「日本史」の編纂者 ルイス・フロイス | 織田信長の記録を残したイエズス会宣教師

安土桃山時代の人物録
ルイス・フロイスの墓碑

今回の記事では、はるばるポルトガルから来日し、日本で生涯を終えたキリスト教宣教師・ルイス・フロイスについてご説明したいと思います。

ルイス・フロイスが来日したキッカケ

フランシスコ・ザビエルとの出会い

16歳にしてカトリック教会のイエズス修道会に入会したルイス・フロイスは、入会直後に当時ポルトガルの拠点となっていたインドのゴアに赴任しました。この時ルイス・フロイスは日本に出発する直前のフランシスコ・ザビエル、そして日本人初のキリスト教洗礼者・ヤジローとの出会いを果たしています。

この後ザビエル司祭とヤジローは日本へ向かい、キリスト教はじわじわとその勢力を広げていきました。ちなみにこのヤジローという人物は薩摩国出身の立派な日本人なのですが、若い頃に人殺しをして国外逃亡し、後期倭寇に参加している間にインドに流れ着いたというなかなか破天荒な経歴の持ち主でもあります。

倭寇についての記事はこちらからどうぞ。

フロイスは日本に興味津々

インドのゴアに残っていたルイス・フロイスは語学や文筆の才能を活かし、各地で布教活動を行っていた宣教師達との通信に携わっていました。もちろんフランシスコ・ザビエルやヤジローとも連絡を取り合っていたのですが、その中でルイス・フロイスは日本への興味を募らせていたようです。

という訳で31歳になると自ら志願して長崎へと上陸、なんか凄まじい行動力だなとか思ってしまいますが、無事に来日を果たしました。そしてルイス・フロイスは長崎で1年かけて日本語や文化を学び、当時の日本の中心地と見なされていた京都へと向かいます。

来日してからのルイス・フロイス

京都入りしてすぐに永禄の変

この頃の情勢として、京都は三好義継や三好三人衆によって統治されており、室町将軍は13代・足利義輝が就任していました。この足利義輝はすでに京都でのキリスト教布教を許可していたため、ルイス・フロイスもすぐに布教活動を開始しています。ところがルイス・フロイスが京都で布教を始めてから半年も経たないうちに永禄の変が起き、宣教師達の保護者となっていた足利義輝が暗殺されてしまいます。

保護者を失った宣教師達は三好三人衆によって京都を追い出され、当時自治都市となっていた摂津国の堺へと避難しました。その後ルイス・フロイスは3年程の期間を堺で過ごしますが、織田信長が上洛したことで大きく風向きが変わることになります。

永禄の変と織田信長の京都上洛の道のりはこちらからどうぞ。

京都の新たな支配者・織田信長との謁見

三好三人衆を京都から追い出した織田信長は足利義昭を将軍に仕立て上げると、自身を幕府体制の中心に据えて自ら京都の統治に乗り出しました。するとルイス・フロイスと宣教師達は自分達の脅威が去ったことを知り、新たな統治者に布教許可をもらうために京都へ戻ります。

ルイス・フロイスは織田信長との謁見し、ヨーロッパや東南アジアの情報を提供した見返りに、キリスト教の布教許可を取り付けました。もっとも当時の織田信長にとっても、「金儲けばっかで武装までしてる仏教って要る?」くらいの疑問はあったものと思われます。

織田信長と比叡山延暦寺が争った経緯はこちらからどうぞ。

宣教師としてキリスト教の布教活動

布教許可を受けたイエズス会宣教師は織田信長の後ろ盾を背景に、畿内で一般民衆だけでなく大名や地方領主も対象として精力的に信徒を増やしていきました。織田信長同様に利権を追い求める仏教に疑問を持った人や、純粋にキリスト教の教義に心酔した人などを取り込み、信徒数が急速に増加していきます。ソースがないため信憑性はかなり薄いのですが、筆者は戦国時代末期には日本人口の10%がキリスト教信者だったという記事を読んだことがあります。かなり大袈裟に盛っている可能性も否定できないのですが、日本での急速な普及が感じられる数字ではありますよね。

またポルトガルとの貿易を望んだ戦国大名は、貿易で儲けるためのキッカケ作りとしてキリスト教に入信します。ポルトガルとの貿易はインドや東南アジアの拠点を経由して行われたため、貿易のために地理的に優位性のある九州では多くのキリシタン大名が誕生しています。

宣教師と織田信長との間の架け橋に

九州で多くの人をキリスト教に改修させたルイス・フロイスは、他の宣教師が来日した時の通訳としても活躍を続けました。もともと織田信長とは面識があったこともあり、来日したばかりの宣教師を引き合わせたりもしていたようです。

ちなみにルイス・フロイスは安土城天守閣にも登ったことがあるようで、この時はやはり宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノを引き合わせた際の通訳を務めていました。このヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価していたようで、それ故に天正遣欧使節を企画したとのことです。

