「米将軍」徳川吉宗の「享保の改革」

「米将軍」徳川吉宗のイラスト 江戸時代のまとめ・その他記事
「米将軍」こと徳川吉宗

徳川吉宗が主導した「享保の改革」

江戸幕府の8代将軍は時代劇ドラマでもよく取り上げられる、「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗です。この異名は徳川吉宗の子供時代に由来しているそうで、冗談抜きで暴れ出したら手が付けられない、そんな荒々しい性格をそのまんま表現したらこうなった訳ですね。ヤンチャな子供というのも結構そこら中にいたりしますが、将軍まで付くくらいですから相当なものだったのでしょう。ちなみに徳川吉宗には暴れん坊以外にももう一つ通り名が付けられており、それは「米将軍」といういかにも大食いしそうな名前だったりします。

もちろんこの「米将軍」という通り名は食欲には全く関係なく、徳川吉宗という人物が取り組んだ「享保の改革」に由来しています。この「江戸時代の三大改革」に含まれる「享保の改革」が始まったのは1716年、この時期は260年続いた江戸時代の大体中頃に当たります。江戸時代はほぼ戦争のない平和な期間でしたが、その間の世相の移り変わりに制度がついていけず、この時期には明らかな矛盾が現れていました。その矛盾をなんとか解決しようとしたのが「享保の改革」だったという訳で、それでは代表的な政策を一つずつ見ていきましょう。

「享保の改革」の主な政策

「米将軍」徳川吉宗の農政・税制改革

参勤交代を免除する代わりに米を徴収・上米の制(あげまい)

江戸幕府の3代将軍・徳川家光の統治下において、諸大名は1年江戸で過ごしたら1年自国で過ごすという、いわゆる参勤交代が制度化されました。この制度では移動に掛かる時間や手間もさることながら、大所帯での移動経費や物価が高い江戸で生活を強いられたため、諸大名にとっては大きな経済的負担がノシ掛かっていた訳です。

財政改革を目指す徳川吉宗はこの参勤交代での負担に着目、大名の江戸での居住期間を半年にし、その代わりに浮いた費用をお米で徴収する制度を取り決めました。これによって江戸幕府はもちろん収入増、また諸大名からすれば幕府にお米を取られるものの、物価が高い江戸での生活を短縮できてトータルではお得だった訳です。この制度は「上米の制」なんて呼ばれていますが、「米をくれれば参勤交代の期間を減らすよ」というトレードの形をとっているため、諸大名にとっても割りと納得しやすい政策だったのではないでしょうか。

徳川吉宗のイラスト
暴れん坊感薄めな徳川吉宗のイラスト

町民の資金で新田開発

「上米の制」もそうですが、徳川吉宗は「米はあったらあっただけ良い」的な考えだったようで、耕地の開拓による増産も試みています。とは言え幕府財政はとっくの昔から火の車、新規の開発事業に手を付けるための資金など残っていません。それでも米の増産をしたい徳川吉宗は一計を案じ、町人の資金を使った新田開発に手を付けました。

実はこの「町民に開発を請け負わせる」という方法は本来幕府法で禁じられていたのですが、財政難の折にそんなことは言っていられなかった訳ですね。江戸時代という平和な時代は経済の発達を促したようで、当時の江戸や大阪には唸るほどお金を持つ商人がワンサカいました。こういった商人達の利権をある程度認めることで資金提供を受け、大規模な新田開発に成功しています。これまで幕府の直轄領は400万石程度だったのですが、この新田開発によってなんと50万石がプラス、12.5%アップの450万石にまで増加しています。

石高についてのご説明はこちらからどうぞ。

税収を固定化した「定免法(じょうめんほう)」

米の収穫高ではなく平均値に基づく税法

日本における租税、つまり米の税はその年の「収穫高の何割」というのがスタンダードです。何割であるかはその時・土地の統治者によって異なりますが、「その年の収穫高」をベースにしている部分は古代の頃から全く変わっていません。これを統治者目線で見てみれば、豊作の年には税収が増加することになりますが、逆に不作の年には当然税収が減ってしまう訳ですね。つまり「収穫高」を根本に置いた税制では税収が不安定になるということで、徳川吉宗はここにも尖すぎるメスを入れています。

ここで制定された「定免法」は年ごとの「収穫高」ではなく、数年の収穫高の平均値を算出し、その平均値を基準にして納付する量を定める税法です。これまでは毎年の税収が「その年の収穫高」に依存していましたが、この「定免法」では平均値を用いることで納税量を「固定」できる、つまり毎年一定量の税収を得られるという訳ですね。

