日本の国号とアイデンティティを作った人物・聖徳太子

聖徳太子の肖像 その他考察
聖徳太子の肖像

日本という国を「作り上げた」人物・聖徳太子

この国の国号「日本」は聖徳太子に由来しています

聖徳太子といえば多大な業績を残した人物として知られていますが、実際に何をしたかは意外と知らない人が多いのではないかと思います。割と「お札の図案になったくらいだし偉いんだろうな」程度の感覚だったりしますが、対外的には日本という国の存在感を示し、国内では法制度を整備し国の土台を作るという、国内外を対象として様々な仕事を行っています。そしてそもそも日本という国名は太子が隋に送った国書が由来となっているため、日本という国のアイデンティティを作り上げた人物とも言えるでしょう。

歴代の千円札の写真
こちらは千円札ですが聖徳太子は五千円札・一万円札にも

とは言え研究が進んだ現代では、他者の功績を太子が行ったことにしたという説や、聖徳太子という人物が架空の存在だったという説まで存在しています。あまりにマルチな活躍をし過ぎていてそんなたくさん出来る訳ない、ということで人物の存在そのものに疑惑が掛かったということですね。実在すら危ぶまれる人物ですが、この記事ではいたものとしてその業績をご紹介したいと思います。聖徳太子という人物の背景や実在説・他者との同一人物説についてはこちらからどうぞ。

蘇我氏という協力者との仕事

聖徳太子が布いた代表的な政策として「十七条憲法」と「冠位十二階」の制定が挙げられますが、どちらも過去の中国王朝の政策を日本風にアレンジしたものとなっています。要するに2つの政策は日本オリジナルではなく海外からの輸入加工品であるため、国外との関係性が非常に薄い時代においても「輸入できる」環境があったことになります。

このことは太子が当時の朝廷内を牛耳っていた蘇我氏と、血縁に由来する協調路線をとっていたことに深く関係しています。蘇我氏は代々外交など国外との仕事を職掌としており、中国や朝鮮半島の情報を集めやすい立場にありました。そのため蘇我氏が政治の表舞台に躍り出て以降、降って湧いたかのごとく大陸の文化が急速に流入しています。そういった蘇我氏が築き上げた土台があったからこそ、摂政に就任した聖徳太子も仕事をしやすかったのだと思われます。また当時の天皇・推古天皇も蘇我氏に近い血統を持つため、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の強力打線で反対意見を押し切り、数々の改革を進めることができた訳ですね。そんな前提を踏まえた上で、聖徳太子が行った事績をご紹介したいと思います。

蘇我馬子についての記事はこちらからどうぞ。

聖徳太子の政策

頑張り次第で出世できます・冠位十二階

飛鳥時代当時の政治制度では、蘇我氏や物部氏を始めとした有力豪族が朝廷内の上位を占め、世襲でその地位が受け継がれていく慣習がありました。この制度はすでに利権を持っている有力豪族ほど有利であり、持ち前の権力で維持しておけば子々孫々まで安泰ということになります。ですが逆に言えばこの制度では有力豪族たちが太り続けるだけとなり、「生まれは良くないけど優秀」な人物にとって、いくら頑張っても出世はノーチャンスとなっていました。そんな制度ではやる気なんか出ないよね、という状況を打破するために、聖徳太子は「冠位十二階」という制度を定めています。

この制度はあらかじめ氏姓に与えられた特権とは別に、朝廷内での序列を表す「冠位」を「功績に応じて」与えるという仕組みです。そして冠位は世襲で子供や孫に「引き継がれない」ため、高い位を手にするためには個人個人の頑張りが必要となり、家柄にアグラをかいている人は出世できないことになります。これまでは氏姓という生まれた家柄でのみ序列が決まっていましたが、能力と頑張り次第で出世の機会があるこの制度は、家柄でガチガチに固まっていた当時としては非常に画期的なシステムと言えるでしょう。

氏姓制度についてはこちらからどうぞ。

この冠位制度は冠を位ごとに色分けするという制度のため、初対面でも一瞬で相手の位がわかるというメリットもありました。一目で相手の位がわかることは不要なトラブルの回避にも繋がるため、日本国内の秩序構築にも役立ったことでしょう。身分の低い氏族の出身者が高い冠位を得た例もあるため、少なくとも聖徳太子が管理していた時期はかなり健全な体制をとれていたものと思われます。

日本で最初に施行された憲法・十七条憲法

令和時代にも適用される日本国憲法は100条を越える条文から成り立ち、基本的人権の保障やら国政機関の在り方など様々なテーマが網羅されています。ですが飛鳥時代に制定された日本最初の憲法には小難しい内容はあまりなく、根本的な考え方や人との付き合い方など、道徳的なことがメインテーマとして制作されています。

「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」

上の引用文は「十七条憲法」の第1条ですが、「人との和を大切にして他人と争うようなことはしないよう」に、「上の者と下の者がキチンと論じ合うことで、どんなことでも成功する」という、ものすごくマイルドな条文が記されています。議論の重要性を説くこの条文は、独断で物事を進めるのを嫌う傾向がある「日本の精神」とも言えるのではないでしょうか。また第2条には「三宝(仏・法・僧を敬うように)という条文、そして第4条には「身分が上の者も下の者も必ず礼を持つように」といった内容もあるため、当時すでに中国から流入していた「儒教」や「仏教」にも強く影響されていたようです。

