刀狩りの歴史と没収された日本人の魂

刀狩り その他考察
豊臣秀吉の刀狩り(?)

日本人にとっての刀

刀は日本人の魂

銃刀法がしっかりしている現代日本ではピンときませんが、明治時代までの庶民が刀を所持しているのはごくごく一般的でした。日本人が刀を手放したのは太平洋戦争の後、GHQの主導で武器を取り上げたからで、これがなければ今でも多くの日本人が刀を所持していたでしょう。

誰が言ったのか「刀は武士の魂」なんて言葉がありますが、刀は御神体とされることすらある「神聖な物」であり、なおかつ庶民にとっても大切で尊いモノとして扱われていました。とは言え、普通に考えれば誰もが刀を持っているということはやや物騒ですし、ちょっとその気になればいつでも反乱を起こせちゃう訳です。

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危ないから刀狩りしましょう

だからこそ太平洋戦争後のGHQも必死こいて刀を没収したのですが、この時回収した刀は300万本を越えたそうです。残念ながら昭和初期頃の空気感は分かりませんが、この数から察するに、刀を持っていることは割りと普通だったってことです。

マッカーサーのイラスト
GHQ・マッカーサー元帥

しかし、この誰もが刀を所持していることは統治者の悩みの種だったようで、各時代において刀の押収や規制が布かれました。この刀を押収することを日本史的に「刀狩り」といいますが、まずは武装が当たり前になった理由について考察してみたいと思います。

日本人が武装した理由と考察

徳政相論にて武力を放棄した日本

平安時代の初期、桓武天皇の主導によって「徳政相論」が行われました。この議論は要するに、国軍を持ち続けるか、それとも放棄するかという二択だったらしいのですが、結局桓武天皇は民衆への税負担を考慮して国軍の放棄を選んでいます。

これだけ聞くと「ものすごく良いことをした」感がありますが、この時から日本は無政府状態のカオス状態に陥っており、要するに外敵への対抗手段と治安維持に問題を抱えることとなりました。つまり民衆は犯罪から家族を守るために自衛するしかなくなり、その結果武装しなければならなくなった訳です。

徳政相論と坂上田村麻呂による蝦夷征討についてはこちらから。

自分の家族は自分で守る

大きな理由としては上記の徳政相論がありますが、何もこれは平安初期から急激に武装化が始まったのではなく、むしろ古代から続いた慣習が強化されただけかと思われます。まあ昔の治安なんか現代の日本警察と比較できないでしょうし、むしろ治安部隊が積極的に犯罪に関わったケースも少なくはないでしょう。

そんなご時世の民衆が自衛手段を持つのはごく当たり前ですので、自然の成り行きで刀を持ったというのが妥当でしょうか。隣近所とモメた時にも、自分だけ丸腰というのもマズいでしょうし、暴力に対する抑止力としても武装はマストだったものと思います。

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そんな民衆が武士団を形成

しかし、相手が自衛手段を持っているならば、より大きな暴力で襲えば良いという話ですよね。まあ平安時代頃には野党なんてそこら中にいたでしょうし、数人で襲いかかれば普通の民家はひとたまりもなかったでしょう。

これに対し、大人数での暴力に対抗するためにはこっちも大人数でということで、村同士の協力によって「武士団」が形成されていきました。後にこの「武士団」と、「源氏平氏」などの落ちぶれ貴族が結びつき、地域を代表する勢力へと成長することになります。

刀狩りと銃刀に関する規制

北条泰時の刀狩り

鎌倉時代頃には「帯刀」の文化が完全に一般化しており、武士や農民はもちろんのこと、町民や仏教僧まで皆一様に腰に刀を差していました。鎌倉幕府の3代執権北条泰時はそんな状況を見るに見かねたのか、差し当たって僧侶の帯刀を禁止し、従わない者からは強制的に没収したようです。