幕府の税収は安定したものの農民の負担は増加

これまで江戸幕府の直轄領では租税の割合は「四公六民」、つまり年ごとに米の収穫高の4割が納税の対象となっていました。豊作で大量に収穫が上がっても、また不作で収穫量が少なくても4割を納めていた訳で、「享保の改革」までは意外と現代の税法とほぼ同様だったことになります。ところが「定免法」では収穫高の平均から納税量が算出されたため、その年の収穫高はほぼ関係なく税額が決められてしまいました。ということは、農民にとって豊作の年は大量の米を手元に残せますが、不作の年はかなり悲惨に、そして最悪のケースでは「収穫高<納税量」すらあり得た訳です。

・「五公五民」での収穫高に対する課税量と農民の収益

・収穫高が12石の年には12-5で7石が農民の取り分

・収穫高が8石の年には8-5で3石が農民の取り分

・凶作で収穫高が4石の年には4-5で-1?(おそらく取り分無しで借金して納税していた)

とは言え「定免法」を取り決めた徳川吉宗としては、この状況はある程度想定内だったものと思われます。また「定免法」と同時ではないのですが、後から税率が引き上げられており、この「享保の改革」の期間中に「五公五民」と定められました。つまり「定免法」は最悪の事態を招く可能性が高い上に、農民の立場からすれば単純な増税でしかありませんでした。さすがに農民にとってこの増税はキツすぎたのか、この時期以降から農民一揆の数が激増、さらに社会不安が蔓延するという副作用付きの政策だったりします。

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「享保の改革」における徳川吉宗の民政

誰でも無料で利用できる就労施設「小石川養生所」

近世の江戸は世界的に見ても特大の大都市であり、様々な身分の人間が蠢いていました。その中には無宿人・浪人と呼ばれる浮浪者まがいの人もおり、また元犯罪者など社会的に敬遠される人も多かったようです。そんな人々はまともに仕事をしたくてもどうにもならないこともあり、生きていくために犯罪に手を染めて生計を立てたこともあったでしょう。

「小石川養生所」はそんな人達の救済施設として造られ、食事や手に職をつけるための指導が受けられたようです。その際の費用は掛からなかったようで、現代的な言い方に直せば「無料で食事も摂れる職安」くらいでしょうか。さすがは人情味溢れる「暴れん坊将軍」ならではの政策、と言いたいところではありますが、徳川吉宗の意図としてはむしろ浮浪者による犯罪の予防だったものと思われます。

江戸の町を火事から守る!「町火消し」の制度化

「ケンカと火事は江戸の華」なんてフレーズがありますが、要するに江戸の町では頻繁にケンカと火事が起きていた訳ですね。ケンカはまあ当人同士の問題で済んでしまいますが、火事は周囲の人間をも巻き込むためシャレになりません。ですが江戸の町は住居が密集しており、なおかつ当時の住居は完全に木造建築ということで、ひとたび火事が起これば簡単に延焼する環境が整っていました。江戸時代は260年くらい続いていますが、その間に江戸で起きた火事はなんと1700件を越えており、江戸時代の三大火事の一つとされる「明暦の大火」では江戸城の天守閣すら焼失しています。

そんな災害が頻繁に起きていたにも関わらず、なぜか江戸の町には幕府が運営する消防機関が存在していませんでした。「それじゃまずいよね」ということで徳川吉宗が一念発起、ここでようやく「いろは48組」から成る「町火消し」が立ち上がりました。ちなみに当時の日本では政府機関による消防組織があったのは江戸だけであり、他の大都市にもそんなものはありません。これはいかに江戸が火災だらけの都市だったかを表しており、財政難の江戸幕府ですら手を付けざるを得なかったということですね。

民衆の意見を将軍に直接お届け「目安箱(めやすばこ)」

日々の不満や政策の意見など、この「目安箱」に投書を出せば誰でも匿名で将軍に意見できるというものですね。現代の市役所にも似たような物があったりしますが、その意見が実際に政策に反映されたか謎な部分も同様でしょう。どちらかと言えば投書を出した人間が「言ってやったぜ」的な気持ちになれるということで、社会的な不満のハケ口となっていたと考えるのが妥当でしょうか。

身分が低くても優秀なら給料アップ・足高の制(たしだか)

これは民政とはちょっとズレてしまいますが、類似する括りがなさそうなのでここに記載しています。江戸時代の幕府人事は基本的に血縁が最優先され、個人的な能力なんか二の次です。つまりいかに能力があっても名門に生まれなければどうにもならず、要職に就くことなんかあり得なかった訳です。ですが「享保の改革」という大事業を前にした徳川吉宗にとって、優秀な人材の確保はむしろマストだったのでしょう。生まれが良いだけの幕府官僚よりも頼りにできる人材が欲しい、そんな想いで作られた制度が「足高の制」です。

この読みは「たしだか」と読みますが、要するに足し算のように足す、つまり「石高を足す」という意味で用いられています。この制度は要職についた人物に対して一時的に石高を増し、他の官僚とも渡り合えるパワーを与える目的で制定されました。この「足高の制」によって抜擢された代表例として、名奉行として名高い「大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)」という人物がいます。この大岡忠相による裁判は「大岡裁き」という通称が付くほど公明正大だったようで、徳川吉宗の人を見る目は正しかったと言えるでしょう。

