徳川綱吉の「生類憐れみの令」の真意を考察

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お犬様?

「生類憐れみの令」は悪法?

徳川綱吉が打ち出した奇抜すぎる政策

今回の記事では、江戸時代も中期に差し掛かった頃に出された政策、「生類憐れみの令」について考察してみたいと思います。この法令は5代将軍・徳川綱吉が出した過剰な生き物愛護法として有名だったりしますが、まあ良いか悪いかはひとまず置いておいて、まずは26年に渡って段階的に進んだ法令と処罰をリストでご覧ください。

  • 1683   :辻番(お巡りさんみたいなもの)は酔っ払いを介抱すること
  • 1684   :生き物愛護のため鷹の献上を禁止
  • 1685   :鶴を鉄砲で撃った人を晒し首
  •            :江戸城での食事に鳥類・魚介類を使わないこと
  • 1686   :捨て子を見たら養育すること、犬を斬った人物が捕縛される
  • 1687   :捨て犬がいたら餌をやること、鳥や犬を人が傷つけたら届け出ること
  •            :病気になった馬を捨てた農民が流刑
  • 1688   :鶏を売った人、仲介した人、買った人全て投獄
  •            :鳩に石を投げた人が江戸から追放される
  •            :犬に吠えられた人が鎌を投げて反撃したら流罪
  • 1689   :病気の馬を捨てたことに関係する武士14人、農民25人が流刑
  •            :犬同士の喧嘩を止めなかった人が閉門処分(外出禁止)
  • 1690   :捨て子の禁止、及び7歳までの子供が届出制に
  • 1691   :徳川綱吉に糞を落としたカラスを流刑(逆パターンですね)
  •            :犬・猫・ネズミ・蛇を使った興行の禁止
  • 1692   :病犬の収容施設を設置
  • 1693   :趣味での釣りを禁止
  • 1694   :金魚を池に放す際には数を報告するよう通達
  • 1695   :犬が磔にされ「犬公方(徳川綱吉のことです)の権威を借りて人々を悩ませている」という文言が添えられる事件があったため、犯人とされた旗本が斬罪に
  •            :中野に幕府経営の犬小屋が完成、半年後には10万匹が収容
  • 1696   :犬への虐待を密告したら賞金が出ることに
  •             :犬小屋の犬を養うために税金アップ
  •             :大酒飲み禁止令
  • 1698   :犬を斬った人が磔に
  • 1702   :飼育中のアヒルを襲った犬に飼い主が刀で応戦したら切腹させられる
  • 1704   :捨て子だけでなく捨て犬・捨て牛・捨て馬も禁止
  • 1705   :牛馬に重量のある物を引かせることを禁止
  • 1706 :中野犬小屋へ犬を移送している際によく監視していなかった見張りを追放
  • 1707   :鳥獣を使った商売は一切禁止
  • 1708   :管理が行き届かないといけないから馬の飼育は一人一頭まで
  • 1709   :徳川綱吉の病没とともに生類憐れみの令は次第に解禁
中野に設置されていた犬小屋の図面

余りにボリューミーなためこのリストでも相当端折っていますが、実際に処罰された人の数は尋常ではなく、また年を追うごとに動物愛護の強度が増しているのが分かると思います。一応押さえておきたいポイントとしては赤背景の部分、ここでは意外と人への配慮もありますが、まあ動物保護の度合いからすれば余りに少ない割合ですね。

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水戸黄門からも猛烈に批判される

この一連の政策は、動物に接する機会が多い民衆にも大きな不安を与えましたが、幕府関係者からも批判の声が相次ぎました。特に水戸藩藩主の徳川光圀(お馴染みの水戸黄門です)は批判派の急先鋒だったらしく、牛や豚の肉を食べるという立場を利用した法令無視だけでなく、徳川綱吉に犬の毛皮を贈るという皮肉っぽいこともしていたそうです。

ちなみに、当時の徳川光圀は鶴を飼っていたらしいのですが、使用人がこの鶴を誤って死なせてしまったことがあったようです。その際の徳川光圀は怒って切り捨てようとしたのですが、「鶴のために人を斬ったら訳わからん」と怒りを鎮めたエピソードが残っており、そのため徳川綱吉と対比的な善人イメージが染み付いていたりします。

でも徳川吉宗には尊敬されていた徳川綱吉

しばしば暴君扱いされがちな徳川綱吉ですが、他の政策を見てみれば名君とも言える善政を布いています。当時の幕府、及び大奥にはかなりの贅沢品が溢れかえっていたようなのですが、こういった歯止めの効かない華美な風潮に待ったを掛けた点は大きな功績と言えるでしょう。

