鎌倉時代6 鎌倉幕府の終わり | 後醍醐天皇は諦めない

すすき 鎌倉時代

今回の記事では、幕府による元寇の経済的な打撃の回復策と、幕府が滅亡していくまでをご説明したいと思います。

永仁の徳政令

元寇で貧困化した御家人

元寇で戦った御家人達は、移動から装備品などを全て自費で賄っていました。

このこと自体はごく普通のことで、御家人達も自費で参戦すること自体は何の疑問もなかったと思います。ですが問題は、戦争に参加して十分な報奨が得られなかったことですね。

「元寇」のページでもご説明しましたが、御家人達にとって戦争に参加し、活躍することで見合った報奨を得ることは当たり前のことです。ですが幕府にとって元寇で得たものは一切なく、被害しかありません。ですので鎌倉幕府としてはどんなに活躍した御家人にも、充分な報奨など出せない状況でした。

お金に困った御家人は土地を売る

御家人達も、兵として戦ってくれた部下達に報奨を渡す必要がありました。そして戦費でお金をたくさん使っており、もちろん御家人の家族も生活するためにお金がかかります。ですが幕府から報奨などロクにもらえていないため、御家人自身でなんとかする必要がありました。

そういった困ってしまった御家人がしたことは、自分の領地を質に入れて、家族の生活や部下への報奨に充てました。ですが領地を質入れすると当然翌年の収入は減り、またお金に困ってさらに領地を売る、という悪循環に陥っていました。

永仁の徳政令

こういった事態を重く見た9代執権北条貞時は、徳政令を全国に出します。徳政令の具体的な内容は、土地売買に関する訴訟を受け付けない、以前に売られた土地を御家人に返す、といった凄まじいものでした。

土地売買の訴訟を受け付けないということは、土地を質に入れて借金をしていた御家人の借金は帳消しということになります。返せと言われても無視すればいいだけですからね。訴えようにも訴訟を受け付けないのですから、借金をした者勝ちです。また、借金が返せずに商人に取られた土地も当然御家人に戻るという、無茶苦茶なものでした。

人々の気持ちが幕府から離れていく

御家人達にとっては一時的に助かる徳政令ではありましたが、商人達にとってはたまったものではありません。

また、御家人達の経済的な困窮も少しは収まりましたが、相変わらず九州の元に対する防衛体制は継続しており、根本的な解決はしていません。むしろ徳政令後にお金を貸してくれる商人などいなかったため、より困窮した御家人までいました。

徳政令は結果的に、幕府にとって一時凌ぎ程度の効果があったかすらわかりません。ただし、全国に混乱を招いたことだけは確かであると言えます。

元弘の乱

正中の変

困窮を続ける御家人達に比べ、北条一族の領地は増え続けていました。永仁の徳政令だけでなく、その後も御家人の不満が募ってきたら徳政令、を繰り返していた状態です。当然そんなことをしていれば、幕府を支持する人はどんどんと減っていきます。

そんな折に朝廷では、後醍醐天皇が即位して天皇となりました。当時の朝廷は派閥争いが激しく、大覚寺統と持明院統という2つの派閥が争っていました。後醍醐天皇は大覚寺統の天皇として即位しています。

後醍醐天皇は大覚寺統の政治路線である朝廷主導の政治を目指していましたが、突然幕府によって捕縛されます。鎌倉幕府打倒を計画したという疑いで捕まった後醍醐天皇でしたが、幕府の発表では冤罪であるとされ罪に問われず、替わりに側近が島流しとされました。

この一連の冤罪事件を正中の変といいます。この時実際に後醍醐天皇が倒幕を計画していたかはわかりませんが、その後を見るとひょっとしたら・・・という気持ちになってしまいますね。

後醍醐天皇の倒幕計画と流罪

どのタイミングからかはわかりませんが、正中の変後に後醍醐天皇が実際に倒幕を計画したことは間違いのない確かなことです。ですがここでの倒幕計画は、側近の裏切りによって幕府にバレてしまいます。

幕府は後醍醐天皇を捕まえようと軍勢を送りますが、後醍醐天皇はこのピンチに女装をして脱出し、さらに幕府打倒の挙兵をしました。この挙兵の呼びかけに応じた人の中に、楠木正成もいます。

幕府は後醍醐天皇の挙兵に対して足利高氏や新田義貞の討伐軍を送り、順調に征伐を進めていきました。そして最後に残ったのは楠木正成の守る城だけとなりますが、ここで幕府軍は苦戦することになります。ですが最終的に幕府軍が勝利し、楠木正成と後醍醐天皇の皇子である護良親王は逃亡し、後醍醐天皇はまたも捕縛されました。

そして後醍醐天皇は天皇の座から降ろされた挙げ句、隠岐島に流罪となり、ひとまずの決着が付きました。

楠木正成再び

後醍醐天皇が流罪になった後も、楠木正成と護良親王はチャンスを伺っていました。そして楠木正成は千早城という城で挙兵し、同じ頃に護良親王も別の場所で挙兵します。

幕府は当然この挙兵に対して大軍を送り、討伐に向かいました。孤立する千早城を幕府の大軍が取り囲み、誰がどう見てもすぐに陥落すると思われていたのですが、これがなかなか落ちません。楠木正成の奮闘と策略によって90日もの間、幕府の大軍相手に守っていました。

この楠木正成奮闘の噂が全国に広まり、幕府を良く思っていなかった人達が一斉に動き出すことになります。

各地で起きる反乱と裏切り

楠木正成が粘り続けていることを聞きつけ、各地で一気に反乱が起きました。そして隠岐島に流罪になっていた後醍醐天皇も、反乱軍に合流して全国に倒幕を訴えかけました。

最初は幕府軍として反乱討伐に向かっていた足利高氏も、すでに後醍醐天皇側に付いていた新田義貞と合流し幕府に反旗を翻しました。他の幕府御家人達も次々と後醍醐天皇側に付き、どんどんと勢いを増していきます。

まず朝廷を監視するために置かれていた幕府の六波羅探題が攻め落とされ、そして後醍醐天皇側の軍勢は鎌倉に迫りました。

もはや幕府軍は連戦連敗で、日を追う毎に追い詰められていきました。そして後醍醐天皇の軍勢に追い詰められた16代執権北条守時や、幕府の中核を担っていた北条一族や御家人は自害し、後醍醐天皇側の勝利となりました。

鎌倉幕府滅亡

執権北条守時を始めとした北条一族が滅び、そして鎌倉幕府を継ぐ人物がいなくなったことで鎌倉幕府は滅亡しました。

鎌倉時代まとめ

鎌倉幕府滅亡の年号は1335年です。鎌倉幕府の成立が1185年なので、ちょうど150年間続いたことになります。

150年という数字が長いのか短いのか筆者にはわかりませんが、日本で初めてできた武家政権として大変な偉業だったと考えています。前例のないことだらけで手探り状態であったにも関わらず、後に続く室町幕府も多くの施策を真似ています。

もちろん初代将軍である源頼朝の血が絶えてしまったことや、多くの御家人をあの手この手で根絶やしにしてきた北条一門の暗躍も見過ごすことはできません。ですが北条氏は執権として勢力を拡大し、朝廷まで影響下に置いていた手腕は凄まじいものがありますよね。

最後はその朝廷によって滅ぼされてしまうのが、平家物語にあるような栄枯盛衰を感じますね。

まとめ

今回は鎌倉幕府の滅亡までをご説明しました。

鎌倉時代の次は南北朝の争いになるのですが、次回の記事では鎌倉時代の豆知識をざっくりと披露したいと思います。ぜひご覧になってください。

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