「米将軍」徳川吉宗の享保の改革・財政編

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享保の改革の焦点となったのは「米価格」です

江戸時代の三大改革の一つ「享保の改革」

「享保の改革」を推進した「米将軍」徳川吉宗

日本史の時間で江戸時代について学んだ人も多いかと思いますが、今回の記事では江戸幕府による三大改革の一つ「享保(きょうほう)の改革」についてご説明したいと思います。この改革では第8代将軍・徳川吉宗(よしむね)が中心的な役割を果たしていますが、この吉宗という人物は子供の頃は相当ヤンチャ坊主だったようで、将軍になった後にそれが原因で「暴れん坊将軍」なんて異名が付けられています。昭和時代にはそのまんまのタイトルでドラマも放映されていますが、作中では政治色はかなり薄めというかほぼ皆無です。

また徳川吉宗は「暴れん坊将軍」以外にも異名がつけられており、巷では「米将軍」という通称で親しまれています。こちらはなんとなく大食い感のある異名ですが、その由来は米の価格や流通量の操作に尽力したが故であり、残念ながら(?)お米を食べるのが大好き将軍ではありません。この記事では徳川吉宗が取り組んだ財政改革をメインに据えておりますので、それ以外の内容については下のリンクからお願いいたします。

「享保の改革」の背景と必要性

江戸幕府の土台は米中心の石高制度

そもそも徳川吉宗がなぜ改革を考えたかと言えば、シンプルに江戸幕府の財政状況が深刻に悪化していたからです。またこの時点で江戸幕府は100年以上も続いていたのですが、制度的にすでに時代の実情に合っていない部分も多かったものと思われます。徳川家康が戦国時代を勝ち抜いた直後はまだまだ殺伐とした空気もあったでしょうが、この徳川吉宗の時代は100年の平和が続いた後ですので、人の感覚や経済状況が変わっていても全く不思議はないですよね。

徳川家康が樹立した江戸幕府も豊臣政権と同様に、お米の収穫量をベースにして大名達を格付けする「石高制」を採用していました。当時の幕府大名の基本的な税収はお米だったということで、単純に石高が高い大名ほどリッチで偉い訳ですね。ところが長く続いた平和は農村の生産力を引き上げてしまったようで、消費する以上のお米が収穫できるようになりました。単純に収穫量が増えた事は日本にとってプラス材料なのですが、余ったお米が売られるようになって流通量が増加し値段が低下してしまいました。

米価安と鉱山資源の枯渇による財政悪化

先程もお伝えした通り幕府や大名が税として得られるのはお米ですので、その税収で得たお米を換金して経営をやり繰りしていました。そんな体制の中で米価が下がるということは換金時の価値も下がるということで、当然ながら幕府や大名達は米価の低下に合わせて収入が減ることになります。「収穫量が増えたんだから税収も増えてトントンなのでは?」なんて意見もあるかもしれませんが、実は当時のインフレ率に米価だけが取り残されており、米以外の物価がひたすら上がり続けている状態でした。そして1720年代の享保年間に入るとそこからさらに米価が半分程に暴落、米の売却益をアテにしていた武士階級が軒並み困窮したという訳です。

だったら税収の対象を現金にすればとか思ってしまいますが、そもそも江戸幕府は石高制を土台にして諸大名を統治しており、ここを変えると幕府そのものを否定することになりかねません。またさらに悲しいことに、佐渡金山や石見銀山といった「金の成る木」、もとい鉱山からの産出量は徐々に減少傾向にありました。そんな状態を放置し続けた結果、6代将軍・徳川家宣の頃には支出140万両に対して収益は76万両、この大赤字を改善するために徳川吉宗が改革に挑んだという訳ですね。

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「米将軍」徳川吉宗の経済戦争「享保の改革」

米の流通を制限して価格操作を図るも

物の値段は今も昔も需要と供給のバランスで決まるため、要するに物不足に対して米の流通量が多かったことになります。だったら物不足を改善すれば良いだけの話ですが、急に品物の生産・製造量を増やせる訳もないため、こちらの方策はとりようがありません。という訳で徳川吉宗はまず米の流通量を減らす方法を試み、買い占めによって米価上昇を目論見ました。

しかしこの政策は結論から言えば大失敗、幕府の市場介入があったにも関わらず下落は止まりませんでした。この時は諸藩の米売却をも制限するという念入りな施策だったのですが、それでも暴落を止めるには至らず、むしろ買い入れた分だけ損をするという結果に終わっています。それならば流通量を増やしてみようということで諸藩の米売却を解禁しますが、やはり米価はひたすら下落し続けました。という訳でお米の流通量で価格をコントロールする作戦は失敗に終わり、徳川吉宗は方向転換を強いられることになります。

米価安を解消するために流通貨幣を増加

ここで徳川吉宗は財務に詳しい幕僚と相談、次なる作戦として「通貨の量を増やす」というアイデアを採用しました。とは言えすでに国内の金山・銀山の産出量は頭打ち状態であり、当時の貴金属を用いた貨幣を新規で大量に作ることなどできません。ですがここでの通貨量の増加とは新規造幣ではなく、「元からある金貨・銀貨の純度を下げて鋳造し直す」、という一見して乱暴なアイデアでした。

この徳川吉宗の政策アイデアは米自体の価値を上げようというものではなく、お金の価値を下げながら流通量を増やし、米価を上げようというかなり大胆な方法論です。普通に考えたらこの政策をとれば米価自体はもちろん上がりますが、全体的なインフレで同時に他の物価も上がってしまうため、トータルで見たらトントンな気がしますよね。それでも徳川吉宗は当時の米価安、そして物価高の原因を貨幣不足による価格異常と判断したのですが、このことは日本が古来より抱える問題が関係しています。

