徳川家康配下の名将達・徳川四天王

江戸時代

仏教四天王に例えられる徳川家の名将たち

みんな大好き武将グループ

徳川家康の江戸幕府創立に関わった人物は数多くいますが、中でもダントツで功績が高かった4人の武将達を指して徳川四天王と呼ばれます。この「四天王」という言葉はもともと仏教の四天王、「持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)」を指しているのですが、あまりに便利で響きが良いためか様々なところで用いられていますよね。

日本の戦国時代においてもこの表現は非常に好まれたようで、武田四天王やら龍造寺四天王やら日本各地に四天王が存在していたりします。これが江戸時代に入ると人数の規模がさらに大きくなり、黒田八虎やら徳川十六神将やらが創作されていますが、ひょっとしたらAKBや乃木坂もこの延長線上にいるのかもですね(冗談です)。

ただの色違いにも見える仏教四天王

徳川四天王という言葉は日本だけでなく、明治時代頃には海外の著書でも紹介されています。本来は本多忠勝井伊直政・榊原康政の3人を指して「徳川三傑」と呼ばれていたのですが、そこに譜代家老の筆頭・酒井忠次を混ぜて四天王とされたようです。ということで世界史上でも随一の平和な時代、江戸時代を作り上げた4人を一人ずつざっくり目にご紹介いたします。

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徳川四天王の中でも最も華麗な戦歴を持つ豪傑・本多忠勝

肖像だとゴツすぎる男・本多忠勝

他家からも世間からも認められた豪傑

徳川四天王と呼ばれる武将達の中でも、飛び抜けて華やかな戦歴を持つ人物こそがこの本多平八郎忠勝でしょう。本多忠勝は徳川家康直轄の旗本部隊としてキャリアをスタート、すると初戦の三河一向一揆から大活躍し、その後の戦闘でも毎度のように武勲を挙げ続けました。その華々しい活躍は徳川家中だけでなく敵対していた大名家でも賞賛の的となり、あまりに優れた武者ぶりは当時謳われた川柳にも表れています。

家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八

この川柳は本多忠勝が主君である家康にとって過ぎたるもの、つまり「家康にはもったいねー」と言われる程に優秀だったことを意味しています。そんな忠勝は指揮官としても普通以上に優秀だったらしいのですが、集団戦闘が当たり前となっていた戦国時代において、滅多にお目に掛かれないスタンドプレーも得意としていました。

一騎駆けでも無傷で生還

織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が激突した姉川の戦いは、開戦当初から両軍一歩も引かない一進一退の攻防が繰り広げられました。そんな焦れったい展開がしばらく続いていたのですが、それを見た本多忠勝はなぜか単騎で朝倉軍に突撃するという暴挙に出ています。

これに焦ったのは徳川家康、一騎駆けをカマした本多忠勝を救出するために全軍で突撃開始したのですが、この猛攻がキッカケで朝倉・浅井連合軍が大きく崩れてしまいました。そんなこんなで姉川の戦いは織田・徳川連合軍が大勝利を収めているため、結果的にではありますが本多忠勝の無謀な突撃が突破口を開いたとも言えます。

なぜか敵からも褒められる

また本多忠勝は小牧・長久手の戦いでも単騎で豊臣軍2万の前に立ちはだかり、時間稼いで崩れた部隊を救出するという、もはやマンガの主人公であるかのような離れ業も見せつけています。その見事すぎる立ち振舞に敵の豊臣秀吉ですら大絶賛、戦後に褒美が贈られるという謎の出来事まで起きました。

本多忠勝は生涯で57回もの戦闘に参加しているのですが、相当無謀な行動を取り続けていながら傷一つも負わなかったそうです。まさに徳川家の武の象徴として、この忠勝の存在は戦場だけでなく家康の面目を保つために大いに貢献したものと思われます。

本多忠勝についてはこちらからどうぞ。

武田の赤備えを継承した「井伊の赤鬼」井伊直政

徳川家中のニューカマー

やたらとスマートな井伊直政

本多忠勝が華々しい活躍を続けるスターであるならば、この井伊直政は寡黙に仕事をこなし続ける職人肌の武将と言えるでしょう。直政は桶狭間の戦いの翌年に生まれた若い世代ということで、本能寺の変が起きた1,582年に元服し、ここでようやくいっちょ前の武将としてスタートを切りました。ですがその後の主要な戦いではめざましい武功を挙げており、天正壬午の乱や小牧・長久手の戦い、そして関ヶ原の戦いでも根性と高い能力を示しています。

