鎌倉時代1 鎌倉時代の始まり | 源頼朝による鎌倉幕府成立

平泉和風建築 鎌倉時代

鎌倉幕府 日本初の武士政権

鎌倉時代という言葉から受けるイメージは、「武士の時代」ではないでしょうか。実際にこの時代に初めて幕府という武士による政権が成立しており、室町幕府や江戸幕府の根本的なモデルとして後の時代に大きな影響を及ぼしています。

ですが幕府が日本全国を管理下に置き、外交にまで口を出す権力を手に入れたのは、幕府ができてからすぐのことではありません。平氏を打倒して間もない頃は、源頼朝を支持して兵を出した関東と、せいぜい中部地方くらいまでが支配地域でした。

そこから鎌倉幕府は、一体どうやって日本全国に支配域を広げていったのでしょうか。鎌倉時代の大きな出来事を順を追って説明していきたいと思います。

文治の勅許

平氏はすでに打倒されていましたが、まだ諸国で源頼朝に対して反抗的な態度をとる勢力も多くありました。反乱が起きる度に関東の武士を派遣するのは国の疲弊に繋がる、という名目で、源頼朝は朝廷に対して守護・地頭を任命する許可をもらえるよう頼みました。

幕府が守護・地頭を任命できる→武士達は幕府にゴマをすらないと土地が手に入らない→幕府が実質的に支配権を持つ

こんな図式が成り立ちます。この文治の勅許によって鎌倉幕府が成立したとされるのが現在は一般的です。

ちなみに「鎌倉幕府」という呼び方は当時使われていませんでした。日本の明治期に入ってから呼ばれるようになっただけで、当時朝廷からは「関東」と呼ばれ、武士達からは「鎌倉殿」と呼ばれていたようです。

奥州合戦:源義経、奥州藤原氏征伐

奥州合戦の背景

奥州征伐や「奥入」とも呼ばれる、源頼朝による奥州藤原氏との戦いです。

当時の東北地方では、奥州藤原氏が陸奥・出羽の2国で存在感を持ち、朝廷からも認められる勢力となっていました。源平合戦にも参加せず、奥州には平和な毎日がありました。

ところが源平合戦後に、頼朝に追われた源義経が奥州藤原氏を頼ってやって来ました。その時当主だった藤原基衡は快く義経を受け入れ、さらには子供の泰衡、国衡に対して、義経に臣従するよう約束させています。基衡は余程に義経を気に入っていたのでしょうね。

頼朝の朝廷を使った外交と義経の死

源平合戦が終わって余裕ができていた源頼朝は、奥州に有力な勢力があること、そして義経の存在がやはり気になっていたのでしょうか、奥州の征伐を決意します。

まず頼朝は朝廷から、奥州藤原氏に義経を討ち取る命令を出させます。その命令を一度は拒否した藤原泰衡でしたが、源頼朝は次に奥州藤原氏を討ち取る命令を全国に出したんですね。これを恐れた泰衡は、やむなく義経の首をとって頼朝に送りつけています。

でもやっぱり攻められる

義経の首を送って一安心していた藤原泰衡でしたが、源頼朝はそんな生易しい人ではありませんでした。何度も義経を討ち取るよう泰衡に要求していたはずなのに、今度は家族の義経を討ち取ったことを理由にして奥州に攻め入ります。かなりメチャクチャな理由付けですが、頼朝は意地でも奥州藤原氏を滅ぼすつもりだったのかもしれません。

そして攻められた藤原泰衡はなんとか抵抗はしますが、日本全国から集まってきていた幕府軍に攻められ、あえなく滅亡しました。

頼朝が奥州征伐で得たもの

まずひとつは、東北地方の有力な勢力である奥州藤原氏を滅ぼし、広大な土地が手に入ったことです。これによって東北地方にも幕府側の守護や地頭が多数配置され、幕府は領土を拡張することができました。

そしてもうひとつは、幕府の味方にならない武士を処罰できたことです。この戦いの際には、頼朝は全国の武士達に兵を出すように要求しました。要求の通りに兵を送ったところもありましたが、兵を送らなかった武士もいたんですね。奥州合戦後に兵を送らなかった武士は、参戦しなかったという理由で領地の没収という、非常に厳しい処罰を受けています。

まとめ

こうして奥州合戦によって、鎌倉幕府は東北にも統治権を行使するようになりました。

命令に従わなければ領地没収という幕府からの強烈すぎるメッセージは、幕府の支配力を強め、また数々の反乱が起こる火種ともなっています。

次回では、この頃の幕府執権である北条時宗が登場します。是非ご覧になってください。

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