小野妹子を遣隋使として派遣

「天子」に対して「天子」を名乗る

聖徳太子の行った制度改革は後世においても高い評価を受けていますが、逆にこの遣隋使の派遣については割と賛否両論だったりします。そもそも遣隋使派遣は日本を独立国家として中国・随に認知させることにありましたが、当時の隋の皇帝「煬帝(ようだい)」に国書として送った文書は日本を独立国家として認めさせるどころか、怒りを買って使者の小野妹子が追い返される始末でした。

「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」

上の引用文にある聖徳太子が送った国書の書き出し文は、日本と随の対等な関係を求めたものとしてかなり有名です。ですがこの文には随の「煬帝」だけでなく、中国や周辺国の感情を完全に無視した内容が含まれていました。

「天子」は常に一人だけ

中国の紀元前1000年頃に成立した周王朝では、王とは「天帝の子として人々の統治を認められたたった一つの家系の長者=天子」と定められ、それ故に世襲で王位を受け継げるという理屈が成り立っていました。ただし「その家系が徳を失った場合には別の家系がその役割を引き継ぐ」という謎のルールもあり、このルールがあるからこそ王朝が交代しても歴代の皇帝は「天子」を自称し続けた訳です。となると「天子」は世界で唯一人しかいないことになるのですが、聖徳太子が送った国書では日本の天皇も「天子」扱いしているため、「煬帝」からすれば「天子の重みも知らんクセに勝手に名乗るな!」といったところでしょうか。

同じ「煬帝」が怒ったという内容でも、「日没する処の天子」が原因とされている説が世間では多く見られます。もちろん日没という悪い印象のワードを「煬帝」に当てたこともマイナスだったのでしょうが、使ってはいけない「天子」という単語を使ったことの方は完全にアウト案件でしょう。また歴代の中国王朝は多くの冊封国を抱える超大国だったため、「天子が天子に手紙書いてます」という対等感を匂わせたことも相当ヤバい書き方だったりします。聖徳太子が中国王朝のことをどれくらい把握していたのかはわかりませんが、結果を見る限りではあまり分かっていなかった可能性が高い気がします。むしろ全てを知っていた上で随の皇帝にブッ込んだ可能性も無くはないですが、だとすれば強気という言葉すら生ぬるい程の狂気じみた決断だったと言えるでしょう。

煬帝のイラスト
煬帝さんもビックリの内容です

またブッチギリで広大な領土面積を持つ中国からすれば、対等な外交関係を持つべき国など一つも存在しません。そのため朝鮮といった中国の周辺国は例外なく、擬似的な従属を意味する「冊封関係」を結び自国の安定を目指しました。そういった意味でも聖徳太子の国書はあり得ない内容であり、「煬帝」からすれば「天子」の件を無かったことにしても到底受け入れられない内容だった訳です。

ちなみにこの国書は随の官僚達にとってもあり得なさすぎる内容だったため、色々と手直しが入った上で処理されることになりました。この結果「日本の朝廷は随の冊封体制に入っていない」と認識していましたが、随は「日本が冊封体制に入った」と認識するという意味不明な結果に終わっています。ただ幸いなことに頻繁に人が行き来できる距離ではなかったためか、両国の認識だけがズレたままフンワリとした関係が続いています。そしてこのズレた関係は随が滅んで「唐」王朝が興った後も引き継がれ、両国の官僚達、特に日本の外交官はそのズレを上にバラさないようにするという不毛な努力をすることになります。

遣隋使についてはこちらでより詳しくご説明しています。

少女漫画な画風ですが男性でも普通におもしろいです。

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小野妹子が持ち帰った「箸」の奨励

政治!軍事!外交!宗教!とスケール大きめなところから急に地味なテーマではありますが、聖徳太子は宮中での箸の使用を奨励したことも伝えられています。この箸という道具は先にご紹介した「煬帝」に追い返された遣隋使こと、小野妹子が随から持ち帰り聖徳太子に献上しています。聖徳太子が宮中という日本の頂点となる場でわざわざ推進したということは、要するに当時はまだ箸を使うことが普及しきっていなかったのでしょう。この見出しの内容は、若干筆者の推測が混ざっておりますので、ふんわりと「そうなのかもね~」くらいに受け取っていただけたら幸いです。

日本での箸の歴史は非常に古く、実は古事記における日本神話の中にも箸に関する記述が残されています。それでも箸が普及しきっていなかったのは、当時の食べ物が米といった箸で食べやすい物だけでなく、魚肉や獣肉もメインに据えられていたためでしょう。ですが飛鳥時代当時の食文化では一口サイズに食材を切るということもなかったため、そこそこ大きい肉の塊を箸で食べるというのもなかなか難しく、箸の普及には至らなかったものと思われます。そして朝鮮半島の百済や中国の隋との国交を経て調理の文化が流入してきた結果、ようやく箸の使用を促せる状況が整ったのではないでしょうか。また仏教が日本に普及していった結果、獣肉食をする慣習がなくなり、基本的に細かく切りやすい菜食の文化が浸透していったことも要因の一つでしょう。現代の我々が当たり前のように箸でご飯を食べているのも、聖徳太子を始めとして色々な人の努力でようやく成り立っていると思うとちょっと感慨深いものがあります。

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