若くして出世したが故のヤッカミも

井伊直政は比較的小柄な体つきで童顔だったらしく、しかも若くして高い地位を得ていたことで、敵だけでなく味方からもナメられやすかったそうです。徳川四天王と呼ばれるメンツの中でも当然ながら最若年だったのですが、家康の配慮で武田の遺臣を配下にしたこともあり、それをヒガんだ榊原康政や本多忠勝からお小言をもらうことも多かったとか。

ですが直政はそんな嫌味に負けるどころかさらに奮起し、武田の赤備えと自身の部隊を上手く融合させて数々の武功を挙げ続けました。その見た目に似合わない勇猛果敢な突撃、そして赤い甲冑を纏ったその姿をして、直政は「井伊の赤鬼」という恐怖と称賛が入り混じった異名を付けられています。

井伊直政についてはこちらからどうぞ。

徳川四天王の中でも最古参の筆頭格・酒井忠次

ものすごい叫んでいる酒井忠次の銅像

酒井忠次は徳川四天王の中でも最古参と言うか、むしろ主君である徳川家康より16歳も年上だったりします。酒井氏は代々松平氏とかなり濃い目の血縁関係を結んでおり、親戚として主君を支える譜代中の譜代と言える家柄でした。そのため忠次は家康がまだ「竹千代」という幼名を名乗っていた頃から仕えており、「竹千代」が今川義元に人質に取られた際にも同行している、だいぶ年上の兄ちゃん的な存在だったものと思われます。

そんな忠次に対して家康も厚い信頼を寄せていたのか、桶狭間の戦いが終わって今川家から独立すると酒井忠次を家老に任命しました。忠次も家康の想いに応えたのか多くの戦場で武功を挙げており、酒井氏の大半が敵に回った内戦・三河一向一揆でも家康の側として戦っています。その後の駿河侵攻戦や姉川の戦い、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いなど、家康の有名な戦争には片っ端から参戦しており、特に長篠の戦いでは織田信長にも激賛された奇襲攻撃で勝利に貢献しています。晩年の忠次は目の病で視力が失われ引退を余儀なくされていますが、関ヶ原の戦いでは長男の酒井家次が活躍、酒井家の出羽庄内藩は江戸幕府を支える譜代大名として幕末まで存続しています。

「無」の旗を掲げた謙虚な名将・榊原康政

榊原康政は若干ぽっちゃり目

自らの想いを旗に掲げる

戦国時代の武将達は戦場をハレの舞台と捉えていたのか、意匠を凝らした甲冑を纏い、奇抜なデザインの飾りがついた兜をかぶって参戦していました。そんな武将達のこだわりは「旗」にまで及び、自らの存在を示すためだけでなく信念を掲げていた人物も結構多かったりします。仏教四天王に含まれる毘沙門天の「毘」の字を掲げた上杉謙信、「大一大万大吉」という理想を掲げていた石田三成も文字の旗を使用していますが、そんな中でも徳川四天王・榊原康政の「無」一文字の旗印は異彩を放っています。

その謙虚さには徳川家康すら感服

この「無」の文字は無欲で徳川家康に仕えること、そして常に無名の武将のつもりで戦いたい、そんな康政の想いが込められていたそうです。それは命の危険が常に伴う戦場においても発揮されたようで、特に長篠の戦いにおいては武田騎馬隊の突撃にも一歩も引かず、必死に防戦しキッチリ徳川家康を守りきっています。

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、康政の長年の功労に報いるために領土の加増を打診していますが、康政はアレコレ理由を付けて断ったそうです。家康はそんな康政の謙虚な態度に感動してしまったそうで、「徳川家は榊原康政に対して借りがある」という内容の証文をわざわざ作成しました。その後江戸中期に榊原家は改易されそうになっているのですが、この証文があったために改易が取りやめになっているため、百年近く経った後に家康はようやく康政に「借りを返せた」というワケですね。

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