎌倉殿の独裁時代はここで終了しています。
十三人の合議制のメンバーや前後関係についてはこちらでもう少し詳しくご説明しています。
源頼朝の代からの側近・梶原景時の失脚
十三人の合議制で将軍から独裁権を取り上げた御家人達でしたが、今度は身内同士での内紛に勤しむことになります。源頼朝の代から御家人統制の職務を持っていた梶原景時という人物は、過去に頼朝の命を助け源平合戦でも活躍した実績があるためか、御家人達に対していわゆるデカい態度で臨むことが多かったようです。ですがそういう人間はいつの時代も人の恨みを買いやすく、そして自身の勢力拡大を狙う北条時政にとってはターゲットにしやすい人でもあります。
梶原景時の些細な横暴を理由として、御家人達は景時を鎌倉から追放するための連判状を作成し、源頼家に提出しました。この連判状には66人もの御家人の署名がありましたが、意外なことに時政の名前だけはありません。ですが追放が決定した梶原景時が一族で京都へ向かう途上、時政の領国である駿河国で襲撃を受けて命を落としています。この梶原景時の変では時政の名前はほぼ出てこないのですが、連判状から襲撃まで裏で糸を引いていた可能性は非常に高いものと思われます。
梶原景時についての記事はこちらからどうぞ。
十三人の合議制の解体と源頼家の死
梶原景時の変が終わった3日後、合議制のメンバーの1人である安達盛長が病死しています。そして同じくメンバーである三浦義澄も続けて病死してしまったことで、「鎌倉殿の13人」は一気に3人を失ってしまいました。元々全員が集まって合議を行っていたわけではなく、13人の内の幾人かが集まって取り決めるというスタイルだったため、メンツ不足ということで1年も保たずに十三人の合議制は解体しています。
合議が開催されなくなったことで次に頭角を表したのは、源頼家の舅に当たる比企能員でした。北条時政は北条政子の父であり頼家の祖父に当たるため、こんな場面こそ時政の出番な感じはしますが、残念ながら両者の関係はあまり良くはなかったようです。時政としてもかねてより頼家の弟である源実朝の将軍就任を望んでいましたが、そんな折に絶好のチャンスが訪れます。
一方の比企能員と頼家は今後邪魔になりそうな時政の排除計画を立てており、後は暗殺を実行するだけとなっていました。ですがこの計画は打ち合わせ段階で頼家の母・北条政子がコッソリと聞き耳を立てており、当然父である時政に報告すると、時政は一計を案じて比企能員を自邸に招きました。招きに応じるのが当然の礼儀、ということで比企能員は丸腰のまま時政の屋敷に向かうと、準備万端の時政によってその場で斬殺、そして頼家の心の拠り所だった比企氏一族も北条軍によって全滅、計画がバレた頼家自身も伊豆国へと流罪に処されていますが、その後詰めの甘くない時政の手勢によって暗殺されています。
比企能員の変事や源頼朝との関係についてはこちらからどうぞ。
源実朝の将軍就任に合わせて北条時政が執権に就任
源頼家暗殺はほぼ確定で北条時政の仕業ではあるのですが、この段階では犯人として疑われなかったようです。ということで客観的に見れば頼家が変死しただけということになり、鎌倉幕府としては次の将軍を立てる必要に迫られています。頼家の長男も先の比企能員の変で亡くなっているため、3代将軍には頼家の弟・源実朝が就任しています。元々実朝は母方の一族である北条家寄りの人物だったため、時政はこれまで持てなかった大きな政治権力を手にしています。
実朝は12歳という年齢で将軍に就任しており、政治のことなど右も左も分からないため後見役として時政が補佐することになりました。ここで時政は「執権」という政務を統括する役職を新設して自ら就任、そして実朝の代理という建前で思う様に権力を行使しています。ですが時政は権力の味を知りすぎてしまったのか、頂点にまで上り詰めたにも関わらず意外な結末を迎えることになります。
源実朝の暗殺未遂で長男・北条義時により鎌倉追放
北条時政の行き過ぎた支配欲はさらなる権力を望み、今度は自身の娘婿を将軍にするという思い付きに至ります。そうなれば3代目将軍・源実朝はただの邪魔者であるため、もはや暗殺という手段に抵抗などなくなっていた時政はすぐさま実行に移そうとしました。ですがこの計画は前々から怪しんでいた時政の子供達、北条義時や北条政子によって阻止され、実朝は義時の屋敷でガチガチの保護を受け匿われました。計画の段階では時政支持を表明していた御家人ですら気付けば義時側に立っており、時政は完全に孤立した状態で長男からの裁きを受けることになります。
暗殺計画が失敗したその日に時政は頭を丸めて反省の意を表明していますが、さすがに事が事であるため裁きに手心を加えられることはなく、鎌倉から追放され伊豆国で隠居という処分が下されています。時政の隠居地である伊豆国・北条は、源頼朝と共に平氏討伐計画を練っていた思い出の場所でもあります。20数年前に意気揚々と旗揚げし、そして一度は掴んだ執権という権力の座を追われ、気付けば全てを失って元の場所にいるのはどのような気持ちなのでしょうか。隠居地でのんびりと10年程を過ごした時政は、78歳という当時としてはかなりの長寿で病のために亡くなっています。時政自身が多くの政敵を排除し首にしてきたことを考えれば、筆者の目線では人並み外れた波乱はあれど幸せな最後だったように思えます。
あとがき・北条時政の子孫達は初代として認めていない
味付けが濃すぎるパワフルオジさん
北条時政という人物について調べる前は名前くらいしか知らなかったのですが、調べれば調べる程に「とんでもない人だな」という感想を持ちました。伊豆の土豪という立場から源頼朝を将軍の座に押し上げ、なおかつ時政自身も幕政を統括する身分に成り上がるという、まさに1代で全てを築き上げた人物です。幕府成立の直接的なキッカケとなった「文治の勅許」を受けるための朝廷との交渉もこなし、また政敵排除についても積極的に行動を起こす、いかにも「人の迷惑を顧みずに突き進むパワフルなオジさん」的な印象を受けます。
そのため時政の行動はしばしば大問題にも発展しており、京都の治安維持任務中の強盗や、文中には記述しておりませんが「畠山重忠の乱」という、罪もない幕府の重臣に罪を着せて誅殺するという事件も起こしています。特に畠山重忠は北条義時からの信頼が厚かったようで、この事件をキッカケにして時政親子の間に大きな溝ができていました。その直後に源実朝の暗殺未遂ということで、義時から一切の容赦がない鎌倉追放という処分が下されたのでしょう。
執権北条家の歴史から除外されてはいるものの
この後は北条義時の子孫によって鎌倉幕府の執権職が世襲で受け継がれていきますが、実は歴代の北条家当主達は北条時政を初代として認めておらず、その嫡男である義時を初代として扱っています。将軍暗殺未遂という事件を起こした時政を自分達の系譜から抹消し、むしろ将軍を助けたヒーロー役の北条義時を初代として扱った訳ですね。
それでも北条家繁栄の土台を作ったのは間違いなく北条時政というパワフルオジさんであり、そもそも幕府が成り立ったのも時政が頼朝を支援したが故であることは揺るぎのない事実です。様々な事を成し遂げてきた北条時政にとっては将軍の暗殺未遂という大事件ですら、「ほんの出来心」くらいだったのかもしれませんね。