徳川吉宗系統の将軍たち
隠居後が本番の11代・徳川家斉
松平定信を登用して寛政の改革を決行
割りとアヤフヤになりがちな江戸時代後期ですが、この地味な時期の主役と言えば間違いなく11代将軍・徳川家斉(いえなり)でしょう。将軍に就任した頃の徳川家斉はやる気があったらしく、ワイロでお馴染みの田沼意次(おきつぐ)を追放して松平定信を抜擢し、寛政の改革を断行しています。
この寛政の改革では、財政の改善や災害からの復興だけでなく、質素倹約の奨励や行政のクリーン化という大きなテーマがありました。まあ要するに質素に生きて不正を正すことでお金を工面し、ちょっと浮いた分で災害からの復興をしようという、至ってマトモな改革ではないかと思われます。
松平定信の寛政の改革・農政と民政についてはこちらからどうぞ。
心が清らかすぎた松平定信の失脚
松平定信の政策によって取り締まられた悪代官は結構な数になったようで、これは客観的に見れば改善でしかありません。しかしそんな改善も、悪代官などのズルい奴、及びズルい奴からワイロをもらっている側、そして贅沢に慣れきっていた幕府上層部にとっては迷惑だった訳です。
その結果、批判に晒され続けた松平定信はわずか6年で失脚し、寛政の改革は微妙な達成感のままに終わってしまいました。とは言え、その後も徳川家斉は松平定信の側近を幕政の中心に置き続けており、この時期はそこそこクリーンな状態が保たれていたようです。
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その生涯の後半は享楽的
徳川家斉は50年も将軍として過ごしており、この年数は歴代将軍の中でもダントツです。しかし、それだけの期間を高いモラルを持って過ごすのも難しいのでしょう、その任期後半の江戸幕府はまたもワイロだらけの世界となっていました。
この徳川家斉は20人を越す側室を持っていたようで、53人という記録的な数字の子供がいたりします。そんな絶倫男・徳川家斉も60歳を過ぎた頃にようやく引退を決意しますが、それでもまだまだ主役の座を譲る気はありません。
天保の改革をやらせた12代・徳川家慶
大御所・徳川家斉に牛耳られていた前半
父の引退によって12代将軍に就任した徳川家慶(いえよし)でしたが、父である徳川家斉は「大御所」として実権を握り続けました。つまり、この段階での徳川家慶はただのお飾りであり、相変わらず徳川家斉がやりたい放題に江戸幕府を仕切っていた訳です。
それでも人間いつかは寿命が尽きるもので、徳川家斉は70歳の手前にしてついに息を引き取りました。すると、これまで父がいたせいで影が薄かった徳川家慶が復活、荒みきっていた江戸幕府の浄化を目指します。
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天保の改革でクリーン化を図るも
とは言え、将軍である徳川家慶本人が幕政改革に取り組む訳にもいかないので、当時老中という地位にいた水野忠邦という真面目な男に委ねることにしました。すると水野忠邦は思った以上にやる気を出したようで、まずは徳川家斉の側近だった人物を排除、さらには行政・財政の改革を次々と進めていきます。
この一連の改革は天保の改革と呼ばれており、寛政の改革同様に江戸幕府の財政を整え、次々と不正を暴いて行政の浄化を進めました。しかし不正に染まりきった人々にとってはこれまた迷惑ということで水野忠邦が失脚、まあその後の徳川家慶もボチボチやっていたようですが、その最後の最後になって日本に黒船がやってきました。
水野忠邦が取り組んだ天保の改革についてはこちらからどうぞ。
ペリー来航の激震を味わった13代・徳川家定
アメリカ海軍提督・マシュー・ペリーが浦賀(神奈川県横須賀市)に来航してから19日後、徳川家慶は病のために亡くなりました。急に外人さんがやってきてアタフタしている中、さらに国のトップである将軍が病没した訳で、まあこの時ばかりは日本中パニックになったのも仕方ないかと思います。
そんな状況の中で13代将軍に就任したのは徳川家慶の嫡男・徳川家定でしたが、この人物は生来病気がちだったようで、混乱期を乗り切るには少し荷が勝ちすぎていたのかもしれません。一応は日米和親条約への調印といった仕事をしてはいますが、就任期間わずか4年で病没し、この難局の舵取りは養子の徳川家茂(いえもち)に委ねられることになります。
幕末の動乱期に揺らされ続けた14代・徳川家茂
この徳川家茂が14代将軍に就任した時期以降は、「幕末」という波乱を含んだワードでくくられます。まあ実際の幕末に大波乱があったからそういうイメージがあるのかもですが、この頃の幕府は徳川家斉時代の浪費でとっくに弱体化していたため、薩摩藩や長州藩の倒幕運動を許してしまったというのが実情でしょう。
特に長州藩は戦闘を拒まぬ武闘派なスタンスを取り続け、京都市中において禁門の変と呼ばれる大事件を引き起こしました。そのため徳川家茂は長州藩討伐のために自ら出向こうとしますが、その途上である大阪城にて病のため没しています。
水戸藩出身の唯一の将軍
江戸幕府最後の将軍となった15代・徳川慶喜
長州征伐の失敗と停戦
15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は急遽徳川家茂の跡を引き継ぐことになりましたが、それでも長州藩との交戦は終わりませんでした。というか、むしろ戦況は幕府軍の不利が続き、結局勝敗が付かずに停戦という形で幕を閉じています。
とは言え、これは幕府が一つの藩に勝てなかったことを意味しますので、他藩がまとまって来たら勝ち目がなさそうですよね。しかし、ここで徳川慶喜は不利な状況を覆すため、まさかまさかの大博打を打ちます。
大政奉還で倒幕派の意図を挫こうとするも
そもそも江戸幕府は天皇家から日本の政治を任されていた訳ではなく、徳川家康の権力が他者の批判を許さなかっただけあり、その体制がなんとなく続いただけというのが実際のところです。だからこそ「徳川家が日本を仕切っているのはおかしい」という倒幕派の理論が成り立っていたのですが、徳川慶喜はここで朝廷に対し大政奉還を申し出ました。
これは「これまで政治を仕切ってきたけどもうやめます」という申し出であり、このことによって徳川慶喜は倒幕運動の根拠自体を消滅させようとした訳です。しかし、残念ながら明治天皇はこの大政奉還の申し出を拒否、ついに薩摩藩と長州藩は倒幕の兵を挙げるに至ります。
戊辰戦争で江戸幕府滅亡
長州征伐においてすでに実証されていたことですが、この時点での戦力差は幕府と長州藩一つでドッコイですので、そこに薩摩藩が加わっただけでも幕府の勝ち目は激薄です。しかもこの2藩だけでなく土佐藩あたりも参加していますので、まあ客観的に見たら無理筋というやつでしょう。
倒幕派は京都を制圧した後に新政府軍を名乗って江戸への侵攻を開始、ここで徳川慶喜が江戸城を無血開城したことで江戸幕府は滅亡しました。徳川家康の開府から戊辰戦争まで270年も幕府は存続しましたが、この時に世界史上でも稀な平和な時代が幕を閉じ、さらなる激動の時代・明治期へと突入することになります。
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