16世紀に西欧に渡った少年達・天正遣欧使節

本能寺の変が起きてから記録事業を開始

本能寺の変が起きて織田信長が倒れた後、ルイス・フロイスはイエズス会から宣教師としての布教活動ではなく、イエズス会の布教用の資料として宣教師の活動記録を残すよう指示を受けます。元々文筆に才能を持っていたルイス・フロイスはこの記録事業に全力を傾け、全国を回って見聞を広げながら日本のことを書き記していきます。

キリスト教を日本に布教するための資料として作られ始めたルイス・フロイスの文書は、当初の目的から大きく外れ、ただの日本の歴史書となっていきました。ですが日本に強い興味を持ってしまったルイス・フロイスの好奇心は止まらず、豊臣秀吉のバテレン追放令が出た後も日本に居座り続け、各地での見聞を記録に残し続けます。

このルイス・フロイスの記録は布教用資料として使えない上にあまりに膨大な量だったため、長いこと誰からも関心を持たれることなく放置され続けます。そして18世紀中頃まで150年もの間放置された後に、発見という形で再評価されたルイス・フロイスの記録は、「日本史」というタイトルに改められヨーロッパで出版されるに至ります。

豊臣秀吉のバテレン追放令

ルイス・フロイスを始めとしたイエズス会宣教師と、織田信長に成り代わった豊臣秀吉との関係は当初は良好を保っていました。豊臣秀吉は織田信長同様にキリスト教にさして関心を持たなかったようなのですが、ポルトガルとの貿易は非常に大きな利益を生み出すため、経済的なメリットを優先する形でキリスト教を容認していました。ですが豊臣秀吉は九州討伐に向かった折に、長崎で起きていることを知り方針を急転換させます。

当時の長崎はキリスト教信者が多数派となっており、旧来の仏教徒は異端者扱いされるという異様な都市となっていました。宣教師はポルトガル軍と手を組み長崎を要塞化し、軍事拠点として日本を植民地化するという恐ろしい計画まで立てられていたようです。そして多数派となっていたキリスト教信者は宣教師と共に仏教徒を排除するため、仏教徒を奴隷としてポルトガル貿易船に売却するという非道な行為が行われていました。

この事実を知った豊臣秀吉は激怒し、「バテレン追放令」という法令を定め宣教師を日本から追放、キリスト教の拡大を防止する方針に転換します。当然ながら奴隷売買を始めた宣教師の入国は認めず、またイエズス会によって統治されていた長崎を制圧し、領土として自国に再編成するという措置をとっています。

バテレン追放令の詳しい事情についてはこちらから

ですがバテレン追放令では民衆に対して信教の自由は認めており、民衆が自発的にキリスト教を信じることは容認するというスタンスをとっていました。また豊臣秀吉はポルトガルとの貿易はやはり捨てられなかったようで、宣教師はNGだけど貿易船はOKという、ちょっと中途半端な施策だったようです。当然のように宣教師は貿易船に紛れ込み、こっそりと布教を続けたため水面下でキリスト教徒が増え続けることになります。

また「バテレン追放令」ではキリスト教信者となっていた各大名に対しても改宗するよう命じており、多くのキリシタン大名がここでキリスト教を諦めています。ですが高山右近というキリシタン大名はどうしてもキリスト教を捨てることができず、秀吉に大名としての地位とキリスト教への信仰とでどちらを選ぶか選択を迫られた挙げ句、地位を捨てて一般庶民になるといったハプニングも起きています。(高山右近は後に徳川家康によってフィリピンへ追放されています。)

ルイス・フロイスの「日本史」と「日欧文化比較」

ルイス・フロイスが(半分趣味で)記録した「日本史」には、戦国時代の「客観的な」日本の記録として多くの事実が記されています。戦国大名の動向から一般民衆の習俗、また災害や地理の特徴に至るまで、ヨーロッパ人の目線を通して記述されています。

基本的に歴史は勝者を正義として描かれることが多く、勝者にとって不都合な事実は揉み消される場合がほとんどです。もし勝者にとって後ろ暗いことが書かれた記録が見つかったなら、政権の維持のために全力でなかったことにされるでしょう。そういった中で日本について客観的な目線で書かれた「日本史」は、当時の状況を知るための貴重な資料として現代にまで伝わっています。

なんとなく達筆感もあります

またルイス・フロイスは「日欧文化比較」といったなかなか興味深い書作も残しています。この「日欧文化比較」では、日本とヨーロッパ文化の明確な違いに言及しています。

「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉は避ける。

日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、最も重んぜられている。」

曖昧さを尊ぶ文化というのは日本ならではの文化なのでしょうが、我々日本人としては当然の感覚でもあります。ルイス・フロイスはそんな日本で30年という長い年月を過ごし、母国に帰ることなく結局日本の長崎で亡くなっています。明瞭さを重要視するヨーロッパ人のルイス・フロイスにとっても、日本は居心地よく過ごせる環境だったのかもしれませんね。

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