平和な江戸時代に改革が必要だった理由
日本国内の大きな進歩
江戸時代の日本は250年もの平和を享受し続け、その間に国内は大きな発展を遂げました。鎖国という極めて閉鎖的な環境は日本独自の文化を生み出し、浮世絵や歌舞伎など芸能面でも飛躍的な進歩を遂げています。
農業も大きな進歩を遂げていますが、貨幣が一般庶民にまで流通したことで、特に商品経済が大きく発展しました。それは時代のメインテーマが食料確保から経済へ移行したことを意味し、また平安時代末期に訪れた武士のターンの終焉でもあります。
経済発展に伴って石高制がネックに
江戸時代が始まる直前、豊臣秀吉の太閤検地によって土地ごとに「石高」が設定されました。そして徳川家康もこれを踏襲し制度に組み込んでいるため、そもそも江戸幕府はお米の税収が中心として設計されていたことになります。
ところが平和な時代が商品経済の発達を促したことで、お米を中心に据えたシステム自体に無理が生じてしまいました。農民たちも収益性が良くない、また冷害に遭いやすい稲作から徐々に離れ始め、商品価値の高い作物への移行が進んでいます。
財政難と災害に対応するための改革
江戸時代の最初期から比べ、最初の改革が始まった享保年間には日本の人口が倍増していますが、上記の理由から幕府は人口増加の恩恵をほぼ受けていません。むしろ商品経済が発達したせいで出費ばかりがかさんでしまい、江戸時代中期頃からは慢性的な財政難に陥りました。
また戦争こそないものの、天候不順による飢饉や洪水、火事といった災害は普通に起きています。財政難と災害、そしてそれに伴う社会不安など、江戸幕府はいつだって大きな問題を抱え続けていました。江戸時代の三大改革とされる、享保の改革・寛政の改革・天保の改革。この3つの大きな取り組みとは、多くの困難になんとか対処しようとした苦肉の策だったりします。
江戸時代の三大改革
徳川吉宗の「享保の改革」
改革の理由は普通に財政難
「享保の改革」は徳川吉宗の主導により、1716年から20年にも渡って取り組まれています。テレビでは「暴れん坊将軍」でお馴染みの徳川吉宗ですが、今回の改革というテーマにおいてはやはり「米将軍」の異名の方が妥当でしょう。
もともと徳川御三家の紀州藩藩主だった徳川吉宗ですが、「将軍として江戸に来てみたら全然お金がない!」、ということで改革に踏み切りました。財政難の理由としては米収入減に加え、佐渡金山での鉱山収入減が重なったことなどが挙げられます。
「米将軍」はやっぱりお米
そんな訳で徳川吉宗はひとまず米収入の改善に着手、上米の制や新田の開発、定免法といった政策を打ち立てました。それらの政策は大きな成果を上げ、幕府の米倉はパンパンに膨れ上がり、あとは普通に売り払えばOKのところまでスムーズに漕ぎ着けています。
ところがそうは問屋がおろさなかったようで、米価格の大幅低下が起きてしまい、大量にかき集めたお米も大した金額で売れませんでした。まあ大量のお米を一気に売ればそうなるのも仕方ない気もしますが、とりあえず徳川吉宗の次なるミッションは米価格の上昇となります。
享保の改革についてはこちらからどうぞ。
米価格の上昇に成功した「米将軍」
徳川吉宗は急落した米価格を戻すため、売るのをやめたりむしろ買ったりと、ひとまず流通量を絞る作戦に出ました。しかし米価格は一向に上がる気配はなく、これでは幕府の財政難を改善することなんてできません。
そこで徳川吉宗はお米の流通量を操作する方法ではなく、今度は貨幣の改鋳に手を付け、お金自体の価値を引き下げて市場に流す方法を編み出しました。すると米価格は物価に対して向上し始め、これ以後しばらく幕府の金蔵は潤うこととなります。
享保の改革における米相場操作の詳細はこちらから。
松平定信の「寛政の改革」
災害と財政難への対応を
「寛政の改革」に取り組んだ人物は、徳川吉宗の孫に当たる松平定信という人物です。この改革は1787年から1793年に行われていますが、途中で松平定信が老中職を解任されてしまい、少し中途半端な形で幕を閉じました。
寛政期の前は商業が大きく発展した田沼時代ですが、この頃は火事やら飢饉やら災害が連発していた時期でもあります。この災害の対応で幕府財政はまたも火の車、松平定信はこの財政難と災害への対策という過酷なミッションに挑みます。
大奥や幕府官僚に嫌われて解任
松平定信の財政政策は享保の改革や田沼時代からの流用が多く、商業政策についてはほとんど踏襲した感があります。むしろ「寛政の改革」のオリジナリティは民政や農政にあり、棄捐令(借金の軽減)や子ども手当で民衆の生活を支え、また旧里帰農令で農村の復興を目指しました。
寛政の改革の詳細はこちらから。
また鬼平こと長谷川平蔵に人足寄場(浮浪人や軽犯罪者の職業訓練校)の運営を任せるなど、治安維持にも優れた手腕を発揮しています。他にも囲米(災害用備蓄米)や七分積金(災害用の復興資金)の創設など精力的に活動しましたが、残念ながら大奥や他の幕府官僚との関係がこじれ、わずか6年で権力の座を追われています。
水野忠邦の「天保の改革」
大御所がいなくなったから改革に着手
「天保の改革」が行われたのは1841年~1843年ですので、「江戸時代の三大改革!」の一つであるにも関わらず、わずか2年で終焉を迎えています。水野忠邦が改革に取り組み始めた理由として、いつもの財政難が大きなウェイトを占めつつも、幕府内の風紀を正すという裏テーマもあります。
当時の幕府情勢として、大御所として長々と君臨していた徳川家斉(いえなり)が亡くなり、将軍である徳川家慶に実権が移っていました。この大御所時代はワイロが幕府公認だった程の、いわゆる政治が腐敗していた時期ですので、徳川家斉がいなくなったことでようやく粛正の機会が訪れたという訳です。
頑張ろうとするもすぐに解任
水野忠邦が老中を務めていた天保年間は、全国的な飢饉とそれに伴う一揆、また財政難やアヘン戦争による余波など、幕府が山のような問題を抱えていた時期です。それらを一つひとつ解決するにはまずムードを変えようということで、水野忠邦は厳しい倹約令を布き、幕府内と民衆の引き締めを図りました。
天保の改革についてはこちらからどうぞ。
また上知令や人返し令といった政策により統治の強化と税収の増加を図りますが、結局幕府からも民衆からもソッポを向かれ、わずか2年で解任されてしまいました。この一連の改革は水野忠邦が老中という立場で主導していますが、松平定信同様に解任という結末で終わっており、将軍として最後までやりきった徳川吉宗と対象的だったりします。
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