大岡越前守忠相
名奉行として名高い大岡越前守忠相を描いた時代劇ドラマもありました

実はこっちが「米将軍」の由来・経済政策

若干的外れだった農政・税制改革

徳川吉宗は上米の制・定免法・新田開発とお米に関する政策に積極的で、いかにもこの一連の農政・税制改革こそが「米将軍」の由来な気がしますよね。ところがどっこい、実はこの農政・税制改革だけでは大した成果が上がらず、改革の目的である「崩れ落ちそうな幕府経済を立て直す」は実現できなかったんです。

江戸幕府は豊臣政権が採用していた「米本位制」を流用しており、土地の価値は「石高」という米の収穫量で表現されていました。当時の人口の大半を占める農民からの税収はもちろん米だったのですが、米というのは今も昔も相場で価格が決定しており、お金に換算したとすればやっぱり安定収入にならない訳です。つまりいくら米収入を増やしたところで税収は安定せず、むしろ江戸幕府が米を売ろうとすればする程に米の相場額は下落の一途を辿りました。

米収入の価値を下げる米価安との戦い

そんな状況を解決しようとした徳川吉宗は、「享保の改革」において序盤こそ農政・税制に取り組み、実際に徴収した米の量はかなりの割合で増加しました。ところが米がいくら増えても米価が暴落し続けた、と言うよりもむしろ米の流通量が増え過ぎたためにさらに米価が下落、つまり一連の農政・税制改革によって江戸幕府はさらなる財政難に陥った訳です。徳川吉宗も改革を始めてからようやくその辺を理解したようで、地方から江戸に米を集中させてしまう「上米の制」はわずか9年で廃止されていたりします。

そんな失敗で学びを得た徳川吉宗は、幕府財政を立て直すためには「農政ではなく米の価格操作!」ということで、極端な方針転換を図り米価の上昇を目指しました。つまり農政での財政の改善ができなかったから経済に手を出しただけであり、その目的はあくまで「幕府財政の立て直し」です。そして徳川吉宗は様々な方法論を試して米価の向上に成功していますが、実は「米将軍」という異名はこの経済改革に由来しており、「米価の操作にメッチャ頑張った将軍」という意味だったりします。この徳川吉宗の財政改革は大半の失敗で彩られていますが、説明やら内容があまりに多くなったために別記事にてまとめます。

米ではありませんが現代の相場と言ったらこれ!

「享保の改革」の影響・「朝令暮改」による信頼性の失墜

朝に法令を出して夕方には変更する、つまり法令がコロコロと変わることを「朝令暮改」と言われますが、「享保の改革」はまさにそれです。改革の内容として記載したものはあくまで「比較的うまくいった法令」でしかなく、実はそれ以外にも大量のダメ政策が取り消され破棄されています。前述した「上米の制」なんかはその典型であり、事情があったにせよ制定されてから9年で廃止されています。

直接関係のない我々からすれば、「最終的に上手くいったのなら良かったのでは?」なんて思ってしまいそうですよね。ですがリアルタイムで法令を受け取った人々の気持ちとしては、「はいはい、毎度のことですね」「これもどうせまた変わるんでしょ?」くらいに思うのが必然でしょう。つまり「享保の改革」は結果的に幕府財政を立て直しはしたものの、江戸幕府そのものが「ナメられる」という悪影響をも及ぼしたという訳です。

「享保の改革」のまとめ

改革とは基本的に「誰かに不条理のシワを押し付ける」ものであり、全員にメリットがある改革なんかほぼないと言えます。これは古代から現代まで変わらない不変の真理であり、「あちらを立てればこちらが立たず」ということわざの内容そのものでしょう。

今回ご紹介した一連の改革では、幕府にとっては「米税収アップ・米価アップ」で終わっていますが、農民にとってはただの「増税」であり、町民にとっては「安かった米が高くなった」だけですよね。江戸時代が始まって以降、享保年間までに日本の人口は3倍近くに増加していますが、実はこの改革以降は明治期に入るまで横ばいです。つまり「享保の改革」を契機に人口増加が止まった訳で、この改革はそれ程までに庶民の生活を圧迫したのでしょう。

この「享保の改革」は江戸時代の折り返し地点、西暦にすると1700年代の序盤から中盤にかけて行われています。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのが1600年ですが、それから百年と少しの間に経済が急激に発展したことで、農業を根本に置く武士社会と矛盾が生じたからこそ改革が必要だったのでしょう。良かれ悪かれ日本に大きな影響を及ぼした「享保の改革は、江戸時代の三大改革の一つとされ、後の「寛政の改革」や「天保の改革」のモデルとして流用されています。

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