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慢性的に貨幣不足だった日本

結構ビックリする話ではありますが、古代から中世の日本で製造された貨幣はごく僅かしかありません。では日本で流通していたお金はなんだったのかと言われれば、「大半の貨幣は中国からの輸入品だった」という答えになります。現代では日本製の紙幣を使っている海外の国も結構ありますが、江戸時代以前の日本はむしろ輸入した銅銭が主な流通貨幣となっていました。つまり中国との貿易を続けていないと貨幣量は増えないことになりますが、元寇やら日明貿易の停止やらで国交が停止していた時期も多かったため、日本は慢性的に貨幣不足だった訳です。

中世日本の貨幣事情についてはこちらからどうぞ。

ですが時が下って江戸時代に入ると、ようやく幕府が鋳造した国産の銅銭が出回るようになりました。とは言え銅は採掘によって得られる天然資源であるため、比較的多く産出していたもののやはり量は安定しなかった訳です。1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、この享保年間までの130年で日本人口は2倍以上に膨れ上がりました。ということは貨幣の流通量は少なくとも2倍以上は必要なことになりますが、そこまで大量の銅はないということで、徳川吉宗は逆転の発想で一文銭の鋳造に取り組んでいます。

鉄製の一文銭も作っちゃいます

「享保の改革」での徳川吉宗は「銅」を材料とせず、「鉄」を用いた「一文銭」を鋳造しました。当たり前ではありますが銅より鉄の産出量の方が圧倒的に多いため、このタイミングで大量の鉄製「一文銭」が鋳造されています。これによって不足気味だった一文銭が大量に市場に流れ、銀貨・金貨の改鋳と合わせて全体的な流通貨幣量が一気に増加しました。

もともと江戸時代の一般庶民は銀貨や金貨にはほとんど縁がなく、使うお金の大半は一文銭だったとされています。平和な時代に膨れ上がった人口、そして民衆レベルにまで貨幣経済が浸透したことは喜ばしいことですが、それによって最も流通しているべき一文銭が不足したのはちょっとした皮肉でしょうか。また鉄は銅に比べて圧倒的に錆びやすいという欠点があるため、定期的に回収して鋳なおす手間があったことはデメリットと言えるでしょう。ですが鉄製一文銭と金貨・銀貨の改鋳によって市場の流通貨幣が増加、このことによるメリットで「享保の改革」の目的が果たされることになります。

安土桃山時代から江戸時代の貨幣についてはこちらからどうぞ。

幕府財政の改善に成功した徳川吉宗

これまで様々な取り組みをしてきた徳川吉宗ですが、流通する貨幣量を増加させたことで米を含む物価が正常化され、ここでようやく米価が上昇し始めました。もちろんこの時には米だけでなく全体的なインフレが起きてはいますが、米価は物価の高騰以上に回復しており、「享保の改革」前と比べて米価は倍以上にまで伸びています。これによって主目的である幕府財政の改善が成され、「享保の改革」前半の米収入の増加がここでようやく実を結んだという訳ですね。

安定した幕府財政の裏側で

大幅に増えてしまった庶民の負担

米価高になったことで江戸幕府はようやく財政難を乗り切り、この後しばらくの間は金蔵にお金が貯まる一方となりました。ですがここで視点を庶民の方に移してみれば、米価が倍以上に膨れ上がって毎日の食費が激増しており、当然ながらこんな状況は歓迎できる訳もありません。とは言えこのことは食料を買って生活している町民の話であり、実は一次生産者たる農民はもっと悲惨です。

よくよく考えれば農民にとってはただの増税

米価が上がったことで「農民の収入も上がったんじゃないの?」とか思ってしまいますが、実際は全然そんなことありません。むしろ「享保の改革」前半で打ち出された「定免法(じょうめんほう)」によるダメージが深すぎて、ここからの農民は生きるだけでもギリギリの日々を送ることになります。

そもそも「定免法」は「五公五民」、つまり平均収穫高の50%に決められていますが、それまでの「検見法(けみほう)」では「四公六民」、つまりその年の収穫高の40%を納税することになっていました。ですが「検見法」ではあれやこれやと減税があったようで、実際のところは30%に満たない税率だったようです。ところが「定免法」では額面通りの50%を納税する必要があったため、要するに農民にとっては納税量がほぼ倍になっただけです。

農民の苦境は明治時代まで続く

しかも「定免法」は年毎ではなく長い期間の平均収穫高の50%ですので、不作の年だって普通に同じ量のお米を税として納める必要があります。最悪のケースを考えれば納税したら手元に一切の食料が残らないことすらあり、実際に飢饉の年にも同様の税率で徴収され、大量の餓死者が出た年もあったりします。というのもこの「定免法」は幕府財政を安定させるための税制でしかなく、農民にはむしろシワ寄せがいく地獄の税制だった訳ですね。

一応この記事は「享保の改革・経済編」ではあるのですが、幕府財政が安定した裏側でこんなことが起きていたよ、ということで農村での苦境も書かせていただいています。江戸幕府が開府されて以降、徳川吉宗が現れる享保年間までに日本人口はほぼ倍にまで成長しました。ところがこの「享保の改革」以降は明治時代に入るまで人口は横ばいですので、この改革が庶民にとっていかに理不尽だったかの証明とも言えるでしょう。そんな時代を経て今の日本に至っていることを考えれば、我々現代人に用いられている制度がいかに合理的、そして公平であるかを考えさせられてしまいます。

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