常識の変化が生んだ仏教排斥運動・廃仏毀釈

廃仏毀釈 江戸時代の宗教史

廃仏毀釈とは

仏教の排斥運動を意味します

この廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という単語そのものは仏教の排斥を指しており、「仏を廃する」「釈(迦)を毀つ(こぼつ、悪く言うこと)」という二節から成り立っています。日本史においては、主に幕末から明治初期頃の全国的な廃仏運動を指しますが、他の時代においても小規模ながらしばしば起きています。

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明治初期の大規模な廃仏毀釈

全国的に起きた廃仏運動

日本史において最も大規模な廃仏毀釈と言えば、明治維新の際に起きた全国的な一連の廃仏運動でしょう。もちろん全国的とは言っても地域によって温度差があり、ほとんど被害がなかった地域もあったりしますが、逆に鹿児島では残った寺院が2つのみという凄まじさだったようです。

まあこの鹿児島というか旧薩摩藩は新たな日本づくりを主導していた地域ですので、「天皇家=神道の中心」という概念があったからこその強烈な廃仏運動だったのでしょう。しかし、実際に筆者が訪れた静岡県の寺院には、「廃仏毀釈で燃えた寺から移送された仏像」なんてのもありましたので、被害があった地域も相当多かったものと思われます。

自然に拡大したムーブメント

ここが今回の記事で最も言いたいことなのですが、明治初期に起きた廃仏毀釈は「維新政府が主導していない」ということです。まあ事の発端は、仏教と神道を切り分けた「神仏分離令」、そして江戸時代に苦汁を舐め続けた神道関係者の復讐心もあったのでしょうが、実際のところ民衆は強制されないままに行動しています。

もちろん「周りがやってるからウチも」的な右に倣えの習性も手伝ったのでしょうが、根本的には自発的な行動であり、だからこそ急速かつ自然な形で全国的に広まりました。しかし、こんなことは寺院に対して悪い感情がないと起きないでしょうが、これに関係していそうなのが江戸幕府の宗教政策・檀家制度です。

民衆が持っていた檀家制度への疑問

この檀家制度は本来キリスト教の根絶を目的とし、当時の日本人全員を強制的に仏教徒に改宗させ、なおかつ最寄りの寺院に所属させたという政策です。しかし、実際は寺院に市役所的な機能が持たされており、地域への転入・転出や戸籍の管理は住職の役目となっていました。

これだけならそこまで問題にもならないのですが、江戸時代の住職は民衆を「非人(農村なら村八分にされます)」の身分に落とす権限を持っていました。そのため民衆に強制労働させたり、また高圧的に寄付をせびることもザラだったようで、この辺が廃仏毀釈が起きた一つの要因だったものと思われます。

寺請制度とも呼ばれる檀家制度についての詳細はこちらからどうぞ。

時代の変わり目ならではの出来事か

檀家制度を採用して民衆を統治していた江戸幕府でしたが、1868年に始まった戊辰戦争によってついに滅亡しました。その統治期間は270年程ではありますが、この期間中に檀家制度は民衆の常識になっていたでしょうし、また住職にとっても高い地位と権力は当然のモノという感覚だったでしょう。

しかし、江戸幕府が滅びたことで民衆に「よくよく考えたらおかしいよね」という疑いが生まれ、この気持ちを行動に移したら廃仏運動になった、というのが実際のトコかなと思います。つまり、それまでの価値観が崩れたからこそ廃仏運動に繋がった訳で、人々の常識を大きく塗り替えた明治維新の負の側面とも言えるでしょう。

廃仏毀釈の後に復活した日本仏教

明治初期に大きなダメージを受けた日本の仏教界ですが、だからといって完全に壊滅した訳ではありません。一度は廃仏運動が起きたとは言え、そもそも仏教は行事や慣習を含めて日本人の生活に欠かせないモノであり、お墓の管理だってしてもらいたいですよね。

という事で、廃仏毀釈の後に仏教が改めて評価されることになり、焼失した寺院なんかも徐々に再建が進みました。もちろん江戸時代のような特権は失われましたが、仏教はその後も身近な宗教として在り続け、現代日本でも日常生活にしっかりと溶け込んでいます。

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その他の廃仏毀釈の事例

飛鳥時代の廃仏毀釈

蘇我氏と物部氏の崇仏論争

日本史では廃仏毀釈の事例が非常に少ないのですが、飛鳥時代の崇仏論争は数少ない事例の一つかと思われます。この時は廃仏派・物部氏に対し、崇仏派の蘇我氏が対抗したという事例なのですが、当時感覚での仏教はぶっちゃけ異教でしかありません。

つまり蘇我氏は反対する人がいる中で異教を持ち込もうとした訳で、普通に考えたら廃仏派の方がマトモに感じてしまいますよね。しかし、蘇我氏が異教を持ち込もうとした理由は教義そのものにはなく、彼らの仕事である外交が関係しています。

蘇我稲目と物部尾輿による崇仏論争はこちらからどうぞ。

外交を有利にするための仏教

当時の日本の外交相手と言えばまずは中国になりますが、この頃の中国ではすでに仏教が日常生活に入り込んでいたので、仏教の採用は外交面で有利というかむしろマストと言えます。また、蘇我氏が外交を職掌としていたのに対し、物部氏は国内の経営がメインとなっていました。

つまり蘇我氏にとって仏教を取り入れないことには仕事にならない、また物部氏にとっては国内にたくさんある神社を敵に回す訳にもいかないので、崇仏論争とはただのポジショントークだったというオチになります。結局、蘇我氏の軍事的勝利によって仏教の採用が決まりましたが、これによって聖徳太子が遣隋使を派遣できたのもまた事実でしょう。

聖徳太子の主な功績についてはこちらからどうぞ。

その他外国で起きた廃仏毀釈

いかにも平和的なイメージのある仏教ですが、その時々の権力者と対立し、廃仏毀釈が起きてしまったケースが多くあります。これは最も仏教が普及した中国においても同様だったのですが、その理由は労働及び納税人口の不足が主であり、まあ要するに拝んでないで働けということですね。

また、仏教発祥の地であるインドでも廃仏毀釈が起きており、ヒンドゥー教やらイスラム教によって何度も排斥された歴史があります。ただし、インドの場合は12世紀にイスラム教からの排斥で完全に壊滅しており、そこからインド国内で仏教が復興したのはなんと1956年ですが、現代ではなんとか800万人にまで増えているそうです。

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