初の武家法・御成敗式目を制定した北条泰時についてはこちらから。

北条泰時の後、5代執権・北条時頼はこの非武装政策を発展させ、鎌倉に住む町民たちの帯刀をも禁止しました。この2人の帯刀規制、及び押収が日本で初出の刀狩りとなりますが、この記録が暗に示していることは、当時の人々にとっての帯刀がいかに当たり前だったかということですよね。

豊臣秀吉の刀狩り

帯刀は禁止・保有は黙認

日本史で最も名高い刀狩りと言えば、安土桃山時代に太閤・豊臣秀吉が行った政策ではないかと思われます。豊臣政権では全国的に武具類を押収しまくりましたが、実は根こそぎ奪おうとした訳ではなく、こっそりと所持している刀は黙認という形式をとっていました。

なぜこんな遠回しな政策をやったかと言えば、前述の通り刀は日本人の魂ですので、それを奪うことは逆に反乱リスクを高めるという判断だったようです。ただし、意図としては無駄な刃傷沙汰や一揆をなくそうということで、「家での所持は黙認するけど大っぴらに帯刀するのはダメですよ」くらいだったようです。

豊臣秀吉の嫌らしい方便

この刀の保有だけは暗黙に認めるという、ちょっとニクい趣向が凝らされた刀狩りですが、それでも今までの慣習を否定されて反感を持つ人もいそうですよね。しかし、そこは言葉の魔術師たる豊臣秀吉、嫌らしい方便を用いながら巧みに民衆に伝えました。

  • 回収した武具類は方広寺の大仏として生まれ変わります。極楽に行きたいのなら協力しましょう。
  • 私は百姓たちを愛している。だからこそ、百姓たちが無用な喧嘩で命を落としたりしないように刀狩りしているのだ。

まあいかにも詐欺師が言いそうなセリフではありますが、このようにできる限り反感を買わないように配慮されていました。こうして庶民の大っぴらな帯刀は減少していきましたが、これを引き継いだ徳川家康はちょっとだけイジった進化形を見せてくれます。

江戸幕府の民衆の武装化対策

帯刀を武士のステータスに

江戸幕府が打ち出した政策は豊臣政権からの流用がかなり多く、この身分要素たっぷりの「兵農分離(百姓と武士を切り分けること)」の概念もその一つです。そもそも豊臣秀吉の刀狩りでは庶民に「帯刀しちゃダメ」としていたことで、実質的には「兵農分離」を推進していたという訳ですね。

ただし、江戸幕府の場合は庶民と武士の境目をさらに明確化、「武士以外は帯刀しちゃダメ」という法令を出しました。まあ庶民が帯刀できないのはこれまでと同じなのですが、逆に「武士だけ帯刀できる!」という特典をアピったということです。

次第に緩んだ帯刀規制

とは言え、誰だって刀を持っていれば腰に挿して歩きたいですし、名刀なんか持ってた日には自慢したいのが人情です。それが武士だったら別に問題はないのですが、庶民なら一人で磨くくらいが関の山でしょう。

そんな庶民のニーズと幕府の財政悪化が噛み合ったのか、江戸中期頃からは「帯刀する権利」が売買されていました。また長州藩のように「大体の人が刀を差している」、というように帯刀規制が緩みまくった地域もあったようで、まあ長く続いた規制は次第に緩んでしまうということなのでしょうか。

明治以降の銃刀所持規制

明治維新を済ませて近代国家を目指した新政府でしたが、野蛮な武器の所持はやめましょうということで、刀狩りではなく「廃刀令」という政令を出しました。これは江戸幕府同様に没収してはいませんが、「全員帯刀しちゃダメ」という内容でしたので、要するに保有はOKだった訳です。

しかし、太平洋戦争に敗北した日本にはGHQが設置され、庶民が保有していた不要な刀は全て没収されてしまいました。この刀狩り関連の出来事を振り返ってみれば、日本人が出してきた法令がいかに人情深かったか、そして刀に精神性を感じないアメリカ人のドライさが浮き彫りになった気がします。

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