また、徳川綱吉は儒学の振興にも力を入れていたようで、幕臣に対して自ら講義をする程だったとか。そんな徳川綱吉に対して大きな敬意を抱く人物も結構いたようで、後に8代将軍になった徳川吉宗もその一人であり、享保の改革においても徳川綱吉をマネた部分が結構多かったりします。

徳川綱吉を崇拝していた徳川吉宗のエピソードはこちらから。

「生類憐れみの令」が出された時代背景

圧倒的に強い武士階級の地位

それでは、ここからは徳川綱吉がなぜ生類憐れみの令なんて訳の分からない法令を出したか、その前提となる時代背景から確認してみたいと思います。まず、当時の日本はまだまだ戦国時代な荒々しい気風が強く、そのため武士がやたらとオラついていたことがあります。

現代では信じられないことではありますが、当時は武士が辻斬りで民間人に斬りつけるのは普通のことであり、それに対する処罰もかなり軽かったようです。むしろ、家によっては「武士らしくて良い」的なサイコな考え方もあったようで、まあそのくらい人の命が安いご時世だったということです。

戦国時代から続いていた荒んだ気風

最上位の地位を占める武士がそんなんであれば、一般民衆の考え方だって荒くなるのが自然というものでしょう。当時の民間人はほぼ全員が家に刀を所持していたため、ちょっと喧嘩になればすぐ刃傷沙汰に発展していました。

日本人の武器事情と、それに対する政権側の対応「刀狩り」についてはこちらからどうぞ。

このことは都市部よりも農村部の方がより顕著であり、耕作地や水利を巡る村同士の抗争でも武装は当たり前のことです。つまり、江戸幕府が成立したからといって急に日本が平和になったのではなく、人々の心はまだまだ戦国時代と大差なかった訳です。

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「生類憐れみの令」が出された真意の考察

儒教の精神「仁」を尊んだ徳川綱吉

荒々しいご時世であっても徳川綱吉は江戸城生まれの江戸城育ち、下界の喧騒なんか知る由もありません。そんな無垢な人物が当時のリアルな世相を知ったならば、ビックリしすぎて悲しい気持ちになったとしても不思議ではない気がします。

また、徳川綱吉は儒教の普及に務めた将軍でもありますが、その教え「五教」の中でも特に「仁」という他者を慈しむ精神に着目していたそうです。まあ平たく言えば「自分以外にも優しくしましょうね」な感じになりますが、これを大々的な政策方針としたのが生類憐れみの令だったものと思われます。

徳川綱吉が改めて説いた命の価値

この見出しは筆者の考察になりますが、徳川綱吉という人物は生類憐れみの令を通し、当時の感覚そのものを変えたかったのではないかと思います。犬やら鶴やらの命を大切なものとして扱うことで、「当然人の命だって大切に」と訴えたかったのではないでしょうか。

とは言えこの普通な主張も、命を軽んじている多くの人からすればむしろ異常であり、そんなことを強制した徳川綱吉も変人にしか思えませんよね。それに加えて犬小屋の設置といった過剰な措置、そして人気者の水戸黄門との対立もあり、強烈な悪印象が植え付けられたのかなと思われます。

今の日本こそが理想的な状況か

現代日本では少なくとも人を斬り付けたらもちろん犯罪になりますし、それが許される人間も存在しません。ですが、これは「人を傷つけるのは悪いこと」という前提があってこその考え方であり、この考え方がある程度浸透している現代は、言ってみれば徳川綱吉が生類憐れみの令を通して目指した日本そのものです。

もちろん現代だって不当な誹謗中傷が溢れていますし、それが罪として問われるケースもほとんどありません。こういった他人への攻撃にいつかは規制が掛かり、またそれに対して反発が起こるという不毛なサイクル、こんなのを重ねながら人の世は少しずつ良くなっていくのでしょう。

東アジアでは割とメジャーな政策

ちなみに、この生類憐れみの令と全く同じという訳ではありませんが、意外なことに海外でも類似した政策が散見されます。5世紀頃の中国、まあ当時の日本は聖徳太子の登場以前ではありますが、この頃の中国では仏教的な視点から肉食が禁止されています。

また、お隣朝鮮半島の歴代王朝も事あるごとに動物の殺傷禁止令が出されているため、まあ東アジア圏では割と見かける政策だったという訳ですね。かなりの勉強家とされる徳川綱吉であれば、中国史・朝鮮史に詳しくても全然不思議ではないので、この辺も考慮された上で出された政策だったのかもしれません。

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