蘇我馬子は仏教と血縁と暴力を駆使して盤石を目指す

蘇我馬子のイラスト 飛鳥時代の人物録

蘇我稲目と物部尾輿の崇仏論争の続き

百済からの仏像と日本人初の僧侶・善信尼

仏教を取り入れるかでモメ続けていた蘇我稲目と物部尾輿がほぼ同時に亡くなり、さらに後を追うようにして欽明天皇が亡くなると、蘇我氏の血が入っていない純粋な皇族・敏達天皇が即位しました。その純血ゆえか敏達天皇は当初廃仏派に傾いていたようで、蘇我稲目の長男・蘇我馬子の仏教推進策は全く実らず、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)の後塵を拝し続けていたようです。そんな状況が10年程続いた後、なんとかして仏教の国教化を進めたい馬子の祈りが通じたのか、朝鮮半島の友好国・百済(くだら)から一体の仏像が贈られてきました。

物部守屋のイラスト

この贈られてきた仏像のことを聞きつけた馬子は、ここぞとばかりに必死に懇願し貰い受けることに成功しました。そして朝鮮半島から渡ってきた元僧侶を探し出すと、司馬達等という人物の娘を無理やり弟子入りさせ、「善信尼」という法名を名乗らせました。馬子はさらに「善信尼」に2人の娘を弟子にとらせ、3人になったうら若い尼僧たちを馬子が敬うという、なりふり構わない方法で仏教の普及に努めています。

この「善信尼」は男女問わずに日本人初の僧侶となった、仏教寄りの目線で見れば記念碑的な人物です。ところがこの「善信尼」は出家した当時11歳という若さであり、また弟子となった2人も同年代の女性でした。このことは当時まだ仏教が全く世間に浸透していなかったため、よく分かっていない子供を出家させた、またはなんとかして普及させようとする馬子の焦りで無理やり出家させられてしまった、とも考えられます。

蘇我馬子自身の病気にかこつけて仏教推進するも

「善信尼」という仏教のシンボルを自ら作り出した蘇我馬子でしたが、その翌年にちょっと重めの病気に罹ってしまいました。ここで馬子は病気の原因を占い師に占わせると、「父の蘇我稲目の頃に仏像が壊された祟りです」と言われたため、馬子は即座に敏達天皇に仏法を祀る許可を届け出ています。これまで廃仏派に傾いていた敏達天皇でしたが、さすがに重臣の病気は心配だったようで、しょうがないねということで仏像を祀る許可を出しました。ところがこのデリケートなタイミングで疫病が蔓延し、またも崇仏派はピンチに追い込まれることになります。

この時に流行った疫病は「疱瘡」とされており、後の時代には天然痘とも呼ばれる非常に致死率の高い病気でした。またこの疫病は感染力も結構高かったようで、一般庶民だけでなく貴族達も罹り多くの死者が出たとされています。物部守屋や中臣勝海(なかとみのかつみ)といった廃仏派達はこの疫病を仏教のせいだとし、敏達天皇も2人の報告を受けて即座に仏像を祀ることを中止する命令を出しています。

さらに仏教の根絶を狙う物部守屋は、馬子が建造した寺院を焼き払い仏像を海に投げ込みました。そして日本初の僧侶・善信尼を含む3人の尼僧を馬子の元から引っ張り出すと、3人共全裸にした上で尻をムチで打つというかなり鬼畜な所業に出ています。とはいえ尼さんにムチを打って疫病が収まるなんてことはなく、むしろ物部守屋と敏達天皇も病気に罹ってしまいました。それを知った馬子は「そりゃ仏像を焼いたからです」という反撃を繰り出し、崇仏派のプチ勝利でこのドタバタ劇は一旦幕を閉じます。この段階ですでに馬子と物部守屋の関係はかなり険悪になっており、もはや政治の域を越えた嫌悪感をお互いに持っていたものと思われます。

蘇我馬子と物部守屋の小競り合い

崇仏派が一矢報いる形で一段落ついた崇仏論争でしたが、馬子自身の病状は一向に回復しなかったため、蘇我馬子はまたも敏達天皇に仏法を祀る許可を申請しています。敏達天皇もさすがにこれまでのドタバタに嫌気がさしていたのか、今回は馬子が個人的に仏法を祀ることだけを許可し、勾留されていた善信尼ら3人を馬子の元に戻しました。

そんなことがあった2ヶ月後、敏達天皇が再び病に倒れ、今度は帰らぬ人となってしまいました。その葬儀の席でまず馬子が弔事を述べ始めると、比較的小柄な馬子が大きな刀を差していることに対して物部守屋が嘲りの言葉を投げつけました。

まるで矢で射られた雀のようだ

天皇の葬儀という国家レベルの儀式中にあるまじき暴言ではありますが、馬子は悔しさに身を震わせながらもなんとか弔事を述べ終わりました。そして物部守屋が前に進み出て弔事を述べ始めますが、今度は馬子が緊張しまくっている守屋に向かって罵声を投げつけました。

鈴を付けたらさぞ面白かろうな

物部守屋が緊張でフルフル震えながら弔事を述べていたことをバカにした暴言ですが、こんなしょうもない子供じみたケンカを国家のトップ層が繰り広げていた訳です。そんなくだらない出来事の後に次代の天皇の即位式に移りますが、この時即位した用明天皇は馬子の姉に当たる母を持つ、蘇我氏との関係性が非常に深い天皇でした。

穴穂部皇子と物部守屋を排除

蘇我氏寄りの血筋を持つ用明天皇が即位したことで、物部守屋を始めとする廃仏派は微妙な立ち位置に置かれました。用明天皇が病気になった際にも仏法を祀ることを自ら蘇我馬子に要求、この頃にはすでに群臣達も崇仏派に傾き始めており、物部守屋や中臣勝海といった廃仏派の反対もガッツリと押し切っています。そして用明天皇の病が悪化しそのまま亡くなってしまうと、次代の天皇の座を巡って争いが起きています。

用明天皇の治世で周囲の支持を失いかけていた廃仏派と物部守屋は、用明天皇の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのおうじ)を天皇に据えることでの巻き返しを図りました。しかしこの物部守屋の動きはすでに馬子によって察知されており、馬子は先手を打って穴穂部皇子を殺害、さらに黒幕となっていた物部守屋を討伐するために群臣達に声を掛け、大軍を用意して物部氏の本拠へと押し寄せました。

穴穂部皇子を失った上で大軍を差し向けられた物部守屋でしたが、さすがに物部氏は軍事に長けた氏族ということもあり、馬子の軍に対して徹底的な抗戦を続けました。とは言え物部氏単体の軍力と群臣総出での軍力の差は大きく、結局物部守屋は戦いの中で弓で射られて戦死しました。こうして中心人物がいなくなったことで廃仏派は完全に沈黙し、崇仏派を率いていた蘇我馬子の大勝利に終わっています。ちなみにこの戦いが始まる前には後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)により、戦勝祈願のために四天王像を彫ったことが伝えられています。

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崇峻天皇暗殺事件

ライバルだった物部尾輿を打ち倒した蘇我馬子は、用明天皇同様に自身の甥に当たる崇峻天皇を即位させました。ここで馬子は崇仏論争が崇仏派の勝利で決着が付いたこと、そして自身が崇仏派の第一人者であったことをアピールするため、法興寺(現在の飛鳥寺)という大寺院を建立しています。

蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺

一方、馬子の猛烈な後押しがあったことで即位した崇峻天皇でしたが、自身が天皇という最高の地位にあるにも関わらず、政治の実権を蘇我氏に握られている状況に不満を持っていました。馬子に対して即位の手助けをしてもらったことに感謝を抱きつつも、やっぱり自分の手で政治を取り仕切ってみたいという想いは日に日に大きくなったようで、ついつい周囲の人に愚痴をこぼしてしまったそうです。ところがこの崇峻天皇の愚痴を聞きつけた馬子は即刻行動、とある儀式の真っ最中に部下に命じ、崇峻天皇を暗殺するというとんでもない事件を引き起こしました。

日本でも結構な数の暗殺事件が起きていますが、現職の天皇が暗殺されたケースは崇峻天皇が日本史上で唯一となります。ところがこんな大事件に対しても朝廷内では馬子の関与について全く追求されておらず、その後の活躍ぶりを考えればむしろ朝廷貴族たちの同意があった可能性すらあります。この事件は飛鳥時代当時の天皇という地位がそこまで絶対的ではなかったことを意味してもいますが、蘇我馬子という人物がいかに周囲の人々の心をガッチリ掴み、掌握していたかを示しているとも言えるでしょう。とはいえ他人の愚痴を聞きつけただけで暗殺に及んでしまったという、デリケートすぎる馬子さんのお話です。

推古天皇の即位と聖徳太子の摂政就任

またも敵となる(愚痴だけですが)人物を葬り去った蘇我馬子でしたが、病気やら暗殺で適正な年齢の皇族がいなくなってしまったため、敏達天皇の后になっていた女性を史上初の女帝・推古天皇として即位させました。この推古天皇は用明天皇の妹に当たる人物ですので、やはり馬子の姪に当たる人物です。とはいえさすがに女性に政治を取り仕切らせるのもどうかということで、用明天皇の長男であり推古天皇から見たら甥に当たる厩戸皇子を皇太子に押し上げ、そして摂政に任命し政治に参画させました。蘇我氏・天皇家の系図については画像でどうぞ。

蘇我馬子関連の系譜図

この厩戸皇子は摂政就任後に様々な政治改革を実現しており、後にその功績を称える形で贈られた「聖徳太子」という称号で親しまれています。この聖徳太子が活躍しだすと共に馬子に関する記録はビックリするほどなくなっており、逆に聖徳太子が亡くなると共にちょっとだけ馬子に関する記録の量が復活しています。それはまるで馬子が聖徳太子に成り代わったかのようで、「蘇我馬子=聖徳太子」説も結構真剣に取り沙汰されていたりします。

蘇我馬子と聖徳太子の同一人物説についてはこちらからどうぞ。

聖徳太子が主導した政治改革や外交についてはこちらからどうぞ。

推古天皇と摂政の聖徳太子、そして大臣を務める蘇我馬子の3人により、もはや誰も口出しできない程強固な政治体制が出来上がりました。そんな中で聖徳太子は「冠位十二階」や「十七条憲法」といった先進的な政策を打ち出し、また遣隋使として小野妹子を派遣するなど外交にも手を出しています。そんな偉大なる聖徳太子が亡くなって6年後、馬子もひっそりと息を引き取りました。当時としては珍しい70歳を越える年齢まで生きた蘇我馬子にとって、大繁栄期を迎えた蘇我一族が滅亡するなんて想像すらできなかったでしょう。次回記事では、絶対的権力を持った蘇我氏が蘇我蝦夷・入鹿親子の代に遷り、どんな結末を迎えたかをご説明したいと思います。

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